「ヒトには先天的に人間性が組み込まれている」
「ヒトには強い凶暴性はない」
「極刑を持って罪を償うことこそが尊厳」
これらの話には合理的根拠は何もなく 大衆観念的な「納得感(主観)」を衆愚に与えて真理を撹乱するだけである
ヒトという種の生物が どのような条件下において殺人や紛争に至るような凶暴性を発揮するのかは 必ずしも全てのヒトが同じ条件で発揮されるというものではない
「本当につまらない理由」で殺人を引き起こすヒトもいれば どんなに虐げられても暴力で反撃しないヒトもいる
それは 単なる先天的な個体差だけで語れるものではなく 本人の意志 本人の主体性による自律的な社会的責任判断選択能力にも依存するものである
加藤英明は爬虫類が大好きで 動物全般にも興味を持っており 生態系全体が破壊されれば個体種の減少や絶滅が引き起こされることを危惧している
これは あくまで加藤個人が主体的に環境保全を望んでいるのであって 世間多数からの評価承認が欲しくて環境保全活動をしているわけではない
環境保全という公益的活動は「善い行い」であるが 公益的であるということは必然的に加藤本人にとっても「善いこと」であるが故に環境保全活動をしているのである
個人というのは あくまで社会の中の存在であり 公益的な善行も結局は「自分のため」でもある
泥まみれになって危険な生物の捕獲や駆除をすることは 決して楽なことではないが 環境が破壊されれば自分がこれからも生き続ける社会全体の損失にもつながることから環境破壊への強い危惧を抱いているのである
「どうせ世の中 自分の事しか考えていない奴ばかりだ」などと言い出すバカは多いが 「自分の事」と「社会的公益」は不可分であり 別のものだと「思って」いるからバカなのである
自分が産まれてきた社会や時代は選択不可能だが どのような時代や社会を望み どうすれば自分がこれらも生き続けるに価する社会に変えられるのかは選択可能性が残されている
80億ものヒトが存在する以上 個人の判断選択が社会に与える影響はほとんどないが 決してゼロではない
1/80億の一人としての意志を貫くか それとも既存の社会構造や制度や因習や常識といった「正解データ」を鵜呑みにして「悪いのは他人や社会だ」と責任逃れをするかで行動は大きく異なる
自律的な社会的責任判断選択をするか否かは 主体的に社会に関わる意志が存在するかどうかに依るものである
誤給付金をちょろまかそうとするバカもいれば 原発の危険性を傍観放置するバカもいれば そもそも多くのヒトは学生時代にイジメを傍観放置し 社会的責任を放棄していたバカである
個人的に「死にたくない」 「損をしたくない」 「嫌な思いをしたくない」 「怖い相手に逆らいたくない」といった利己的情動によって選択したあらゆる自分の過去の行動結果を 事後正当化する形で「世の中誰もがそういうものである」と決めつけておいた方が 自律的な社会的責任なんぞ負わずに済むと「思って」いるからこそ ヒトは簡単に無責任な行動選択をできるようになるのである
「損をしたくない」という情動は 同時に過剰な利益を求めることでもある
過酷な弱肉強食の自然環境下においては 過剰な資源(利益)を蓄財しておいた方が 有事の際には生存にとって有利に働くため ヒトは他人から奪ってでも過剰蓄財をする習性を持った個体種への収斂進化が引き起こされているのである
弱者を切り捨ててでも自分が助かることを優先するという利己性は ヒトに限らずあらゆる生物に見られる行動である
「ゲーム理論」とは 要するに「勝ち負け」や「損得勘定」で行動が決定することを意味する
それは同時に 「勝てそうな相手なら 暴力で抑えつけて資源を略奪した方が得」という意味でもある
それはもう「強盗の論理」でしかない
スポーツ競技や「フォートナイト」のような「ゲーム」では あくまで予め決められたルールや規制条件の中だけで勝ち負け競争を主観的に「楽しむ」ためのものである
ヒトは 統率協調的に他集団との競争に勝つことが本能的に好きであるため スポーツなどの「ゲーム」を楽しむことで 本能的欲望や快楽を満たして満足する術を発明したのである
「欲望そのものを欲することは出来ない」が 欲望をどのように「楽しむ」かは選択可能性が存在しているのである
ゲームは所詮抽象化された成績評価にしかならないが エンターテイメントとして賞金がかかればプロスポーツとして成立することもある
商売的に成功したからといっても ゲームをやるそもそもの理由とは 主観的に「楽しい」からであって 観客もまたプレイヤーに共感して「楽しい」から応援し 観戦に費用を支払うのであって これら一連のエンターテイメントというのは 主観的な「楽しみ」を目的とした芸術分野の一つである
