書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

正常性バイアスによる過信

2022年06月12日 14時43分20秒 | 意識論関連

ヒトの多くが実証不能の神を信じたがるからといって 実証不能の神を信じたがることの効用をこじつけても それは「ヒトという種の生物の習性」を事後正当化しているだけであって 「人間性」の論証にはならない

遺伝的進化に対しても 結果的にバクテリアからヒトにまで進化したからといって進化の全てに意味をこじつけるのも合理性はない

ありもしない「目的」を 後からこじつけてしまうから優生学のようなオカルトが科学的真理であるかのような倒錯に陥ってしまうのである

 

ヒトは 間違いを犯した者に対して暴力的懲罰を加えると 「正義の鉄槌を下した」などと称して正当化するが 如何なる理由があれ暴力が解決であることの合理的根拠は何もない

ヒトは 気に入らない相手を殴ると満足する

進化の過程において 暴力性は自然界における弱肉強食の生存競争において 生存価や「繁殖の継続」において有利に働いたため 暴力性の強い遺伝子が拡がったという遺伝的進化の結果である

DV男が女房子供を殴るのも 通り魔やテロリストが暴力破壊をするのも 司法裁判による刑法判決も 全てヒトの主観的安心満足によって促される先天的な行動バイアスに過ぎず

先天的行動習性である以上は全てが「結果」であって 合理的「目的」に則った選択の論証にはならない

ノルウェーの「リゾート刑務所」における再犯率の大幅な低下からも 懲罰的処分は自律更生においての有効性が低いことを立証しているのであって 罰も含めて暴力威圧というものは自律的な社会的責任判断選択能力(人間性)の獲得にはならないのである

先天的な暴力性の強さは 個人差もあるのだが たとえ先天的に暴力性が強いからといって何でも暴力で解決することしかできないわけではなく 逆に暴力性が低いからといって理性的であることの論証にもならない

実際に暴力的行動を採るかどうかは その大部分が「育ち」という後天的要因に依存するものであり だからこそノルウェーの「リゾート刑務所」の再犯率が著しく低く抑えられているのである

酒鬼薔薇事件の少年Aも 未成年であったことから施設での再教育によって更生できたのであり 未成年かどうかに関わらず懲罰的な行動抑圧をしても「自律」には結びつかず 他律的な行動抑圧によって一時的には従順に社会規範に盲目的服従はするようになったとしても 釈放されて誰からも監視されなければ欲望や身勝手な「常識」に基づいた行動を採るようになってしまうのである

「へずまりゅう」の発言にも見られるように 裁判法廷審理の時だけ反省しているかのような演技をして判事のご機嫌取りに成功しても むしろ「判事を丸め込むなんぞチョロいもんだ」とばかりに釈放後に「俺の涙はヨダレと一緒」などと平然と言い出すのである

他人を騙すためには それなりの認知能力は必要で 振り込め詐欺師達による集団統率的協調行動にもそれなりの認知能力は必要ではある

だが それが「人間としての知能」として働いているかと言えば 全く逆に働いているのである

人間性を伴わぬあらゆる特定能力の高さというものは 学力偏差値や将棋やスポーツの成績も含めて「人間としての知能」とは無関係である

実際にスポーツ成績が高くても薬物依存に陥ることもあれば 将棋の成績が良くても科学的真理と嘘やデマの区別がつかないものである

 


国家間の戦争というものが個人単位の暴力とは無関係であると見なす論理客観的根拠や証拠はなにもなく 単に規模の大きさだけで勝手に分類しているに過ぎない

にも関わらず 戦争の話になった途端に「チンパンジーの殺し合い」だの「ゲーム理論」などといった話を持ち出し まるで先天的本能習性というものが合理的結果しかもたらさない万能のものであるかのように言い張るのは 長谷川眞理子などの進化生物学者共による「こじつけ」であって 科学的には何の根拠も証拠も提示されていないのである

チンパンジーや振り込め詐欺師達は 目先の利益 目先の快楽しか意識の俎上にはない

同族同士で殺し合おうが何だろうが 先天的情動行動の結果として殺し合うのであって その行動に合理性が伴う必要性も何も存在していないのである

「殴りたかったから 殴った」それ以上の「理由」は何もない

ヒトの祖先が「殴りたくなったから 殴った」ことで それが生存価は「繁殖の継続」にとって有利に働いたことで そういう遺伝的性質が拡がりやすかったという「結果」だけであって 先天的本能習性それ自体には合理性が伴う根拠は何もないのである

 

先天的本能習性の中には 社会安全性や持続可能性に適う情動というものもある

「親」としての母性には 子供の未来の平穏と安寧を願う気持ち(情動)が伴うため 仏教では菩薩界は仏界に準ずる価値を認めているのである

しかし 先天的親性というものは 自分の子供と他人の子供を差別する面が否めないため 本当の仏界とは他の全ての境地が伴って始めて仏(人間性)の悟りとなるのである

もし 自分の子供が社会の中で窮地に陥った時に 助け合う他人の子供がいなければ 自分の子供は不幸に陥るのであり

「情けは他人の為ならず」とは 他人の不幸と自らの不幸を同列に扱う人道的見地が仏(人間性)として必要だと説いているのである

 

