私は、現代政治や戦争のパワーバランスの専門家ではない。だから現在進行形でこの事態がこれからどう展開するのかについては、ただただニュースを見て解説を聞くだけである。
しかし、私は自然人類学者だ。ヒトという生物の本性について研究している学者である。この際、私が何か言えるとすれば、ヒトにおける攻撃性の進化と、集団間の戦争が起こる条件についてだろう。
***
振り返れば、1960年代から70年代にかけて一般的に問われていたのは、「ヒトという生物は本能的に戦争するようにできているのか」ということだった。戦争とは、同種の個体が集団間で行う、致命的な攻撃行動である。第二次世界大戦の悪夢はまだ記憶に新しく、それに続く冷戦で、いつ核のボタンが押されるかという緊張があった時代だ。
その中で、アフリカに生息する野生チンパンジーの研究を行っていたジェーン・グドール氏が、チンパンジーたちが集団同士で殺し合うことを報告した。チンパンジーは、私たちヒトにもっとも近縁な生物である。私たちは、このような同種個体間に起こる攻撃的性質を、生物として受け継いでいるのだろうか?
これは、本質的に問いの立て方が間違っていたのだと思う。攻撃、とりわけ同種個体間での致死的な攻撃性が、生物として本能的に備わっている、ということはない。そうではなくて、生物は誰であれ、自分自身を取り巻く環境の中で、利害が対立する同種の他者と戦わねばならない状況がつねにある。そういう時に、攻撃行動をどこまでエスカレートさせるのかは、相手がどう出るのかという、相手の戦略に依存するのだ。これは、ゲーム理論的状況である。
ゲーム理論とは、自分と相手との間に、ある状況において取り得る行動選択肢がいくつかあり、自分が一つの選択肢を取り、相手もまた―つの選択肢を選んだ時、双方の利益と損失がどうなるかを分析する理論である。例えば、「とことん攻撃」という選択肢もあれば、「いい加減で引く」という選択肢もある。どちらにも、それぞれの戦略を取り、相手がどちらかの戦略を取った場合の利益と損失がある。自分が「とことん攻撃」戦略を採用し、相手が「いい加減で引く」戦略を取ってくれれば、それは自分が勝つだろう。しかし、相手も「とことん攻撃」戦略を取るのであれば、双方の損失は増加の一途をたどる。こんなことなら、「いい加減で引く」戦略を取っていた方がましだ。では、どこに落ち着くか。
***
こうして、高い攻撃性が備わった動物であれば仲間に対しても攻撃が起こり、そうでなければ攻撃はない、といったシナリオは無効であることがわかった。生存のためには、誰でも攻撃性を備えているのだが、それがどのように表出されるのかは、社会関係の状況によるのである。
さらに、戦争という問題になると、個人対個人の攻撃の話ではなく、集団対集団の攻撃の話である。集団が、自分たちの集団としてのアイデンティティーを持ち、その内部で結束して、他の集団と対決するのである。これができるにはかなりの認知能力が必要だし、そんな攻撃が有利になるような事態も、動物界でそれほどあることではない。
ヒトにおける戦争が、「ヒトに生物学的に備わっている本能的性質によるものなのか」という問いは無意味だ。集団間にどのような利害対立があるのか、それを解決するためにどれほどの攻撃を用意するのか、自集団はどれだけ結束できるのか、といった問題の集合の結果として、戦争という行為が選択されるのかどうかが決まる。昨今は、その選択をする指導者はいなかったのだが、今回は?
⇨長谷川眞理子の論説は生物学的行動結果 すなはち先天的な本能習性や それが生ずる環境条件という「結果」だけで全てを説明しようとしている
「戦争という問題になると、個人対個人の攻撃の話ではなく、集団対集団の攻撃の話である。」というのだが 集団であろうと個人であろうと「ヒト」が引き起こしていることに違いなどなく 「戦争だから個人の人格は関係がない」という話は根拠がない
生物は誰であれ、自分自身を取り巻く環境の中で、利害が対立する同種の他者と戦わねばならない状況がつねにある。そういう時に、攻撃行動をどこまでエスカレートさせるのかは、相手がどう出るのかという、相手の戦略に依存するのだ。これは、ゲーム理論的状況である。
長谷川は全てが「相手の戦略に依存する」と論じている
これはつまり 「悪いのは俺じゃねぇ 俺が暴力攻撃をするのは俺以外の環境要因によって全てが決定する」と言っているのと同義である
イヌやチンパンジーならこの話は正当性があるだろう しかし ヒト同士の暴力の応酬 戦争の話に野獣の正義を持ち込むのはヒトの自律的な社会的責任判断能力を無視した「理性を欠いた暴力者の屁理屈」にしかならない
環境条件に応じて先天的に決定している本能欲望のままにしか行動が決定しないというのであれば これはただのバカでしかない
日本大学の組織腐敗において 「相手が集団多数だから権力を振りかざしてくる封建的独裁体制には逆らいたくない(主観的情動)」からこそ 組織の個人の誰も逆らわず 唯々諾々とバカみたいに組織腐敗を傍観放置したことに対して「環境条件が悪い」「組織の体質が悪い」「頭から腐る(トップが悪い)」と称して組織を構成している個人には何の責任もないかのように解釈するのと同じである