将棋やラグビーで勝とうが 多額の賞金で世間的に成功しようが 将棋やラグビーというのは基本的には主観的な「楽しみ」が目的であって 論理客観的に直接社会に役立つ知能や能力の論拠には一切ならない
脳科学者共はやたらと将棋棋士の「直感」ばかりを採り上げて知能の論証のように言い張るのだが 将棋でいくら成績を上げても 社会的に役立つような理論や構造の発見につながることはなく 将棋が単に社会的認知度が高いことで稼ぎが大きく「世間的成功」になっているだけの話に過ぎない
ラグビーなどのチーム競技における統率協調性といったものについても それが競技の成績にどんなに影響するとしても ヒトの先天的な統率協調性という本能習性が人間性の論拠になるわけでもなく あくまで先天的本能習性を主観的に「楽しんで」いるだけであって 論理客観的な人間性の論証に使えるわけではない
ヒトは 世間的に成功している者や 多数人気を短絡的に人間としての優秀さであるかのような「解釈」をしたがるものだが これは論理客観的な根拠を伴わない大衆観念であり こうした大衆観念的「優秀さ」の錯覚を あたかも「人間としての価値」にすり替える形で脳科学者や生物学者共は大衆をはぐらかしているのである
チーム競技における統率協調性というものに対して 大衆は体育会系集団への勝手な幻想を抱き 封建的序列による忠誠忠実な服従性に「美しさ」という快楽を感じ その主観的快楽によって人間性のようなものであるかのように錯覚する習性がある
軍隊や兵隊は危険な仕事であっても逃げることなく立ち向かってくれる「尊さ」はあるものの それはあくまで結果に対する「尊さ」であって 統率協調性そのものの尊厳の論証にはならない
なぜならば 暴力団やテロ集団や暴走族 半グレ 残虐なゲリラや海賊 日本大学田中英寿体制や東京電力福島第一原子力発電所における原発の津波に対する脆弱性放置など あらゆる非人道的集団組織においてもヒトの先天的統率協調性というものは働いているものだからである
実際に香港警察やミャンマー政府軍は民主化組織の弾圧にも利用可能なものであり 警察や軍隊でありさえすれば常に正しい結果しかもたらさない保証は何もないのである
「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わなかった」ことこそが原発事故の最も根源的な原因であり 故に畑村洋太郎は原発事故を「人災」と認定したのである
個人が自律的な社会的責任を負わなかった屁理屈なら いくらでもこじつけることは可能であろうが それらのこじつけの全ては環境依存要因であって「組織の体質」だの「トップが悪い」だの「制度や構造の問題」ばかりであり これらは全て「個人の自律的な社会的責任判断」を介さない環境要因でしかない
長谷川眞理子がウクライナ侵攻について語った内容の全ては こうした環境依存要因を並べているだけであって 個人の自律的判断選択については何一つ論じていない
チンパンジーの殺し合いの話であれば チンパンジーに理性など存在していないから全てを環境要因だけで語っても構わないが ヒトの殺し合いにまで「サルの正義」を持ち込み こじつけるというのは不謹慎で無責任にも程がある
ヒトの多くは自分で責任を負いたくないという感情が働くため 責任放棄のあらゆるはぐらかしであっても情動的な「共感」によって容認してしまう習性があり 組織腐敗の責任の全てを組織幹部などのトップになすりつけ 組織を構成している大多数の個人には責任がなかったかのような「解釈」も簡単に鵜呑みにしてしまうものなのである
アドルフ:ヒトラー一人でナチス独裁政権の全てを作り出したわけではなく ナチス政権というのはそもそもドイツ国民によって民主的多数決によって承認されたものなのであり ヒトラー個人だけを批難しても プーチン個人だけを批難しても無駄で 体制そのものに共感共鳴同調迎合服従忖度し 媚びへつらい唯々諾々と従う大多数の組織を構成する個人の自律的な社会的責任判断の欠如こそが 腐敗した暴力組織が傍観放置され 結果的に暴走破綻にまで至ってしまう最も根源的原因なのである
多くのヒトは 生物学者や脳科学者共の支離滅裂なはぐらかしを論理客観的には理解しておらず 権威肩書の主張でさえあれば何の疑いも持たずに簡単に鵜呑みにし 主観的に安心して満足することで何も考えなくなる
自分の頭で何も考えず ただ権威の命令や主張を唯々諾々と鵜呑みにするバカの方が 封建的序列による統率協調性を発揮し 環境資源の奪い合い競争においては有利に働き 何も考えないバカの遺伝子の方が拡がりやすかった結果として ヒトは先天的にはバカなのである
だが 自分の先天的な頭の悪さ 認知的欠陥の存在を理解し自覚していれば バカにならずに済むのである
Ende;