先天的な行動習性というものは 遺伝的進化における「結果」的なものであって そこに合理的「目的」のようなものが存在しているわけではない
進化そのものが祖先の生息環境における淘汰圧力の結果に過ぎないにも関わらず リチャード:ドーキンスのように あたかも「遺伝子の目的」が存在しているかのような荒唐無稽な「解釈」をするというのは 科学を逸脱したファンタジー妄想にしかならない
「進化人類学者だから」と称してゴリラやチンパンジーなどの野獣の殺し合いとヒトの戦争を同列に扱い しかも「ゲーム理論」で戦争を語るというのは不謹慎極まりない
チンパンジーの一種であるボノボは 精神的に不安に陥ると誰彼構わずケツを振って興奮を抑えるのだというが こうした行動はヒトがやったらただの変質者でしかない
痴呆老人がスーパーの店員に怒鳴り散らしている行動に対して 「直接殴ったり殺したりしていないから人間性だ」などという話になど なるわけがないのである
ヘイトスピーチで根拠のない誹謗中傷を怒鳴り散らしていても同じことである
イヌやチンパンジーが統率的協調性を発揮する上においては それなりの認知能力は必要だとは言うものの チンパンジーなど3歳児程度しか知能を持たぬと言われているのであって その程度の知能を人間性や戦争の話に持ち込んで「かなりの認知機能が必要」などと称して人間としての知能と同列に扱うというのは あまりに強引なこじつけであり 自分の専門研究分野だけで全てを説明しようとする傲慢な態度である
イヌ程度の認知能力ですら可能な統率的協調行動は 人間としての知能とは比べるにも値しない程度の認知能力であって
それこそ「真社会性」を発揮するのはハダカデバネズミだの アリやハチなどの昆虫でも発揮可能なシーケンシャルな脳でも可能なものに過ぎないのである
旧来 生物学においては本能習性としての「社会性」というものを短絡的に「人間としての社会性」と混同し あたかも人間性までもが先天的に組み込まれているかのように説明してきたが 野獣の群れの統率協調性というものは むしろ暴力団や振り込め詐欺や残虐な軍事組織ほど発揮されるものであり 日本大学のような学府においても生じる組織腐敗もまたヒトの普遍的な先天的本能習性によるものであることは今更疑う余地などない
山極寿一元京都大学学長や 11億もの研究費不正流用をやらかした松沢哲郎も含め 長谷川眞理子のような生物学権威(肩書)のほぼ全員が遺伝的進化に対する根拠のない合目的的こじつけ論法を展開し 衆愚やマスコミからの人気評価による金儲けを目的としたデマや嘘を展開しているのであり
何の批判精神も持たずに これを傍観放置しているマスコミもまた同罪である
チンパンジーの行動習性をいくら実験室で検証したとしても それらは全て特定環境下における「結果」以上の何も抽出することは出来ない
それならスタンレー:ミルグラムによる服従心理実験もまた「特定環境下における結果に過ぎない」と言うことも可能だが 危険性というものが特定環境下において生ずる可能性は無視しておいて良いものではない
それは 特定環境下において航空機が「墜落しない結果」をいくら立証しても 特定環境下においては「墜落する可能性」を無視しておいて良い話にはならないのと同じである
危険学では どんなに小さな確率であろうと 「いつか必ず起きる」ことを前提として対処するのであり 「人類の中で戦争をしているのはごくわずかであることを知れば戦争はなくなる(山極寿一)」などという話は 科学的根拠のない無責任な決めつけやこじつけにしかなっていないのであり こんな荒唐無稽な話を鵜呑みにして満足している衆愚マスコミも 無責任であることにおいて同罪である
イヌは 自分よりも強そうで「怖い」と感じた相手に対しては 仰向けに寝転がり服従すること 順位序列が低いことを認め 「甘え」ることでご機嫌取り(忖度)をする
しかし イヌの場合こうした行動はあくまで状況によってコロコロ変わるものでもあり 私の兄家族が飼っていたイヌは 兄家族がいる時には私に吠えかかるのだが 兄家族の都合で数時間預かった時には まるで当然であるかのように仰向けになって服従しようとするのである
