「良かれと思って進化した」などという説明をしているが
遺伝的進化というものは個体の後天的な「思い」だの「考え」だの「願い」「祈り」「呪い」は遺伝的要素に影響を及ぼさない
既に絶滅している動物種が 現在において適応的ではない進化をしたのは その当時の生息環境において適応的であったために促された進化であって 「良かれと思って」進化することはできない
ダンクルオステウスのような巨大魚類や 恐竜 恐竜絶滅後にも哺乳類は巨大化したことがあり 身体が大きくないと生き残ることができないような生息環境においては先天的に身体の小さな個体種が淘汰され巨大化が起きるのであって これは個体には選択不可能な「結果」でしかなく 遺伝的進化の全ては自然現象の「結果」でしかない
しかし 環境が激変して巨大化が繁殖の継続にとって不利になれば巨大生物は絶滅し 巨大化しなかった生物だけへと収斂進化が促される ただそれだけのことである
環境資源が豊富で生物密度が高い環境下においては動物は凶暴化傾向が見られ 逆に環境資源の乏しく生物密度が低い環境下においては暴力性が低くなる傾向があるが 凶暴になろとして凶暴になったのではなく 凶暴でなければ繁殖の継続に適さない環境だから凶暴になっただけであって 意図目的は遺伝的進化には介在しない
また 極めて珍しい環境に適応した生物の場合には それを獲物として永続的に「繁殖を継続」できる程の獲物の数が充分ではなければ その生物種は天敵がいなくなり どんなに貧弱であろうと環境適応になることもある
ナマカフクラガエルやサンショウウオのような動きも鈍く弱い生物が現存しているのも 環境ありきの「結果」であって 「良かれ」もスッタクレもないのである
絶滅した生物を面白がって「バカだな」と思うのは勝手だが
ヒトもまた絶滅に向かっている現状においては過去の絶滅生物のことを嘲け笑っている場合ではない
絶滅に向かって一直線に起きる「進化」というもの(進化の袋小路)も存在しているのであって 進化というものが自然現象である以上は進化の全てが「成功」する保証など一切ない
ヒトの子供がピーマンの苦味を嫌うのは ピーマンの苦味というのが実は微量のアルカロイド系の毒であるため ヒトの祖先が肝臓の未発達な子供のうちには苦味のあるものを食べない性質を持った個体種への収斂進化が働いたためである
肝臓が未発達な時期に苦味のあるものを平気で食べてしまった個体種が生き延びることが出来ず その遺伝子を持った個体が全て死滅して子供のうちには苦味を嫌う遺伝子を持った個体への収斂進化が起きた結果である
しかし 大人になると ピーマンの微量のアルカロイドが血流改善の薬として働くため 大人になると適度に苦味のある食物も好むようになるのであり これもまた進化の結果である
それなら進化によって組み込まれた主観的好みや情動の全てが合理的かと言えば 逆に塩分や糖質脂質を過剰摂取して生活習慣病に陥る原因もまた 祖先の生息環境において塩分や糖質脂質が乏しかったために進化的に組み込まれた本能習性の結果であり 決してあらゆる環境に適応した進化が促されるわけではなく ネアンデルタール人が絶滅した原因は寒冷地適応が地球温暖化に適応できなかったことだとされている
かつて ヒトの祖先は過酷な自然環境下において暴力性の高い個体種への収斂進化が引き起こされ 結果的に暴力的懲罰を短絡的に「解決」だと錯覚するよう進化が促されたのである
ヒトは ヒト以外の動物との生存競争のみならず ヒト同士での環境資源の奪い合い競争にも勝ち抜いた結果 ヒトは他者を暴力によって抑圧し 順位序列による統率的協調性が本能習性として組み込まれた結果 盲目的に唯々諾々と服従し 自分の頭では何も考えなくなるバカになるよう進化的にそれが快楽として大脳辺縁系に組み込まれたのである
ナチス政権やプーチン政権 カンボジアのポルポト政権やミャンマー軍事政権のような野蛮な暴力性は 一般多数からみれば「イカれている」と感じるのであろうが
相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件の植松聖に対しては「死刑にしちまえ」の一言で全てが解決するとも「感じ」るものなのであり ヒトは基本的に暴力的懲罰で物事が解決するかのような感覚(錯覚)が大脳辺縁系に組み込まれており 故にヒトはSNS上で特定個人や団体を根拠もなく誹謗中傷して満足したがるものなのである
単純に言って 暴力破壊や懲罰は「憂さ晴らし」になるのである
植松聖を死刑にすれば 満足するのである
しかし 植松聖のような倒錯したキチガイが出てくる原因究明や再発防止には全くならず 社会安全上は死刑などの懲罰は合理性が何もないのである
死刑以外のあらゆる懲罰においても ノルウェーの「リゾート刑務所」における再犯率の著しい低下から見ても 懲罰というものは社会安全上の合理性は極めて低いのである
