更科功は自身の考えを「究極の答え」などと称しているが これは更科が自分のことを全知全能の神か何かと倒錯しているからである
ナチスの蛮行は「最終解決」だと信じたからであり 自分達の信じているものが究極絶対的な解答であると錯覚していたからこそ600万ものユダヤ人殺害をも実行できたのである
有限の脳しか持たぬヒトに「究極絶対的答え」なんぞ知覚できるわけがないのだが 断片的には嘘と真実の区別をすること「も」可能ではある
科学や哲学というのは 断片的真理の積み重ねによって より高次の真理へと近づくことができるからこそ 反証主義が重要なのであり 批判精神なしに神だの権威だのプーチンだのヒトラーだの麻原彰晃の言っていることを盲目的に信じ込み 何の疑いも持たなくなるからバカになるのである
何かを絶対的な究極の存在だと信じ込み 何の疑いも持たなければ 衆愚は主観的には安心満足感が得られるのであろう
だが それは「親大人や権威を盲目的に信奉する幼稚な子供の満足(パターナリズム)」でしかないのである
子供のうちは知識も思考も充分ではないために 子供の幼稚な考えで行動しないようにせざるを得ないが 大人になるにつれて知識や思考を磨き 自分で自律的に物事を考え判断する能力を獲得させてゆくことで 社会的にも責任ある行動選択ができる「人間」として育てなくてはならないのだが
いつしか学術権威からの評価承認 学力成績という抽象化された脳への報酬だけに意識を奪われ 自分の頭で物事の真偽を判断する能力を失い 盲目的倒錯による主観的安心満足感ばかりを追求するようになり バカな衆愚へと誘われてしまうのである
「東大生=頭が良い」などという観念が未だに世間では通用してしまうが 地下鉄テロをやらかしたオウム幹部の多くに東大医学部の学生達が含まれていたことや ISIL(イスラム国)の幹部達にも高学歴な者が多かったことからも 学力成績は知能の論証にはならず 認知科学的にも学力は知能の論証にはならないことが立証されているのである
ヒトは 主観的に気分の良い話をしてくれる相手を「頭が良い」と錯覚する習性がある
それは 自分の主観的な直感や印象というものを絶対的なものだと倒錯しているからであり 自身の主観(気分情動)こそが意識の本質だと錯覚しているからである
イヌはエサをくれてやれば 相手が泥棒だろうが殺人犯だろうが服従する
イヌは目先の欲望でしか行動が決定しないからだ
ヒトもまた 権威肩書や多数からの評価承認という「脳への報酬」欲しさにインスタグラムなどのSNSに「虚構の充実」をアップロードすることに中毒になるのも 評価承認欲求という「自意識(本質的な自己の意識とは別物である)」だけに意識を奪われ 本当の自分を見失うことになるのである
ヒトがドイツのナチス政権やロシアのプーチン政権や日本大学の田中英寿体制などの腐敗組織に迎合同調忖度服従してしまうのは 組織内部での評価や優位な序列立場を得ることだけが目的になってしまうからである
軍隊であれば致し方あるまい 民間人を虐殺することを命令してくるようなキチガイ上官の命令に背けば 自分がその場で反逆者として殺される立場であれば 服従して民間人虐殺をするか 自分が上官から殺されるかの究極の2択しかないからだ
だが 日本大学はそうではない 東京電力福島第一原子力発電所でも同じである
自分のことを全知全能の神か何かと倒錯している更科功の話を盲目的に信奉し 何も疑わずに信じ込んでおけば主観的には安心満足感が得られるのであろう
それはもはや科学ではなく 盲目的宗教による洗脳である
洗脳状態のヒトに対し 「お前さんが信じ込んでいる教祖様はイカれているぞ」などと言えば 「いや、そんなことはない。自分は絶対に間違ってなどいない」と頑なに拒絶するであろう
自分が一度信じ込んだ相手や話を否定されると ヒトは反射的に拒絶反応を示すものなのである
認知行動療法では 頭ごなしに「間違っているぞ」などとは言わずに 「どうしてそう思うのですか?」という質問攻めによって あたかも自分の頭で考え自ら気づいたかのように誘導する手法が用いられる
最終的な結論は同じであっても 気分的に悪くないように誘導されれば ヒトは素直に自分の間違いを受け入れること「も」可能ではあるが
こうした認知行動療法的手法というのは あくまで他人からの誘導による認識に過ぎず 自らの頭の悪さには自覚がないため 間違いの全てを他人が誘導してやらないとならず 決して自分から自分の間違いを自覚できるようにはならないのである
衆愚のご機嫌取りをしても 衆愚が衆愚であることを自覚して衆愚ではなくなるようにはならないのである
「お前はバカだぞ」と直接言えば それは嫌われることはわかっている
だが 本論は衆愚から主観的に好かれることが目的ではない
衆愚が自らの頭の悪さを自覚し 衆愚ではなくなるための「出口」を提示しているのである
長谷川眞理子は「戦争は個人の暴力とは別物」だと断言したが これには客観的根拠はない
地政学が戦争を予言したことはなく 組織腐敗は日本大学でも東京電力福島第一原子力発電所でも起きたものである
リクルートでも雪印でも東芝でもオリンパスでも長銀でも どこでも起きるのが組織腐敗である
ウクライナの惨状から比べれば 規模だけに着目すれば日大の組織腐敗なんぞ「さざ波」かも知れないが 「一つの大きな事象の陰には 無数の小さな事象が隠れている(ハインリッヒの法則)」のであって 決して事象の規模だけで別物だと決めつけられるようなものではないのである
ロシア人がプーチン政権を盲信していることと 学術権威の主張を盲目的に鵜呑みにしていることは別物だと 衆愚は主観的に「思って」いるのであろうが
ヒトである以上普遍的に同じ間違いを犯す可能性は充分にある
それが主観的 感情的に不安や精神的恐慌をきたすとしても それもまた主観であり 本能的情動による「無意識」に過ぎない
「ヒトの意識の9割は無意識」なのであり 自分の意識の9割が先天的本能習性によって支配されている以上 不安かどうかは真理真実とは関係がない
だからわざわざ論理客観的検証として科学や哲学という分野の社会的存在意義があるのであって 科学や哲学に主観が混入するからオカルトにしかならないのである
オカルトを科学や哲学的真理だと信じ込んでいたら それは間違った結末に陥るのは必然というものである
Ende;