弘中彩香アナウンサーも小学生時代に近所のイヌに飛びかかられた経験があり これもまた飼い主の存在がある場合と そうでない場合とでは行動が全く異なると証言している
イヌというのは主観的に怖いかどうか 安心かどうかという情動バイアスだけでしか行動が決定せず 主観的気分だけでしか行動が決定せず 決して自律的な責任行動判断なんぞしないのである
ヒトもまた同様な部分があり 主観的に「怖れ」や「畏れ」を感じてしまうと疑うことをしなくなり権威肩書を持った相手の言うことであれば あたかも「権威肩書を持った相手によって論理客観的な検証に基づいて論証しているはずだ」という勝手な妄想によって 盲目的に信用信頼し 何も疑うことなく安易に信用してしまう先天的習性がある
養老孟司による「脳化社会」の屁理屈の類いには一貫した論理的根拠など全くなく 「私は禁煙と書かれた看板の前でタバコを吸う ほら 私は脳化していない」などという荒唐無稽な話であっても バカなら簡単に鵜呑みにして同調賛同してしまうものなのである
イマヌエル:カントの「純粋理性批判」においても その結論である「理性を超越(逸脱)した悟性」だの「純粋統覚」だの「絶対に知覚することのできない叡智界」などという論理客観的には何も立証できない実証不能の謎の観念を 100年以上も「哲学者」共は鵜呑みにし 「近代哲学の最高峰」などと称賛し続けているのである
もはや「脳が壊れている」或いは「バカ」としか言いようがない
戦争というのは 要は「殴り合い」である
殴りかかってくる相手に対して防衛として殴り返すことには正当防衛が適用されるが 先に殴りかかることには正当性はない
では 殴りかかってくる相手を殴り返したら解決するであろうか?
暴力で物事を解決しようとするキチガイを いくら殴り返しても そいつが「キチガイになった原因」究明にもならなければ 再発防止にもならない
警察官が拳銃を携帯しているのは あくまで防衛のための現場の対処 現場の正義として武装しているのであって 銃乱射事件の犯人を射殺しても 銃乱射などという意味不明で何の役にも立たない行動をやらかすキチガイの発生原因の究明にはならない
ウクライナがロシア軍を撃退しても ロシアがナチスを撃退しても それはあくまで「現場の正義」であり 「暫定的な業績」にしかならない
パンツ一枚で包丁振り回している薬物中毒者を金属バットで殴り倒して制圧しても それだけでは「解決」にはならないのである
独裁者が戦争を始めたがるのは 自身の欲望を自給自足できないために 際限なく「他人との比較」による物質的富や権力を求め続けるためであり 権力というものの社会的意義や目的を見失っているからこそ 身勝手な独裁者というのが出来上がるのである
だが 単に評価承認欲求中毒でありさえすれば誰でも独裁者になれるわけではなく 暴力や権力 順位序列を鵜呑みにする従順な服従者の群れの中から独裁者は作り出されるのである
虐待の連鎖というのは 虐待されたことを事後正当化する形で「常識(正解データ)」として 行動学習的に学習した結果的行動であり 条件反射的無意識な行動バイアスとして働いてしまうものである
プーチンは 一説に拠ればスターリン政権の弾圧の犠牲者でもあったという
自分が過去に受けた仕打ちに対し 事後正当化する形で「そこには意味があったんだ そう思わなきゃ やってられないじゃありませんか」と言ったのは養老孟司である
宮台真司が学生に対し 「自分の頭で考えるのは10年早い 丸暗記しろ」と言い出した その理由として「自分は教授からそう言われた」からだと主張している
その一方で 休講になったことが学生達に伝わらなかったことに対しては「それくらいは自分の頭で考えろ」と言い出し 学生をバカにしているのである
自分にとって都合の良いように「考えろ」「考えるな」と言い出す身勝手さというものは そもそも「自分の頭で真偽を判断していない」という自己客観性の欠落から発揮されるものである
