書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

雪山童子の喩え

2022年06月23日 17時43分22秒 | 意識論関連

必要以上の名声だの評価 富といったものに異常執着するのは 本質的には自発性がなく 他人との比較でしか物事の価値を量ることが出来ないからである

「へずまりゅう」だのプーチンだのの欲望に際限がないのは 本質的自発性がなく 他人との比較における優越感でしか物事の価値観を量ることができないため 他人を蹴落とし 社会を破滅へと向かわせてでも物質的富や権力欲へと必要以上の執着をするようになるのである

他人との比較による優越感には際限がないのである

他人と何かを比較しても そもそも脳神経接続が他人とは存在していないため いくら比較しても本質的には何も満たされることがなく 無限に権力だの物質的富ばかりを求める無間地獄に陥ることになる

独裁者が暴力的最終解決に陥るのは いくら権力や物質的富を獲得しても本質的な自己は全く満たされない不満を 自分以外の社会の所為だと「思って」いるからである

暴走族でも暴力団でもロシア軍でもミャンマー軍事政権でも 組織の中で「生きるため」の順位序列競争が優先されれば 他人への迷惑には一切配慮が働かなくなる

「へずまりゅう」が自律的な社会的責任判断選択をしないのも 無責任な社会集団の中で「生きるため」を優先しているためである

それらは 「悪いのは自分ではなく 社会環境の所為」だと「思って(錯覚)」いるからである

 

仏教ではそれを「外道」と言う

仏教修行の説話では 基本的に全部自分から主体的に「行」を求めて実践している

利他の行を追い求めた雪山童子は 鬼に「目玉をよこせ」と要求されると自らの手で自分の目玉をえぐりだし鬼に渡すという かなりエグい話である

「死ぬだろ」と思うようなエグい修行の喩えだが 何に人生を賭けるかは本人の主体的意志によるものであり F1レースでスピードを追求して事故で死んだとしても それは本望というものであろう

加藤英明が 猛毒のパフアダーを素手で捕まえるのに失敗して死んだとしても 加藤にとっては必ずしも不幸ではないだろう

他人から見ればバカみたいな人生だが 当人が望んで死ぬ分には他人には人畜無害であり 自己責任である

セーレン:キェルケゴールが真理を追求して野垂れ死にしようとも 真理のために人生を賭けることもまた本望であろう

 

嫌な話をする相手は 人によっては鬼にも見えるかも知れない

鬼が現れ「目玉をよこせ」と言われれば 大抵の人は「そこまでは無理」だと思うであろう

それはカルト宗教の信者に対して「お前さんの信じている教祖はキチガイだぞ」と言われているようなものであり 自己過信の罠によって本当は糞の役にも立たない嘘やデマを本気で信じているとしても それが嘘やデマだとは全く「思わ」ないものなのであり 反射的に拒絶するばかりである

だが 真理を追求することを「行」として選んだからには 自らの手で「目玉のように大切にしているもの」であっても真理のためには全てを差し出さなければ 真理に辿り着くことはできないのである

本当の事を知りたいのであれば あらゆる嘘やデマや根拠のない「常識」の全てを棄てなければ 真理を見極めることはできない

嘘やデマや根拠のない「常識」の全てを棄て去れば 「前以上に見えるようになる」のである

雪山童子の喩えとは そういう意味である

理屈は簡単である 嘘やデマや根拠のない「常識」の全てを棄て去れば 後に残るのは真実のみである そんなのは必然でしかない だが ヒトはどうしても真理以外の嘘やデマや根拠のない「常識」によって視野を奪われ 目の前にあるはずの真理すらも見えなくなるものなのである

視野を奪うのは本能や欲望である それらはそもそも自分では選択不可能なものであり 自由意志でも何でもないのであって 何が本当の自由意志なのかも見極められないバカが真理なんか見えるわけがないのである

 

