一般的に 他人からの見た目を「自意識」と呼ぶが 他人からの見た目は「自分の意識」ではない
そもそも他人からは自分が何を考えているのか 何を感じているのかがわからないのであって 考えや思いというものは個人の脳内で閉じているものであり 他人からは自分の意識などわかりようがないのである
ヒトは その先天的な「社会性」によって 他人からの見た目 他人からの評価に敏感に反応しがちな習性があり 故に多数他人との差異に「恥ずかしい」とか「格好悪い」といった感情が生じる
しかし こうした感情というものは 単に同調的圧力として働くだけであって 多数が間違ったものを信じ込んでいたとしても 間違いを間違いだと指摘することに対しての恐怖心も作り出してしまうのである
たとえ自分がバカげた間違いをしていたとしても 多数が同じ間違いをしていれば 気分的には安心することができる
らしい
私は安心できないので よくわからない
アスペルガーだと「空気を読む」ことができないので 同調圧力を「感じ」ないらしいのだ
多数他人に同調して安心している自己のことを アスペルガーではない大多数の人は自分の意識の本質だと認識しているようである
ヒトは所詮動物であるために 主観的安心や満足感を求めるものであることに違いはない
だが ヒトの場合は論理客観的安全性と 主観的安心との区別をすること「も」可能ではある
「皆と一緒で主観的気分としては安心満足だけれども 論理客観的に考えたら安全とは言えない」ことを識別すること「も」可能ではある
可能ではあるものの 論理客観的に考えなければ それは識別することができず 主観が優先してしまい 何も考えなくなる
「意識の9割は無意識」と言われているが 要約すれば「9割が主観」という意味でもある
振り込め詐欺師に騙され 恐怖によって行動を支配されている状態になれば 意識の全てが情動という無意識に支配されてしまい どんなに説得しても 「いや、自分は絶対に騙されてなどいない」と言い張るようにもなる
虐待が連鎖してしまうのも 虐待されて育ったことによって 虐待状態こそが「常識(正解データ)」として行動学習的に学習してしまうことによって それ以外の行動が主観的情動によって制限されてしまうことで生ずるものである
「しつけの一環だ」とか「自分はそういう育て方しかされていない」といった言い逃れや取り繕いは 「そう思わなきゃ やってられない」からであって 強力な「思い(情動・無意識)」による条件反射的行動制限によって 虐待は連鎖され続けることに陥るのである
社会学者の宮台真司が学生に対して「自分の頭で考えるのは10年早い 教えられたことは丸暗記しろ」と言い出したことがあるが その「理由」として宮台は 「自分は学生時代に教授からそう言われた」とも言っている
自分の頭で考えずに 盲目的に唯々諾々と丸暗記することが教育として正しいのかどうか それすらも「考えて」はいけないという非合理で理不尽な「教育」を 宮台は学生時代に受け入れたという過去の選択を 事後正当化する形で学生達にも強要しているのである
しかも 「自分は絶対に間違ってなどいない」という自己過信によって 頑なに自分の主張を曲げようとはしないのである
こうした非合理で理不尽な「常識」を強要してくる人というのは 別に宮台真司に限ったことではなく むしろヒトという種の生物全般に普遍的に見られるものであって 「お茶くみは女子社員の仕事」などといった ありていに言ってバカみたいな「常識」が長年因習として受け継がれてしまうのも ヒトの先天的な認知上の欠陥によるものである
ヒトは 生育環境から受けた価値観や常識の影響が行動に大きく作用し 論理客観的には非合理で理不尽な「常識」であっても 過去に既に受け入れた価値観は その「受け入れた自分の選択」を事後正当化する形で頑なに堅持しようとするものなのである
「他人のフリ見て 我がフリ直せ」と言うが 宮台真司個人を懲罰的にバッシングすることには意味がない
宮台のような間違いは ヒトであれば誰でも陥る可能性のあるものであって 宮台の間違いと同じような間違いに 自分が陥っていないかどうかを検証する自己客観性こそが重要なのである
みんなで寄ってたかって宮台個人をバッシングしておけば 「皆と一緒」という主観的安心感や 既存の正義の観念を満足させることは簡単なことであり 「私刑」の類いがネット上で氾濫するのも それが主観的気分として満足感が得られるからに過ぎない
「ヒトは間違えるもの」であることを前提にすれば 他人の間違いを懲罰的に攻撃することは「解決」にはならず 間違えた経験を基に論理客観的に原因究明と再発防止の教訓知識として共有することこそが 同じ様な間違いを繰り返さないためには最も重要なのである
宮台真司は社会学者としては決して無能ではない
ただ 教師としての教え方には問題がある
誰も全知全能ではない以上 「ヒトは誰でも間違えるもの」であって 「間違えた個人を攻撃して満足すること」もまた間違いなのである
「過ちて 過ちを改めず これ 本当の過ち」とは 論語だっけか?
何でも良いや 中国の古典だよ
ヒトという種の生物は 普遍的に間違いを認めようとせずに頑なに間違った観念に執着してしまう習性があるために わざわざ「何が本当の間違い」なのかを明確にしなければならないのである
お昼になったのでモヤシ炒めて旭川醤油ラーメンで喰うんだ
Ende;