ロシア民族はナチスを撃退したが それは確かに膨大な犠牲を伴う「業績」であるとは言えるものの 所詮は「キチガイを殴って制圧した」だけのことであって それでナチスの蛮行の原因究明や再発防止という「解決」にはならず
むしろスターリン政権によって自国民に対してまでナチス政権以上もの虐殺をするという倒錯した結果までをも生み出したのである
いうなれば プーチンはスターリン政権を事後正当化する形の「虐待の連鎖」として独裁を正当化 「常識」化する形で連鎖しているのである
評価承認欲求というものは 基準の全てが「他人との比較」に依存する価値観である
「俺の方が学歴が高い」 「学力偏差値が高い」 「資産が多い」 「権力を持っている」 といった他人との比較だけが人生における価値となってしまっているため 世間的な評価基準以外には自己を肯定する基準が何もないのである
スパイ諜報の仕事が多数他人の生死を分けるからといって その生死の数だけが人間としての価値になるわけではない
死んだ人数で倫理が決定しないのと同様に 殺した人数や 救った人数で人間としての価値が決まるわけではないのである
福島第一原発事故では 「放射能で死んだ人は一人もいない」と言っているバカがいるが それは「酔っぱらい運転をしてるが 誰も轢き殺していない」と言っているのと同じであり 到底倫理に適う話ではない
仕事柄諜報機関では多数の国民の生死を分けるような判断が必要とはなるものの それは「責任が重い」だけであって その仕事での評価というものはあくまで国益に則った評価基準にしかならず そもそも諜報などの戦争に関わる仕事でありさえすれば「偉い」わけではない
大衆観念的には 権力肩書さえあれば「偉い」という評価を短絡的に下したがる性質があるものの 大臣になったからといって不正行為に手を染めればバカであることに違いはないのである
プーチンやヒトラーなどの独裁者達は 権力者になりたかったわけではなく 権力者や国民からの評価や報酬が欲しかっただけであって だからこそ国民をプロパガンダで騙してまで虚構の評価を欲しているのである
それはイヌが飼い主に媚びへつらうことに快楽を求めた挙げ句に 自分が群れのトップだと勘違いすれば飼い主の手を噛むようになるのと同じ現象である
イヌが求めているのは 盲目的に信頼できる服従対象であって 自分が服従させる立場(権力者)になりたいわけではない
ユダヤ人絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンは 権力者になるためにユダヤ人殺害計画書を作成したのではなく それによって評価が得られることへの快楽だけに溺れた結果 自己客観性というものを見失って盲目的に虐殺計画に邁進したのである
ところが 野犬の群れにおいては 服従する対象がいなくなって自分が群れのリーダーに「なってしまう」状況というものがあり すると群れのリーダーは信頼して盲目的に服従する対象を見失って暴力的になり その暴力性によって繁殖行動も促されることで 群れの中ではより暴力性が高く 盲目的信頼によって服従したがる遺伝子だけが遺る仕組みになっているのである それは決して遺伝子や生物としての目的に則って「選んだ」わけではなく 暴力性が弱肉強食の自然界において生存や「繁殖の継続」において適した「結果」以上の意味はない
一方的に暴力による抑圧をする独裁者に対して 暴力による革命をするのは 一面的には正当性があり チェ:ゲバラの評価は その後の民主的政策が伴ってこその評価である
暴力的圧政者を暴力で革命制圧した後に 結局暴力的圧政をしてしまえば客観的には「首がすげ代わっただけ」に過ぎない
暴力的圧政に対して暴力による革命を起こすことには一面的正当性しか存在しておらず 革命をした「本当の目的」は暴力的懲罰そのものではない
ところが ヒトというのは暴力的懲罰さえしてしまえば安心満足し それで全てが解決したと勘違いしてしまう普遍的習性があり 「本当の目的」を忘れて結局腐敗政治に陥ることの方が多いのである
原因は 目先の気分(主観)的不満を暴力で解消しただけであって その後のビジョンとしての政策目的が何もないからである