だが こうした修行というものは 自らが自発的に望んでやらなければ意味がない

他人から強要されていたり 評価承認欲しさのウケ狙いでは修行にはならないのである

世間的評価だの人気だの 損得勘定だの勝ち負けを基準にしていれば 結局他人との比較による価値観の罠(生物学上の「社会性」)からは逃れることができない

真理を追求するのか しないのか それは「あなた次第」だが 真理よりも目先の安心満足(実証不能の観念)を優先するというのであれば それはもはや真理について語る資格はないのである

 

 

 

Ende;

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生存中毒

2022年06月23日 16時41分20秒 | 意識論関連

腐敗した組織の中で「生きる」ことを優先すれば 自律的な社会的責任判断選択は優先されなくなる

東京電力福島第一原子力発電所において 組織の中で「生きる」ためには個人は自律的な社会的責任など放棄せざるを得なかった

日本大学田中英寿体制において 組織の中で「生きる」ためには 理事長や幹部達の言いなりに同調迎合忖度服従せざるを得なかった

これらと同じで 今のロシアにおいてはプーチン政権の中で「生きる」ためには ウクライナ侵攻に反対すれば投獄される以上 人道的立場など選択する余地などないのである

 

ヴァルター:ベンヤミンは ナチス政権に反対したことで スイス山中で自決を余儀なくされた

一方 マルティン:ハイデガーはナチスに迎合して「生き」延びた

「生きるため」にはナチスに迎合することも正当化可能となるのであるが それが果たして「人間としての社会性」に適すると言えるであろうか?

 

学級内でイジメが起きた際に イジメを止めようとすればイジメの標的にされる

無意識な少数の暴力者に対し 大多数のヒトは主観的に「怖い」相手には逆らわず 傍観放置し暴力者集団の存在を温存することに加担するのである

イジメというものは 学校に行ったことがあればまず全員が経験したことがあり その8割は傍観放置しているのである

ウチの甥っ子は 小学生時代にイジメを止めに入ってイジメの標的にされたことがある

学級内での少数派に過ぎないイジメ集団に対し 大多数の傍観者の誰も助けてはくれない状況下において イジメを止めることは 学級内で「生きる」上においては不利になる

 

「生きるため」には 他人を蹴落として 差別して 資源や富を独占することは正当化されてしまうことにもなるのである

だが そうした利己的行動選択というものは 結局は社会全体の持続可能性や安全性を損ない 人類全体の存続に関わる重大な結果に至る可能性をもはらんでいるのである

 

どんなに弱者を切り捨て 利己的利益を追求したところで ヒトは必ず死ぬのであり いかなる利益も死ねば何の意味もなくなる

今 現在 生きている 生き続けていることの意味 必要性 理由とは何かと言えば 自分が生き続けていることに楽しみを持っているからである

しかし その楽しみというものは 必ずしも純粋に個人的な楽しめることを持っているわけではなく ヒトはどうしても他人を蹴落とし 誹謗中傷し 懲罰的正義を振り回して他人に多大な迷惑をかけることによって あたかも自分の優位性を「感じ」ることにしか楽しみを感じないことの方が多いものである

他人との比較に依らない 個人的で純粋な楽しみとて これもまた主観的な「感覚」であることに違いはないが 比較に依らぬ点において純粋であり 社会の公平性や安全性にも配慮が働く要因ともなる

純粋に個人的な楽しみがあるのならば それは他人との比較において優越を感じる必要性がない

順位序列にこだわる必要性がないのである

そもそも 「楽しみ」とは主観的で個人的なものであり 他人と比較して「自分の方が楽しいはずだ」という感覚は錯覚に過ぎない なぜならば他人と自分の脳とは神経接続が存在せず 他人が楽しいと思っていることが 自分が楽しいと思っていることとの楽しみの強度程度の比較など構造原理的に不可能だからである

 

他人との比較においての優位性に中毒になるのは ヒトは集団の中で優位に立たなければ「生きて」ゆく上において不利になるため 必要以上の優位性や比較による序列順位への執着が本能的に働いてしまうためである