女子中学生誘拐監禁事件の寺内樺風のように 完全に倒錯している犯罪者に「懲役12年」などと司法手続き上懲罰を加えたとしても それは更生する保証は何もない
寺内程に極端に倒錯していないとしても 逆にいえば犯罪がバレない程度に倒錯した変質者というのは一定数存在しており 痴漢や性被害が後を絶たないのは 「無数の倒錯者」による犯行であって 寺内のような「著しい倒錯者」の陰には「無数の倒錯者」が存在しているのである
性的傾向として異性の身体に興味を持つのは先天的習性としての欲望や行動バイアスであるが それそのものは選択不可能な進化の「結果」であって 一人の社会人としての目的行動選択とは別物である
文化系マスコミは安易にエンパシーだのシンパシーだのと情動的な共感性や感受性こそが人間性だと言い張りたがるが それは自分の情動バイアスや「常識」に一切の偏りが存在していないという正常性バイアスによる一種の倒錯(錯覚)に基づく決めつけに過ぎない
早稲田大学の強姦サークルは サークル内での共感協調性によるものであり カルト宗教を信じ込むのも共感性が働いているのであって 「共感さえすれば人間性が発揮される」という単純なものではない
ヒトの主観の中には 何らかの偏りが存在していると考えるべきであり 一切何の偏りも存在していない完全無欠の絶対人格者など存在するわけがないのである
主観的価値観の偏りを 偏りだと認識できなくなる原因は正常性バイアスであり 「自分だけは絶対に間違ってなどいない」という自己過信が働くことで ヒトはバカが治らなくなるのである
主観的価値観が偏っていることそのものは異常ではない
偏っていることを 偏っていると自覚していれば 偏った価値観に基づいた行動には陥らずに済むのであって 自分の主観的偏りを偏りとして認識するために必要なのは自己客観性である
「女性のスカートの中を見たい」と主観的に「思う」のは勝手だが それが直接行動に直結するから迷惑行為になるのであって 「見たいけど 見ないようにする」のが社会性であって 自分や身内が迷惑行為をされたくないのであれば 自分もまた迷惑行為はしないことを選択する理性によって 初めて「自由意志」だと言うことができるのである
客観性とは 必ず理性に基づくものであり 寺内樺風やプーチンがどんなに「理性的」であるかのように見えるとしても それは大衆観念上の錯覚であり 寺内やプーチンの倒錯と同じ錯覚によって それを「理性」だと勘違い錯覚しているからである
寺内が女子中学生を誘拐監禁したのは 自己客観的に社会安全性や公平性に基づいた行動選択ではなく 結局は主観的欲望の強度程度が行動の動機に過ぎない
プーチンの戦争も同じで 政治体制を維持温存する保身感情の強度程度が動機であって 本質的には理性は働いていないのである
ロシアに限らず 国威発揚的に軍事力の誇示を国家や民族の優秀さの基準であるかのように倒錯している者は少なくない だからこそ多くの政府は軍拡競争を安全保障と倒錯しているのである
これらに共通するのは 全て主観的安心満足が優先していることであり 社会安全性や公平性に基づいた本質的な理性(人間としての意識)が働いていないのが原因である
NATOにせよ ロシアやベラルーシや中国や北朝鮮にせよ 「敵」など本当はいないのである
「誰一人として取り残さない」という人道的見地から行動を選択すれば 国益よりも世界全体の利益を優先すべきなのは当然の帰結である
戦争と痴漢は別物だと主観的には「思う」かも知れないが 論理客観的にはヒトの主観的情動が行動に直結しているが故の迷惑行為であることに違いはない
ロシア軍兵士を何人殺害しても 痴漢を何人刑務所にブチ込んでも 根源的「解決」としての原因究明や再発防止にはならない点において 全く同じことなのである
ヒトは順位序列による差別をしたがる本能的習性があり 「敵」という差別対象を規定しておけば組織内部の不公平や差別をごまかすことが可能となる
「イジメられる方にも問題がある」としておけば イジメが正当化できると錯覚させられるのと同じで 暴力的懲罰こそが「正義」だと錯覚するヒトの認知上の欠陥こそが ヒトが最もバカになる根源的原因なのである
東京電力福島第一原子力発電所において 原発の津波に対する脆弱性を主張することを「バカだ」としておけば 安心して原発の津波に対する脆弱性を放置できたのも 順位序列による差別を都合良くこじつけたバカの多数による無意識性が原因である
長谷川眞理子や山極寿一や更科功などの生物学者共によるデマや嘘を傍観放置しておいても 多数がバカならデマだとも嘘だとも思わず鵜呑みにして満足する
こうした大多数の衆愚によって 学術界がバカの巣窟へと腐敗してゆくのである
Ende;