フィンランドのように政治に透明性があれば 政策に間違いや問題が生じても民主的に話し合いによって解決することが可能なのであって ロシアであってもゴルバチョフ政権においては透明性を重視したからこそ民主化が進んだのであって 隠蔽主義がはびこる原因とは 身勝手な権力の集中による報酬ばかりを目的にしてしまい 政治というものの「本当の目的」を忘れてしまうのが原因である
プーチンは 本当は何がしたいのかがわからないのである
それはヒトラーや麻原彰晃や東条英機も同じである
ヒトというのは暴力的懲罰が「解決」だと錯覚し 安心満足感という主観によって脳が酔い それが本当に「解決」なのかどうかなど考えなくなる習性がある
そのため 他国に対する暴力的威圧や攻撃差別をしておけば多数衆愚からの人気が得られるため 為政者は安易に他国への差別や暴力を煽って衆愚人気を集めようとしてしまうものなのである
ポピュリズムとは 衆愚多数に見られる普遍的習性に則った自然現象でもあり 無意識という先天的本能習性によって促される行動バイアス(偏り)による「ヒトに普遍的に見られる自然な結果」なのである
本能習性というものは 全てが遺伝的進化によって組み込まれた「結果」であって 祖先の生息環境の影響を色濃く反映し また 「欲望そのものを欲することはできない」ものでもある
それなら自由意志の全てが存在していないのかと言えば そうではなく 支離滅裂で合理性のない様々な欲望の中から 統合的に「本当に求めている目的(人間としての真理)」に基づいた行動選択をすること「も」可能ではある
要するに 「本当の目的(真理)」が見極められないバカだから 間違いを繰り返すのであって バカとは何かを理解し バカになる原因を知り バカにならないようにすれば 自ずから「バカではない状態」にもなれるのである
そのために必要なのは まず自分の意識の本質が何なのかを識別することであり 主観的情動を客観的に検証する自己客観性が重要なのである
「気分が悪い」とか 「怖い」とか そういった主観的気分は横に置いておいて 論理客観的に考えて「何が本当に正しい話なのか」「信じるに価する話なのか」を見極めることが必要なのであり
「気分の良くなる話」や「信じたい話」や「安心満足する話」ばかりを盲目的に信じようとするヒトの先天的な頭の悪さを理解し 自覚する必要がある
主観には錯覚が混入する危険性がある
錯覚を錯覚だと認識理解するために必要なのは 論理客観性であって 「直感」や「印象」などの主観ではない
ヒトにおける戦争が、「ヒトに生物学的に備わっている本能的性質によるものなのか」という問いは無意味だ。集団間にどのような利害対立があるのか、それを解決するためにどれほどの攻撃を用意するのか、自集団はどれだけ結束できるのか、といった問題の集合の結果として、戦争という行為が選択されるのかどうかが決まる。
長谷川眞理子
⇨ヒトにおける戦争が、「ヒトに生物学的に備わっている本能的性質によるものなのか」という問いは無意味だ。
なぜそう言えるのであろうか 論理客観的根拠が示されておらず 真実であることの証拠が何もなく 単に長谷川眞理子の主観的印象に基づいた決めつけにしかなっていないのである
集団間にどのような利害対立があるのか、それを解決するためにどれほどの攻撃を用意するのか、自集団はどれだけ結束できるのか、といった問題の集合の結果として、戦争という行為が選択されるのかどうかが決まる。
これらの要因は全て環境条件であって 戦争の全てが一律に環境依存的に「他人が悪い」と言い張ることはできない
ヒトが戦争や懲罰暴力で解決しようとする原因は 合理性があるわけではなく 先天的本能習性として その方が気分的に満足感が得られるからである
一人の社会的存在としての「人間」の振る舞いを 単なる環境条件だけで論じて良い話ではない
