現代における神頼み 望むことで得る平安
⇨ヒトには主観と客観がある
夜中に泥酔して暴力や痴漢行為をしているバカは「殴っておきたい」と思う主観もあるが 同時に「何がどうしてそんなバカになったのだろう?」という客観的好奇心もある
私は実証不能の神を信じてはいないものの セーレン:キェルケゴールの真理に対する真摯な探究心には感服せざるを得ない
「死に至る病」冒頭に以下の一文がある
「主よ! 無益なる事物に対しては我らの眼を霞ましめ、 汝の凡ゆる真理に関しては我等の眼を隈なく澄ませ給え。
当初 この本を読む際には気にもしなかった一文だが その内容を読み進むにつれ その「信念」に尊さすら「感じ」るようになった
無論 私の個人的主観に過ぎない
単なるキェルケゴールの主観的「望み」であって
客観的には「どうでも良い話」である
「迷惑者はザラにいる」と称して自分の迷惑行為が正当化出来ていると勝手に勘違いしている迷惑系ユーチューバーがいたが 「俺の迷惑行為なんぞ 大したことではない」という比較を用いた正当化の手口は 養老孟司による「私は教科書に墨を塗らされた どうせ間違っていない本なんかないんだから 間違っていたら墨を塗れば良いんだな そう思っています」と称して支離滅裂な話を展開するのと同じ手口である
どうせ世の中バカばっかりで 間違いだらけなんだから 「まちがったっていいじゃないかにんげんだもの」的な開き直りともとれる言い逃れに衆愚は満足し その主観的満足を客観的真理か何かと履き違えて思考停止に陥る衆愚は非常に多いものである
「非常に多い」ということは 「ヒトという種の生物に普遍的に見られる」ということでもあり 「子供のイジメなんか皆やるものなんだから そんなの無視しておいても構わない」という傍観放置の屁理屈に用いられることも多い
ヒトは「多い」ことには安心し 多数でありさえすれば「正常」だと見なして何の対策もしなくなるものである
フリードリヒ:ニーチェの「迷言」の数々は 根拠や基準が曖昧で 読み手が都合良く主観的に気分が良くなるようこじつけ解釈することが可能であるために多数から人気を得られる
主観的満足感というものと 客観的真理(哲学)を区別せず あたかも「哲学というものを主観的に安心満足するための芸術文学」か何かと勘違いしているバカは「多い」ものである
そしてその「多数」によって 衆愚は自らの頭の悪さを安心して自覚しなくなるのである
ほんの数年前には大学でニーチェを教え込んでいたそうで 下手すると今でも教えているのかも知れないが 少なくとも現代人の大半はニーチェを論理客観的根拠に基づいた真理(哲学)だと錯覚しているバカが大半であろう
「哲学には好き嫌いがあります」と言い出す「哲学者」がいるが そんなもん何だって個人的好き嫌いなんかあって当たり前であり 主観的に嫌いであることが「間違い」で 個人的に好きだから「正しい」ことの論証になどならないのは当たり前の話である
痴漢に遭うのは基本的に若い女性である
ヒトの男は基本的に見た目が幼い女性に性的衝動を促されやすい先天的傾向が存在するからである
進化的にはヒトは幼形成熟性が高く 体毛やシワが少ない傾向があるが これはヒトの祖先による配偶者選択によるものである
女性であっても配偶者選択には「肌がキレイかどうか」が基準になるという
人気アニメキャラクターの多くは顔が幼いものが多いし 女性アイドルも世間一般から比べると幼い顔立ちの方が多い傾向がある こうした先天的な傾向性というものは祖先の繁殖の過程における収斂進化の結果であって 決して主体的に選択できるようなものではなく それだけでは「自由意志」であることの論証にはならない
「欲望そのものを欲することはできない」のである
これは定理でもある
欲望というものは遺伝的進化によって結果的に組み込まれた大脳辺縁系による情動行動バイアス(偏り)であり 状況や環境に左右されるシーケンシャル(機械的)な条件反射に過ぎない