「生存価」のみを「目的」とみなす「既存の生物学的正義」においては 暴力的腐敗組織だろうが何だろうが「怖い危険な相手には逆らわない方が賢い」という話になってしまうが 生物というものの存在そのものも 遺伝的進化も全ては「結果」であって 合理的な「目的」など存在していないのである
大衆観念上では ただ漫然と生活し 子供を産み育てさえすれば自動的自然に遺伝的進化が促されるもののように錯覚しているが
漫然と繁殖しているだけでは遺伝的進化は促されることはないのである
遺伝的に何かの能力 形質や習性の進化が促されるためには 環境から受ける淘汰圧力によって多くの犠牲に基づく収斂が必要であり 現代社会のように先天的疾患があっても平等に扱うことを旨とした環境下においては遺伝的進化なんぞ起こるわけがないのである
遺伝的進化というものは バクテリアからヒトにまで進化を促した「凄い」ものではあるが ヒトでありさえすれば人間性や倫理を発揮するという保証なんぞ存在していないのであって だからこそ戦争などという「人災」が引き起こされてしまうのである
「凄い」かどうかは主観的感想や印象に過ぎず 論理客観的には「どうでも良い話」である
そもそも「ゲーム理論」で戦争を語ろうとすることそのものが不謹慎であり 「勝てそうなら仕掛けた方が生存にとって有利」なら戦争などの暴力の全ては正当化されてしまうのである
「殺さない程度になら殴っても 怒鳴り散らして威嚇しても 人間性だ」などという話はあまりにバカげていて こんな話を鵜呑みにできるバカが存在していることそのものが私には信じがたい「事実」ですらある
こういった「生存絶対主義」というものが従来の生物学におけるカルト性や非合理性の源となっているのである
「生き延びるかどうか」というのは 過酷な自然環境下における弱肉強食の生存競争であって 「誰一人として取り残さない」という合理的「目的」行動選択基づいた人道的観点とは相容れない「野獣の正義」であり 自然界における「結果」以上の何ももたらすことはない
「生存のためには、誰でも攻撃性を備えている」からといって 攻撃性が正当化できるわけではない
先天的本能習性としての攻撃性というものは 自分では選ぶことの出来ない「欲望」であって 「欲望そのものを欲することはできない」のであって 「欲望」はそれだけでは論理客観的根拠を伴った「目的」行動選択の論証にはならないのである
ヒトは先天的攻撃性や競争への欲求を 直接的暴力ではなくゲームなどの「遊び」として楽しむことで満足させる術を発明したのであり 勝ち負けだけを楽しむフォートナイトのような銃火器で殺し合うゲームには人気があり 多くのヒトは「楽しい」と思ってやっているのである スポーツも多くが「競技」であって 競い合うことで勝っても負けても楽しめることに主観的価値があるのであって スポーツ競技やゲームでいくら良い成績を出しても 金儲け評価にはなるとしても社会的(客観的)には何の役にも立たないのである
先天的な攻撃性や暴力性というものは 祖先の生息環境における「生存価」においては意味を持っていたとは言えるものの それは全て「結果」であって 「死んだら愚か」という理屈にもならないし 「生き延びさえすれば賢い」という話にもならない
「進化は賢い」などという話は 結果に過ぎない現存生物だけから導き出した論理的根拠のない決めつけであって 「*生存バイアス」に基づいた錯覚に過ぎない
*生存バイアス
↗爆撃機の装甲を厚くすべきなのは「対空砲火を受けた場所」と「受けていない場所」のどちらか? -president online
「攻撃、とりわけ同種個体間での致死的な攻撃性が、生物として本能的に備わっている、ということはない。」と長谷川は主張しているが この話には論理客観的根拠や証拠が提示されていない
元京都大学学長の山極寿一もまた「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという科学的根拠のないデマで人気を集めていたが
生物学者というのは根拠のないデマであっても衆愚マスコミが主観的に「信じたい話」を展開することによって衆愚人気を集めることの中毒に陥っており また 大多数の衆愚マスコミも科学的な論理客観的証拠や根拠などには全く興味を持たずに 権威肩書の主張を何の疑いも持たずに唯々諾々と鵜呑みにして満足しているのである
これは集団洗脳状態でしかない
「生存価」だけを論ずれば 先天的疾患や障害を持った人は経済的負担にはなることには間違いはないのであるが そもそも「経済」とは 「経世済民(世を経って民を救済する)」ことが目的であって 先天的に健康な奴だけが富を独占するためのものではないのである
自然界における生態系のバランスにおいても 弱肉強食の生態系のピラミッドにおける頂点となる肉食獣が環境資源を喰い尽くす程繁殖してしまえば生態系は崩壊するのであって ライオンは西表島には適応できない