ゲーム理論とは、自分と相手との間に、ある状況において取り得る行動選択肢がいくつかあり、自分が一つの選択肢を取り、相手もまた―つの選択肢を選んだ時、双方の利益と損失がどうなるかを分析する理論である。例えば、「とことん攻撃」という選択肢もあれば、「いい加減で引く」という選択肢もある。どちらにも、それぞれの戦略を取り、相手がどちらかの戦略を取った場合の利益と損失がある。自分が「とことん攻撃」戦略を採用し、相手が「いい加減で引く」戦略を取ってくれれば、それは自分が勝つだろう。しかし、相手も「とことん攻撃」戦略を取るのであれば、双方の損失は増加の一途をたどる。こんなことなら、「いい加減で引く」戦略を取っていた方がましだ。では、どこに落ち着くか。
***
こうして、高い攻撃性が備わった動物であれば仲間に対しても攻撃が起こり、そうでなければ攻撃はない、といったシナリオは無効であることがわかった。生存のためには、誰でも攻撃性を備えているのだが、それがどのように表出されるのかは、社会関係の状況によるのである。
これは全部環境依存的な「結果」だけでしか行動が決定しないイヌやチンパンジーや暴力団の抗争や 合理性のない暴力や虐殺をする為政者の行動しか論証することができない
強盗が押し入ってきて 虐殺放火略奪の限りを尽くしている状態において「いい加減で引く」戦略などあり得ない
どのように表出されるのかは、社会関係の状況によるのである。
社会関係の状況が悪いなら あらゆる悪事が正当化できるわけではなく 社会関係の状況が悪いのであれば暴力以外の正当な改善方法を選択する理性というものを無視して 野獣の行動習性だけで物事の全てを説明しようとするのは こじつけでしかない
高い攻撃性が備わった動物であれば仲間に対しても攻撃が起こり、そうでなければ攻撃はない、といったシナリオは無効であることがわかった。
などと主張しているが 何が「わかった」と言えるのであろうか?
実際にナチスを撃退したソ連のスターリン政権が自国民に対してまで虐殺を行った事実は存在し 何一つ「シナリオは無効」であることの証拠はない
一体長谷川眞理子は何を「わかった」と言っているのであろうか
自身の勝手にでっちあげた仮説の上におけるシナリオにおいてのみ「無効だ」と主張されても それは都合の良い「お花畑」にしかならない
こんな支離滅裂なことを言っている長谷川眞理子が大学で学長を務めていられることそのものが 相当にイカれている
言っておくが大学というのは政府税金からの交付を受けているのであり 社会的責任として間違った嘘やデマをひけらかしてバカ学生から人気を集めて授業料を徴収しておいて良いものではない
なぜ生物学や哲学に関してだけは論理客観的根拠や証拠に基づいた論証が通じないのかは 私の知る術もないが マスコミまでが「学術権威」という肩書だけで内容を盲目的に鵜呑みにしているというのは 批判精神というものが全く欠如しており 真面目に物事を考えていない不謹慎な態度である
NHK公共放送が 大衆のウケ狙いで嘘やデマで人気や視聴率稼ぎをするというのは
公共水道で喩えれば 水道にアルコールや薬物を混ぜて利用者を酔払わせて水道使用量を水増ししているようなものである
嘘やデマの方が衆愚人気が得られることはわかっていることであり 衆愚の多数を「スポンサー」だと称して衆愚人気を集めることを公共放送が目的にして良い理由にはならない
NHKの番組制作者の大半がバカで 生物学権威や哲学権威の言っている内容に間違いがあっても認識しようともせず 漫然と垂れ流しをしておいても自分達には責任がないと「思って」いるのかもしれないが
そうした無意識さこそが 社会の無責任を助長し バカげた事態を繰り返してしまう大きな要因となっているのである
公共放送の目的とは 多数の衆愚から人気を集めて嘘やデマをひけらかすことではなく 論理客観的根拠に基づいた真実を報道することである
生物学者や哲学者共の荒唐無稽な嘘やデマや誤謬を 何の検証もせずに唯々諾々と垂れ流しておいて「自分達には責任がない」と「思って」いるというのは あまりにバカ過ぎてどうにもならない
Ende;
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