自らが生き続けるに価する社会の姿に近づけるための行動選択をしないのであれば それは「既存の社会の奴隷」でしかない

世の中には間違った行動選択をするバカは多いものだが バカをいくら抽出枚挙してきても 自分がバカげた行動をしても構わないことの理由にして良いわけではない

「へずまりゅう」的に「迷惑者はザラにいる」ことをいくら抽出枚挙しても 自分の迷惑行為が正当化できないのと同じことである

社会は決して完璧ではなく 間違いや欠陥は存在するし バカも多いものである それら欠陥やバカをいくら抽出してきても 「バカのままで構わない」ことの正当性の論拠にはならないのである

ヒトは社会という多数他人に紛動され 間違った「常識」を鵜呑みにして受け入れ その「常識」に合理的根拠が伴うのかどうかは自分の頭では考え判断しなくなる習性がある

宮台真司による「自分の頭で考えるのは10年早い 教えたことは丸暗記しろ」などと言い出したのも 「自分が学生時代に教授からそう言われた」ことを鵜呑みにした過去の自分を事後正当化する形 「認知的不協和を解消する形」で頑なに言い張るようになったのである

ヒトという種の生物は ことほど左様に簡単にバカになるものなのである

バカにならないために必要なのは 自分の頭で物事を考え判断することであり 教えられたことを鵜呑みにしているからバカになるのである

養老孟司だのマルクス:ガブリエルだのフリードリヒ:ニーチェを読めば 大多数の衆愚は内容の根拠や基準に合理性があるかどうかは何も考えず 自分にとって都合の良い勝手な解釈をこじつけることで主観的に満足し その満足によって彼らを主観的に「好き」になり 主観的に「信じたい」と思うことによって盲目的に信用することでヒトは自分の頭で物事を考えなくなり バカになるのである

読書猿は 「学校の勉強を認知的ワクチン」だと仮定した上で まるで学校の勉強さえしておけばデマや嘘には騙されなくなるかのように言い張ったが この話には論理客観的根拠も証拠もなく 単なる読書猿による勝手な決めつけに過ぎない

それでも 大衆観念上の「学力成績=知能」という方程式を正当化できることによって 大衆は気分的満足感を感じることにより その満足感によって何の疑いも持たずに鵜呑みにし 本当の話なのかどうかを一切自分の頭では考えなくなることで 大衆は簡単にバカになり 読書猿の衆愚人気を支えてしまうのである

嘘やデマを鵜呑みしている頭の悪さを自覚せずに 一体どうして「デマや嘘に騙されなくなる」と言えるのであろうか

衆愚はこう言い逃れをするであろう 「だって 誰もデマだと教えてくれなかったからだ」と

いちいち何がデマで 何が真実なのかを他人から教えられなければわからないのは 自分の頭で考え検証していないからである

世の中の大卒者のほぼ全員は イマヌエル:カントの「純粋理性批判」における「絶対に知覚することのできない叡智界」を鵜呑みにしたバカである

こんなバカげた話を鵜呑みにしておいて 「教えてくれなかったから」などと言い逃れができると思っている時点で バカが酷すぎて話にならない

養老孟司の「脳化社会」云々の屁理屈の全ても 論理整合性すらない支離滅裂なこじつけであって 衆愚観念に寄り添った「衆愚のご機嫌取り」に過ぎず 論理客観的には何一つ論証していないのである

「約束を守るのは 脳化しているからだ(養老孟司)」

意味が全くわからない

一体何を「わかった」つもりになったのであろうか

頭が悪いと理論的には何も理解していなくても 「わかった」ような感覚に陥って満足して思考停止に陥るのがヒトという種の生物の普遍的な認知上の欠陥なのである

養老孟司はこう言い逃れするであろう 「言葉の一部だけを切り取って批判されても 前後の文脈に基づいて全体を理解して頂かないと困る」と そう諭されて鵜呑みにするバカは多いだろう だが 「前後の文脈」をいくら読んでも養老の言説は何一つ論理客観的根拠も証拠も論理整合性も成立してはいないのである

「わらないなら わからないなりに わかったとする そういうわかり方もあるのかと 思っていただければ幸いです(養老孟司)」

こういうバカげた話を鵜呑みにして 「養老孟司を読んだから 頭が良くなった」と勝手に勘違いしているバカが世の中の大半である

9割以上はバカだと言って差し支えない

「バカのままで構わない」と「思う」か

それとも「バカのままでは嫌だ」と「考える」かは 私の判断ではない

私はキリスト様でもお釈迦様でもないので この世のバカのいちいちを面倒看るつもりはない

私はバカが大嫌いである

だが バカが大半のままだと私も困ることになるので 仕方なく説明を尽くしているのである

 

 

Ende;

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