ヒトの祖先がチンパンジーのようなサルだとすると サルはその場限りの利己的利益のことしか意識が働かないため 集団組織全体の安全性とか持続可能性とか公平性といったものには何の興味も持たないし そんなものに興味を持っても集団内部で「生きる」上においては有利にはならない

東京電力福島第一原子力発電所において 個人が自律的な社会的責任判断をしようとしても それは組織の内部において「組織の利益にならない」ために 組織の中で「生きる」上においては何の有利にもならなかったのである

それは ロシア国内において 国際社会全体における社会的責任として武力行使に反対しても ロシア国内において「生きるため」には何の有利にもならないのと同じである

 

プーチンだろうが田中英寿だろうが 本当は順位序列など存在せず 誰もネコでもネズミでもなく ヒトであることに何の違いもないのだが 権力権威という抽象化された順位序列の観念情動によって ヒトは相手が理不尽な要求をしてくるバカであっても 大多数のヒトは傍観者に徹し 何の批判精神も持たず 唯々諾々と腐敗組織の温存に加担するバカなのである

ヒトの生物学的な 本能習性としての「社会性」とは イヌ同様に順位序列に基づく封建的な統率協調性であって 「人間としての社会性」とは全く別のものである

軍隊というのは 動物的な本能習性としての「封建的統率協調性」を用いた盲目的服従性を利用した集団であり 故に戦争のようなバカげたことにも便利に利用可能であると同時に 盲目であるが故に軍隊のトップになった場合には 自分が盲目的に順位序列を受け入れたという「常識(学習データ)」に基づいて あらゆる人にまで順位序列を強要し 武力暴力によって抑圧する「正義」を振り回さなければ気分的に満足できなくなってしまうのである

軍隊に文民統制が必要なのは 軍隊というものはその内部に平等とか公平とか民主的判断というものが全くない 封建的順位序列による盲目的服従による指揮命令系統だけで構成された集団だからである

プーチンは元KGBである

つまり 兵隊だった

兵隊というのは命令に服従することが評価業績になる

イヌが飼い主の指示に従うことに喜ぶのと同じで 順位序列が上の相手との共感共鳴によって快楽を感じる習性を利用することで 介助犬や救助犬のように 飼い主に都合の良いように行動を統制することが可能となる

しかし イヌというのは 野犬の群れで育てば野獣にしかならない

KGBという野蛮な暴力組織の中で「業績評価」を得ようと「頑張って」いたが故に プーチンは順位序列への異常執着性を「学習」してしまったのである

プロパガンダという嘘をついてまで国民からの支持を得ようとするのも 国際社会の中での協調性を持たないのも 過去の「業績」評価を絶対的な「常識(正解データ)」として 価値観の全てに「学習」してしまったのが原因である

こうした構造はヒトラーでも同様である

日本大学田中英寿でも ミャンマー軍事政権でも 暴力的に権威性を振り回す相手に服従迎合した者というのは 暴力的権威に服従することが「正義」として「常識」になってしまっているため それ以外の選択可能性が著しく失われて無意識になり バカになっているのである

構造的には「虐待の連鎖」と同じである

これは決して特殊な例ではなく プーチン政権の場合は規模が大きいだけであって 宮台真司でも養老孟司でも「へずまりゅう」でも見られるヒト全般に見られる普遍的な習性傾向でもある

「私は教科書に墨を塗らされた」だの 「自分の頭で考えるのは10年早い 丸暗記しろ」だの 「迷惑者はザラにいる」といった過去の社会経験を「正解データ(常識)として「学習」することによって 行動学習的に自律的思考(人間としての意識)が抑制され 無意識なバカになるのである

過去に自分が受け入れた行動という「結果」に対し これを事後正当化する形で連鎖し続けないと 過去に自分が受け入れた選択を否定しなければならないため ヒトは簡単にバカになる仕組みが脳に普遍的に存在しているのである

こうした情動の仕組みによる無意識な状態のことを 認知的不協和を解消する形で「洗脳」と言うのである

 