欲望や衝動によって短絡的行動が促されるというのは 進化的には正当化可能なものであり 進化的に幼女強姦の衝動が存在しているからといって正当化できるようなものではない
先天的な本能習性というものは あくまで遺伝的進化という自然現象の結果であって その全てに合理性や正当性が存在しているわけではなく むしろ「繁殖の継続」においての収斂進化や 「拡がりやすい遺伝子」が拡がったというだけの結果以上の意味など存在しないのである
したがって 遺伝的進化による「説明」からは 人間としての社会性 自律的な社会的責任判断選択について論証することは原理的に不可能なのである
航空機が墜落するのは航空機というものの構造原理によるものであって 「墜落する」ことを前提として安全性を追及することが重要なのである
船舶も沈没するが 原理的に沈没する可能性があるからこそ 沈没しないようにするにはどうすれば良いのかを考え選択することが必要なのである
ヒトは原理的に間違えるものである
誰も全知全能の神じゃねぇからな
だからこそ 「間違える可能性」に基づいて 「どうやったら間違えずに真理を見極められるのか」を常に考え続けなければならないのであって
遺伝的進化に基づいたあらゆる説明というものは あくまで「ヒトという種の生物」の結果以上の何も論証することはできず 人間性や倫理 合理性といったものを見出すことは構造原理的に不可能なのである
動物としての「ヒト」は 懲罰や暴力によって物事が「解決」するという感覚(錯覚)が先天的にあり 国家権威による司法裁判の判決が出れば ほとんど誰も批判せずに唯々諾々と鵜呑みにして泣き寝入りするだけである
「痴漢や性犯罪は強盗殺人よりも罪が軽いから 懲役何年」という判決は 被害者からすれば合理性が何もないのである
社会的にも合理性などなく 「どうして痴漢などの性犯罪をするようなバカになったのか」についての科学的知見というものが司法裁判からは全く得られないのである
マスコミも短絡的に「動機の解明が待たれる」などと言い出すが これは司法警察の捜査における手続きを そのまま鵜呑みにして垂れ流しているだけであって 犯罪者の動機を解明しても加害者の身勝手な主観が出てくるだけである
プーチンに対する心理分析で「冷徹な理性」などという形容詞が出てきているが 「冷徹」であることというのは強い実証不能の観念に囚われているからであって 情動バイアス(偏り)が認知に悪影響を及ぼし合理性を欠いた執念(中毒)によるものであり 「利己的行動選択を理性だ」と見なしている大衆観念的誤謬に基づいた分析に過ぎない
本当の「理性」 究極の「理性」とは 自らの生存すらも顧みずに社会安全性や公平性を優先する人道的なものなのであり 利己的利益をいくら追求しても「本当の精神の平穏」には全くならないのである
物質的な富や 権力をいくら手に入れても それは結局他人との比較における優越感にしかならず 平和で平等な社会への希望には全くならない
しかし ヒトというのは先天的にはバカなので どうしても目先の欲望ばかりを満たそうとしてしまい 「本当の目的」を忘れて非合理な行動や言動ばかりに囚われてしまうものなのである
先天的にはヒトはバカだが 主体的に物事を考え 何が本当に「自分が望むもの」なのかを追求する「意志」によって 人間性は発揮されるのである
人間性や倫理というものは 個人の主観的な好き嫌いや趣味趣向とは無関係なものであり ロリコンだろうが殺人ゲーム好きだろうが自律的な社会的責任さえ果たしていれば 個人的な趣味趣向は人間性とは無関係なのである
主観的好き嫌いの強度程度に因ることなく 社会的存在として責任ある行動選択をしてこその人間性であって 生物学者共による「進化的説明」からはヒトの先天的行動バイアス以上の何も論証することはできないのである
Ende;