ライオンは あくまで環境資源の豊富なアフリカのサバンナに適応しているのであって 環境に適応しない過剰な捕食能力や繁殖能力は生態系ごと死滅を招き淘汰の対象となるのである
現在の自然環境における生態系バランスというものは 過去の進化の過程において生態系バランスを獲得できなかった個体種の全てが生態系ごと死滅した結果であって 生態系の恒常安定性というものも遺伝的進化のアルゴリズムに則ったプロセスの「結果」でしかなく 恒常安定性を獲得できなかった個体種の全てが死滅した結果 生態系の恒常安定性を持った個体種だけが現存しているのであって その進化過程のプロセスを全て無視して「自然任せにしときゃ 何でも恒常安定性が獲得できる」というような都合の良いものではないのである
衆愚観念上では オーガニック信仰のようなものがあるが これは人工的な物質の危険性ばかりが「人災」として採り上げられるためであって 人工的に新しい物質を作った際には危険性の確認が難しく 自然界にある既存の物質のように 何が危険で何が安全なのかの経験則的知見が乏しいことが原因であって
自然物なら何でも安全なわけではないし 人工物の全てが危険なわけでもない
イヌサフラン(コルチカム)やスイセン ゼフィランサスなどの有毒植物は数多あり 実際に誤食事故は毎年起きている
日常食べている豆類に関しても 加熱や乾燥などを経ていなければソラニン毒があり 青梅には青酸毒が含まれており リンゴも種には毒があるという
フグのテトラドトキシン毒は有名だが そもそもあらゆる食物は腐れば腐敗菌による毒が生じるものでもある
遺伝的進化という自然現象に対する異常なまでの盲目的信仰は 科学的根拠のないデマであって 「進化で月経の痛みがなくならないのかしら」などというバカみたいな話が出てくる時点で 衆愚は遺伝的進化というものを全く理解していないのであって 「科学を信じている」とは言うものの 実態は「学術権威肩書を盲目的に信奉している」だけなのである
たとえ学力偏差値が高く 医師免許を持っている大手町の医者や 日医大の特任教授であっても遺伝的進化を理解しているわけではなく 無責任に「ウイルスは弱毒化する」などと言い出すものである
「宿主が死んでは困るから 環境に適応した変異だけがどんどん起こる」などという「解釈」は 遺伝的進化のアルゴリズムに基づいたプロセス過程の全てを無視した都合の良いこじつけでしかない
「宿主が死んでは困る」などという後天的都合は遺伝的進化には影響を及ぼすことはなく 変異の全ては常にランダムであり 「ヒトが殺し合いをしなくなる」ようにも「環境と調和して持続可能な社会が構築できる」ようにも遺伝的進化は生じることはないのである
遺伝的進化というものは 先天的な情動や本能習性による行動バイアスしか促すことはない
ヒトが生活習慣病に陥りやすいのは 祖先の生息環境の影響であって ヒトが日大や東電やロシア政府やミャンマー軍事政権のような腐敗組織に陥りやすいのも 先天的な「社会性(封建的順位序列による社会形成習性)」に起因するものであって 「社会的生活習慣病」とも言えるものである
遺伝的進化という「結果」は 「ヒトは生活習慣病に陥りやすい」という「結果」以上の何も論ずることはできない
「ヒトが先天的にバカである」ことを進化的に規定することは可能だが 「ヒトはバカにしかなれない」ことの論証にはならない
「ヒトは先天的に暴力で解決だと錯覚するものである」とは規定することは出来ても 「錯覚を錯覚だと理解認識して暴力性を抑制することが絶対に不可能である」ことの論証にはならない
遺伝的進化によって ヒトが過剰な塩分や糖質脂質を欲さなくなるようにはならないが ヒトは欲望を制御する術も持っているのであって 「オノレはカブトムシと一緒だから 先天的本能習性には抗えない」などというバカ丸出しな話は論外である
「ヒトは進化的に戦争をしない」かのように言っておけば 衆愚マスコミは人気を集めて金儲けにはなるのだろうが
それはヒトという種の生物が主観的に「信じたい話」ばかりを信じようとする習性を利用した人気取りにしかなっていない
気分的に安心満足さえしておけば その話が本当に安全性や信頼性を持った真理かどうかは ヒトは先天的には興味すら持たないものなのである
ヒトがなぜ盲目的洗脳状態に陥るのかと言えば それは気分主観的に安心満足感が得られる「信じたい話」ばかりを信じようとするという 先天的な思考バイアス(無意識)が働いているからである
逆に言えば どんなに論理客観的根拠や証拠に基づいた論証であったとしても 気分主観的に安心満足感が得られない「信じたくない話」は 衆愚マスコミも金儲けにならないから興味すら持たないのである
他人からの評価や承認だけが「目的」であれば 本論は「金儲けにもならない権威肩書に対する反抗する愚かな行為」でしかないだろう
それが本当に「愚か」かどうかなど 衆愚マスコミは興味すら持たないだろう
ヒトとは 利己的金儲けにならない話でなければ 社会安全性や公平性など 本当は誰も興味を持たない無責任な生物に過ぎないからだ
Ende;