「社会力」だの「同調」や「共鳴」といったものは 「大きな力」を発揮するものではある
しかし その「大きな力」というものを欲望のままに利用し 地球環境資源を喰い尽くす程に異常繁殖している事実を無視し 「繁栄」などと形容して正当化しているのは 現実を直視しておらず はぐらかしやごまかしにしかなっていない
ヒトが持つ「社会性」というものは 統率的協調性を発揮することで安心感や満足感を得られるが故にラグビーなどのスポーツ競技においてチームの強い結束を作ることもできるが
その一方で 武力攻撃における残虐性や 振り込め詐欺や暴力団の封建的順位序列による統率やヘイトスピーチのような差別も作り出すものでもあり
一面的効用だけを採り上げて生物学的な「社会性」というものを全面的に正当化しようとするのは客観性を欠いた大衆迎合にしかなっていない
生物学者や脳科学者共というのは 将棋の成績だけで知能だと主張し スポーツの成績だけで「社会性」などと主張しており 芸術や将棋やスポーツといったものは所詮遊興であって その成績や人気の「数」だけで人間としての優位性の論拠には全く当てはまらない
衆愚は哲学というものを あたかも「読んで主観的に気分が良くなるもの」「主観的悩みが解決するもの」であるかのように錯覚しているが これもまた主観という無意識が優先しており 科学や哲学というものが論理客観的真理の探求であることを忘れ 身勝手なこじつけばかりを鵜呑みにして真実を見誤っていることに誰も気づかないのである
将棋でいくら「直感(主観)」が有効であることを論証しても それは所詮将棋というゲーム上での特殊な能力に過ぎず 応用性や汎用性は何もないのである
スポーツ競技において チーム内での統率的協調性を発揮し 「仲間意識(無意識・情動)」をいくら満足させても それは所詮主観的満足以上の何ももたらすことはないのである
「心を一つ」などと言えば衆愚大衆は人間性か何かだと勝手に妄想して満足感を得てしまうのであろうが ミャンマー軍やロシア軍による残虐行為も 少数民族による反政府テロも 香港民主化勢力に便乗した暴動も その行動において「心を一つ」にしているという勝手な仲間意識による主観的安心感が暴力破壊を正当化できているという倒錯であり あらゆる組織的暴力には「心を一つ」にするための盲目性が働いているのである
スポーツ競技であれば 盲目的に競技に勝つことだけを考えていれば良いが それは「勝ちたい」という欲望を満たすためだけの「遊興」であって むしろヒトの暴力性をゲームという遊興によって解消満足させるためのものであって 生物学上の「社会性」という統率協調性というものは 所詮主観的欲望を満足させるためのものに過ぎない
フォートナイトのような殺人ゲームに人気があるのも ヒトは統率協調的に殺し合いをすることで 仲間同士の連帯や仲間意識を満足させることが快楽だからである
山極寿一のような生物学者共は ヒトの統率的協調性による「大きな力」というものが あたかも自然界においては他の生物との生存競争だけに用いられているかのように言っているが 実際にはヒト同士での環境資源の奪い合い競争も多く 文明から隔絶された少数民族における紛争での死亡率は年間1%に達するという
1%というと 大したことではないかのような感覚を持ってしまうかも知れないが 平均寿命を50年と仮定した場合には 2人に1人は紛争で死んでいることになるのである
例えば100人の部族の中で 毎年1人ずつ他の部族に殺害されていれば それは他の部族に対する猜疑心や報復の連鎖は止められなくなるだろう
日本大学における組織腐敗の傍観放置も その内部においては「心を一つ」にする仲間意識が働いていたからこそであり 「社会にバレなきゃ組織腐敗でも構わない」という身勝手な観念があったからこそ誰も組織腐敗に対して異議を唱えなかったのである
民族主義者が同一民族だけで「心を一つ」に他の民族を差別排除するのも 仲間意識に対する安心が中毒的に暴走するからであり 他の集団を攻撃している間は仲間同士での共感共鳴同調による快楽安心感が得られることへの中毒症状として 非合理な差別への暴走を引き起こすのである
個人的な主観として 他の民族や文化に対する嫌悪感がある場合もあり ドイツ人は日本人が「鼻をすする」ことへの嫌悪感を持っているのだという
日本人であれば「鼻をすする」ことは別に何とも思わないものだが ドイツ人の文化としてはタブーとされているのである
とは言え たとえドイツ人であっても日本に移住して暮らしていれば慣れてしまい 何とも思わなくなるようにもなるものである
東南アジアのどこかの国では 「Vサインが良くない」という話も聞いたことがある
文化や風習というものは 主観的安心感を醸成すると同時に それにそぐわないものに対する観念的嫌悪感をも作り出すものでもある
主観的嫌悪感というものは人それぞれであり 個人的なものに過ぎず 社会的にはどうでも良い話に過ぎない