人工知能AIの「学習」において 回路が単純化された状態を「蒸留」と形容する

Microsoft社のTwitterAIが SNS上の数多のヘイトスピーチを「正解データ」として「学習」した結果 ヘイトスピーチに同調するよう回路にバイアス(偏り)が生じるようになった

これも一種の「蒸留」であり 「洗脳」である

AIというのは生物の脳を模したものであり ヒトの脳の挙動と似たような結果ももたらすことが良くあり 偏った「正解データ(常識)」を「学習」することによって 簡単に洗脳(蒸留)状態にも陥るものでもあり これはヒトの脳でも基本的な仕組みは同じである

虐待が連鎖するのも 脳が洗脳的に虐待状態を「学習」してしまうためである

 

「生きるため」には 多数派に迎合することは不可欠であり イジメは傍観放置し 権威や「怖い相手」には逆らわず 多数派に同調することで安心満足して 自分からは何の考えも持たずに既存の社会に唯々諾々と迎合することが「常識」となる

「身勝手」とは 必ずしも個人的なものとは限らず 多数で身勝手な観念を共有 共感 共鳴 同調することも珍しくはない

何を持ってして「身勝手」なのかと言えば それは論理客観的根拠を伴わぬから「身勝手」なのであり 真理は数で見極めるものではない

どんなに多数でユダヤ人などの少数派を迫害しても 身勝手であることに変わりはない

聖書であれクルアーンであれ それらはヒトが書いたものであって どうしても伝言ゲーム的な間違いが混入する可能性を排除することはできない

科学も同じである

既存の科学的理論や知見の全てが「正しい」保証はなく 所詮は学術権威もヒトである以上は間違いが混入する可能性は否定できない

宗教の場合は間違いを訂正する仕組みがないが 科学の場合は常に更新できる余地があるからこそ より「正しい」理論や知見へと高めることが可能となるのである

しかし ヒトは権威に教えられたことを疑うことをしなくなる性質があり だからこそ宗教はいつまでもカースト制度などの理不尽な因習までをも「連鎖」し続けてしまうことになるのである

 

ヒトは 一度自分が既に信じた内容に 疑いを持つことを嫌う習性があり 振り込め詐欺に騙されている人が「いや、自分は絶対に騙されてなどいない」と言い張るのも 虐待が連鎖するのも 脳の基本的な「学習」システムの欠陥によって促される行動である

たとえ虐待であっても 冷静に考えれば「子供にとっても社会にとっても良くない」ことは理解可能なものである

論理客観的に「考え」れば バカを脱することは可能なのである

 

私が「バカ」と形容しているのは あくまで「考え」ることが可能でありながら「考えない」ことを指しているのであって 先天的な学習障害のようなものを指しているわけではない

自閉症と診断されて 発話言語が苦手な人であっても 文章を書けば一般人以上に理路整然とした考えを持っていることは良くあることであるが 既存の学力偏差値基準においては発話言語が苦手だと評価にはならない

書字が先天的に読み書きできない人というのもいて 文章がほとんど読めないにも関わらず 発話言語は常人以上に理解可能であるために噺家になった人もいる

これら読み書きソロバン的な特定能力基準というものは 本質的知能の基準としては全く意味を為さないものであり コンピューターで例えれば「I/O」のような入出力回路の障害であって 主処理としてのCPUやシステムソフトウェアの問題ではないのである

プーチンやヒトラーは発話言語能力に障害はなく むしろ演説なら得意である

振り込め詐欺師が言葉巧みに他人を騙せるのも 発話言語能力だけなら非常に高いからである

だが 独裁者や詐欺師は主処理としての知能に致命的な問題があり 故に社会的迷惑問題となるのである

 

 


Ende;

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パブロフの「ヒト」

2022年06月23日 12時52分28秒 | 意識論関連

ヒトというのは どうしても物事を単純化して判断する傾向があり

敵と味方という単純化した二元論で「正義」を振回せば物事が解決すると錯覚しがちである

ロシア人に対する入国制限というのは あくまでプーチン政権に対する対抗措置であって ロシア人という民族国籍に対する差別排除措置ではない

その点については 日本国政府として公に周知しておくべきことでもあろう

ロシア人でもウクライナ侵略に賛同していない人なら海外に出てしまっているのであって むしろ日本などのロシア以外の国にいるロシア人は「敵」ではない

 

ヒトという種の生物は チーム分けをして優劣を決定して順位序列を作るのが先天的本能として存在しているために スポーツ競技やサバゲーや「フォートナイト」のような勝ち負け(損得)に一喜一憂してゲームとして楽しむこともできるのである

これは かつてヒトの祖先が環境資源の奪い合い競争に勝ち抜いた結果的習性であって ヒト以外の天敵や獲物の獲得以外でも統率的協調性は有利に働くものでもある

敵と味方に分かれて明確な区別が出来ないと 勝ち負け競争が成立しないため ヒトは勝ち負け競争がしたいがために物事を単純化して差別をしたがるものなのである

ゲームはあくまでゲームであって 国際秩序に「ゲーム理論(勝ち負け損得勘定)」を持ち込むというのは不謹慎極まりない無責任な発言である

イジメにおいても「イジメられる方にも問題がある」ことにしておけば イジメをする上において都合が良いからそういう嘘をこじつけるのである

本当はイジメる標的なんぞ誰でも良いのであって 無差別殺人犯の屁理屈とさしたる違いはない

 

要は 集団統率的な協調性を発揮したいことが本能的に優先していて 差別や序列というのはそのための屁理屈として無意識に事後正当化としてこじつけている「エピソード記憶」に過ぎないのである

イジメなどの暴力的差別集団の場合 イジメの標的など本当は誰でも良いため 集団の中でイジメの標的にされないためには率先してイジメをし イジメ集団の中での序列を高く保つ「必要性」が出てきてしまう

イジメ集団の中では 「どれだけ卑劣なイジメができるか」が序列の基準となり それを競争することに陥るため イジメは最終的には殺害にまで暴走的に発展してしまうこともある

まあ 要するにバカだからなんだが こうした頭の悪さというのは腐敗した組織集団の内部では逆らうことが出来ずに唯々諾々と洗脳的に傍観放置しなければならない状態に陥ることが ヒトには普遍的に見られる

本来権威肩書があろうがなかろうが ヒトであることに違いはないにも関わらず 少数の権威肩書の理不尽な横暴を 多数の無為な傍観者によって温存してしまうことに陥るのは 権威肩書という抽象化された序列順位を「常識(正解データ)」として「学習」してしまうことによって 本来民主的に決めるべき事柄ですらも独裁者に対する恐怖心によってヒトは簡単に独裁体制の横暴に逆らわなくなるのである

数の力は必ずしも合理性が伴うわけではなく 多数が理不尽な横暴を傍観放置して許してしまうことは 何ら珍しいことではないのである

真理は数では決まらない だから議論が必要になるのである

見解に間違いが混入していたとしても 論理客観的議論によって磨かれれば より高次の真理に近づくことが可能となるが ヒトはどうしても感情的に強く出てくる圧力に屈服しがちで 「怖い」相手には逆らわなくなり それが権威肩書という抽象化された順位序列によってより強く発揮されることにもなるのである

そして 同時に 自分にとって都合の悪い話をする「嫌な相手」には耳を貸さなくなり 議論そのものが成立しなくなってしまうことも珍しいことではない

 

ヒトは自分の頭で物事を考え判断するよりも 何も考えずに主観的印象や情動だけで物事を判断しておいた方が安心で満足感が得られるものなのである

それは エサをくれる都合の良い相手にだけ媚びへつらうイヌの行動習性と何ら変わりはない

 

 

Ende;

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刑務所中毒

2022年06月23日 00時08分51秒 | 日記

自分の人生に嫌気が差した。事件を起こせば刑務所に戻れると思った」 -長久保浩二容疑者

ネットカフェ立てこもり事件の容疑者 10年前も人質立てこもり -NHK

 

立てこもり中毒かと思ったら 刑務所中毒だった

 

 

Ende;

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