私は個人的にハゲオヤジ同士で仲良くしていることに対して嫌悪感を持ってしまい 若い女性同士が仲良くしているのは逆に素敵だなと思ってしまうが 同性カップルであることに違いはなく 社会的差別の対象にすべきではないことは理解しており どのみち個人的好き嫌いの範疇の話に過ぎないものを社会的行動とは切り離す理性が必要である
ヒトは所詮親子であっても別人であり 理論的には「他人の気持ちは本当はわからない(又吉直樹)」ものなのである
「心を一つ」にしたがるのは その方が気分的に安心満足感が得られるヒトの先天的「社会性」によって促されるバイアスに過ぎず より大きな集団に属していることに対する主観的安心感欲しさにヒトは「心を一つ」にしておきたいという先天的欲求を持っているものではあるが だからといって合理性のない差別排除や暴力による協調性までをも正当化することはできないのである
ヒトは「欲望そのものを欲することはできない」のであって 様々な欲望の中から最も合理的で 自己が存続するに価する社会の理想に基づいた行動選択をすること「は」不可能ではない
自分が暴力や差別を受けたくないのであれば 自分も他人に対して暴力や差別をしないようにするのが人間性である
「歯には歯を 目には目を」という報復主義は ヒトの先天的な欲望であって 報復の応酬には何の合理性もないことは歴史を見ればわかることである
本当に合理性があるかどうかが重要なのであって 歴史の中から報復の応酬をどんなに大量に抽出枚挙してきても 報復の応酬が合理的で正当性があることの論証には全くならない
ヒトは主観的気分が安心満足することを 短絡的に合理性だと錯覚する性質があり
心理学においても「気分的に都合の良い解釈」のことを「合理化」などと形容している程である
気分が良くなることが合理的であることの論証にはならない
そもそも「気分が良くなる」かどうかは選択不可能な先天的な脳の構造に由来するものであり 「欲望そのものを欲することはできない」範疇のものである
通り魔が暴力を振るうのは 暴力を振るうと満足感があるからであって その満足感そのものは選択不可能で「欲することができない」ものである
ヒトの祖先がかつての生息環境において 「暴力で解決」しておいた方が生存にとって有利に働いた結果として 「暴力で解決」したがる習性を持った遺伝子の方が拡がりやすかったという結果でしかない
通り魔を死刑にして満足するのも 結局は同じ情動による満足感が優先しているからであり 「なぜ通り魔などという非合理で意味のない行動を採るようなバカになったのか」についての原因究明にも再発防止にも全くならないのである
「本当は他人の気持ちはわからない」とか
「通り魔を死刑にしただけでは通り魔の再発防止にはならない」といった話は大衆にはウケが良くない
ヒトは「他人の気持ちはわかっているはずだ」と信じておきたいからであり 「通り魔や死刑にしておけば安心」だからである
これらは全て情動であり 先天的な欲望によるバイアス(偏り)である
ヒトは所詮動物である以上 その行動バイアスは他の野生動物とさしたる違いなどなく 合理性のないバカげた行動であっても主観的安心感や満足感が優先し 非合理な行動選択をしてしまいがちなものなのである
「意識の9割は無意識」とは 要するに欲望や感情が意識のほとんどを決定してしまっていて 論理客観的合理性に基づいた行動判断選択は1割にも満たないことを意味するのである
欲望や情動そのものは欲することも 選ぶこともできないが ヒトは欲望や情動だけでしか行動選択ができないわけではなく 自分の頭で考えて 本当に最も重要で優先すべきものが何なのかを選択することは不可能ではない
不可能ではないが 主観的には「やりたくない」だけのことである
それが精神的怠惰というものである
ヒトは生物学上の「社会性」を発揮して 「心を一つ」に多数派に同調し 権威肩書の主張を安心して鵜呑みにしておいた方が満足感が得られるものである
その「満足感」こそが 「欲望」によるものであることを 多くのヒトは自覚認識していないようである
自分の主観的満足安心感は一度棚上げにしておいて 本当に大切な社会安全性や公平性にとって重要な選択とは何かを 自分の頭で考えないからバカになるのである
生物学的な「社会性」を発揮しておいた方が気分的には安心満足感が得られるものではあるが 人間としての「社会性」すなはち自律的な社会的責任判断選択というものは 必ずしも主観的安心満足感が伴うとは限らないものでもある
腐敗した組織の内部において 組織の利益に適わぬ行動選択をすることは決して安心満足感など得られず 差別排除の対象にされて身の危険に及ぶ可能性も充分にある
生物学的な「社会性」は「大きな力」を持っているが故に その「大きな力」に対して個人は無力感を感じ 安易に絶望して多数派に同調迎合忖度服従しておいた方が 主観的には安心満足感が得られるのであろう
学校でのイジメにおいては 8割の生徒が傍観者だと言われているのも 主観的に「怖い」相手には逆らいたくないからである
フリードリヒ:ニーチェは「できそうにないことは やらない方が良い」と言ったが 「できそう」かどうかは個人の主観的印象であって 「イジメに逆らうことができそうか できそうにないか」は「やらなくて良い」ことの正当性の論証には全くならない
山極寿一は京大学長時代に松沢哲郎を支持した立場であり 11億もの研究費不正流用の責任の一端もあるはずで そもそも「ヒトには先天的に人間性があるはずだ」などという論理客観的根拠のないデマで大衆人気を集めた上に その一方では「安倍政権はゴリラと一緒で忖度だらけ」などという支離滅裂なことを言い出すバカである
ヒトにもゴリラにも見られる普遍的習性としての「忖度」が 一体人間性の論証なのか それとも卑怯で身勝手な行動なのか 言っている内容に整合性がなく その場限りの無責任な発言であることに 大衆マスコミは全く頓着がないのである
ヒトの大半は 権威の主張に論理整合性があるかどうかには何の興味もなく ただ権威肩書の言っていることを盲目的に鵜呑みにして信じておけば主観的無意識に安心満足しているだけなのである
その意味においては「自由意志などない」とは言えるのである
自由意志がないからバカなのであり
バカだから自由意志がないのである
◇
踊りを踊ることがメスに対する「生存の余裕」の表現になるという見解があるが
ロクロクビオトシブミの配偶者選択が働くのは 非合理な形質であっても天敵に食い尽くされない環境ありきの結果でしかない
オスがメスの気を引くための行動が 結果的に生存の余裕による産物であるとしても それはあくまで余裕が持てるだけの環境下における結果に過ぎず そもそもメスがオスの繁殖行動に「酔う」のはメスの主観であって 欲望という主観そのものは選ぶことができず 合理性も必要はない
無駄な配偶者選択をするようなメスの遺伝子は その生息環境において生存価において余裕がなければ拡がらず 死滅するだけである
たまたま生息環境に余裕があって 合理性のない意味不明な繁殖行動として踊りをを踊るオスをメスが選択しても死なずに死滅しなければ生物として現存可能となっているだけの話に過ぎない
繁殖における様々な踊りの類いは 別にメスが合理的に何かを考えてオスを選択しているわけではなく 偶発的に踊りを踊るようなオスに脳が酔っ払うメスでも環境淘汰圧力が弱ければ死滅せずに遺伝子が拡がっただけの話に過ぎない
ヒトの女性が「吊橋効果」によって 暴力的な男に対する性的興奮をしてしまい 結果的にDV男との間に子供を作って社会的負担にもなってしまうのも 「合理的意味」などどこにもないのである
祖先の生息環境においては 暴力性が高い方が生き残りやすかったのかも知れないが その結果として女性が暴力性の強い男を選びがちなのも 所詮は「結果」であって 合理的な「目的」があるわけではない
従って 「踊りが余裕の表現」だという見解は 遺伝的進化の結果に対して後からこじつけた屁理屈に過ぎない
遺伝的進化に対して後からいくらでも理由をこじつけることは簡単であり 「○○のために進化を選んだ」といった説明の全ては生物学者共による遺伝的進化に対する「典型的な間違い」であり 後からこじつけた根拠のない屁理屈でしかない
光のない洞窟に適応すれば 眼が退化することもあれば 生息環境が安定していて淘汰圧力がほとんどかからなければシーラカンスやオウムガイのように何億年も形質がほとんど変わらない生物もいるのである
配偶者選択によって意味のない形質や習性が見られるとしても そこに合理的意味が必ず存在する必要性はなく あくまで生息環境に適応して「繁殖の継続」さえしていれば 単に「メスの脳が酔う」配偶相手の選択であっても生物としては成立してしまうのである
ロクロクビオトシブミは他の環境では生息不可能であろう
アズマヤドリやクジャクでも同様なはずである
あくまで生息環境に適応さえしていれば 意味のない形質や習性への収斂進化が起きても生物として存続することは成立するのである
たとえライオンであっても西表島には適応することは出来ず おそらくエサが充分に摂れずにすぐ死んでしまうであろう
大衆観念的には 特定の能力の高さこそが優秀さであるかのような解釈をしたがるが 生物というのは環境に適応できなければ存続できないのであって
どんなにヒトが「繁栄」と称した異常繁殖を正当化しても それが原因で地球環境を破壊している最も大きな要因となっている事実をねじ曲げることはできないのである
ヒトは先天的な動物的「社会性」によって「大きな力」を発揮することが可能とはなったものの その「大きな力」を何に どのように発揮するかを選択することが充分にできておらず 合理性のない環境破壊や殺し合いにばかり発揮していることが問題なのである
環境を破壊する程の「大きな力」があることを いくら自慢されても何の合理性の論証にもならない
大衆観念的には「繁栄したから優秀だ 知的生命体だ 強い存在だ」と勘違いしておけば安心満足なのであろうが
論理客観的には異常繁殖して自滅の一途を辿っている「バカの独りよがり」に過ぎない
「バカの独りよがり」をいくら多数で共有し 共感共鳴して安心満足しても それが論理客観的正当性の論証になるわけではない
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