書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

こじつけ論法

2022年06月03日 17時24分46秒 | 意識論関連

「私は自然人類学者だ」だの「私は解剖学者だから」などといった専門分野を理由に 専門分野に都合の良いこじつけを展開して科学的根拠のように言い張るのは 社会的に無責任である

畑村洋太郎は危険工学の専門だが 社会心理学など他の分野の知見も盛り込んで検証しているのであり 決して専門分野以外の知見を無視して良い理由などないのである

 

遺伝的進化が専門だからといって 何でもかんでも遺伝的進化による先天的本能習性だけで事象の解釈にこじつけて良いわけではない

遺伝的進化に基づいた知見というものは あくまで「ヒトという種の生物の習性や傾向」しか論証することは出来ない

ヒトでありさえすれば人間であることの論拠にはならないのであり ヒトの先天的本能習性をいくら抽出枚挙しても人間性や倫理の論証になど到達できないのである

 

人間性というものを論じるためには 哲学や教育心理学や犯罪学 社会心理学 危険工学 その他様々な観点からヒトの先天的欠陥というものを検証し 「どうやったらバカにならずに済むのか」を見極めることが重要なのである

「危険学」が社会安全性を追求するための学問であるのと同様に 意識論とは「バカ学」でもあり 「バカとは一体どういうものなのか」を理解し知ることによってバカにならない賢い選択も可能となるのである

「私は○○の専門だから」などと称して 自分の専門分野だけで物事を説明しようとするから根拠のない「こじつけ」になってしまうのであり

遺伝的進化からは「ヒトという種の生物の先天的習性や傾向性」以外何も論ずることなど原理的にできないのである

遺伝的進化というものはあくまで自然現象であり 「結果」以上は何も論ずることなどできないにも関わらず 「ヒトの先天的危険性は問題ではない」などと決め付けるのは自分の専門分野にとって都合の良い身勝手なこじつけにしかなっていないのであり 論理客観性を欠いた非科学的デマに他ならない

 

 

 

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バカの屁理屈

2022年06月03日 15時59分19秒 | 意識論関連

自然選択説を提唱した本人であるチャールズ:ダーウィンが

その著作の中で「○○のために進化した」という表現を用いてたとしても その「説明」は自然選択説との論理整合性がないのである

 

ダーウィンは 別に全知全能の神ではない

所詮はヒトであり 間違いもする可能性は充分にある

ダーウィン本人が間違えた表現をしているのか それとも翻訳が間違っているのかは知らないが 遺伝的進化の説明において「○○のために進化した」という表現は自然選択説とは相容れない間違いである

 

「だってダーウィン本人がそういった表現をしているから」というのは 自分の頭で物事を考えて真偽の判定をしていない「バカの屁理屈」である

 

 


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こじつけ論法

2022年06月03日 15時56分08秒 | 意識論関連

私は自然人類学者だ。ヒトという生物の本性について研究している学者である。この際、私が何か言えるとすれば、ヒトにおける攻撃性の進化と、集団間の戦争が起こる条件についてだろう。


 長谷川眞理子

攻撃性がどう進化したかは 単なる自然現象の結果でしかなく 暴力を用いて物事を解決しようとするヒトの先天的本能習性の程度強度をいくら論じても 本能を自律的に抑制する意志(目的意識)の存在を無視して良い理由には全くならない

「戦争が起こる条件」についても 「条件さえ揃えば戦争は避けることができない」などという環境依存的発想そのものに「自律」判断が欠落しており 「私は自然人類学者だから」と称して ただの先天的情動バイアスの強度程度だけで人間性を語ろうとするのは自分の専門分野を正当化するための都合の良いこじつけでしかない

それはまるで養老孟司が「私は解剖学者だから 形(外見)しか扱えない」と言い張るのと同じはぐらかしの手口と同じである

地政学的リスクで戦争を予測できた試しなどなく そもそも長谷川眞理子は「ヒトが殺人をする動機は 本当にくだらないこと」だと言っているのである

殺人暴力が戦争という大規模化した途端に まるで別のことのように言い出すのは 長谷川の個人的印象や感覚に基づいた決めつけに過ぎず 論理客観性を欠いている




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老害の正義

2022年06月03日 13時31分24秒 | 意識論関連

中東由来の一神教では 実証不能の神の存在によって人々は導かれると説いた

イマヌエル:カントは「純粋理性批判」において 結果的な自然界における恒常安定性が常に都合良く働くものであるという超常的力学を「叡智界」などと称してでっちあげた

フリードリヒ:ニーチェは旧約聖書以前の原始宗教に過ぎぬゾロアスター教の「超人」を遺伝的進化のメカニズムを用いた「ヒトの品種改良」によって実現可能であるかのように人類を誘導した

リチャード:ドーキンスは 遺伝子というものがもたらす進化という結果だけを抽出してきて これもあたかも超常的力学によって「ヒトには先天的人間性が組み込まれている可能性」などというオカルトファンタジーをでっち上げて衆愚人気を得た

そのドーキンスの人気に便乗する形で山極寿一や松沢哲郎は衆愚人気を集めたのである

 

能町みね子は 意識を超越した無意識な意識によって正しい結果が得られる可能性を主張した

音楽バンド崩れのYOUは「遺伝的進化で月経の痛みがなくならないのかしら」などと言い出した

これらは全て 個人の意識による合理的根拠に基づいた行動選択とは全く別の 謎の超常的力学の存在に基づいた論説である

 

神が実証できないからといって 神以外の進化生物学的結果のようなものを万能の願望器のようにすり替えておけば 衆愚人気だけは集めることが可能である

気分的に安心満足な話の方が 衆愚にとっては「信じたい話」だからである

バカが考える形式にさしたる違いはない

なぜならバカだからである

暴走族の考える形式はほぼ一緒であり

暴力団も独裁政権も同じである

バカは自律的には何が間違いなのかは認識できない

原因は自分の頭の悪さを主観的に「認識したくない」からである

それは まるで振り込め詐欺師の電話を信じ込み「いや 自分は絶対に騙されてなどいない」と頑なに言い張る老人のようである

 

 

 

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原理的不可能性

2022年06月03日 12時54分15秒 | 意識論関連

現代における神頼み 望むことで得る平安

 

⇨ヒトには主観と客観がある

夜中に泥酔して暴力や痴漢行為をしているバカは「殴っておきたい」と思う主観もあるが 同時に「何がどうしてそんなバカになったのだろう?」という客観的好奇心もある

私は実証不能の神を信じてはいないものの セーレン:キェルケゴールの真理に対する真摯な探究心には感服せざるを得ない

 

「死に至る病」冒頭に以下の一文がある

「主よ! 無益なる事物に対しては我らの眼を霞ましめ、 汝の凡ゆる真理に関しては我等の眼を隈なく澄ませ給え。

当初 この本を読む際には気にもしなかった一文だが その内容を読み進むにつれ その「信念」に尊さすら「感じ」るようになった

無論 私の個人的主観に過ぎない

単なるキェルケゴールの主観的「望み」であって

客観的には「どうでも良い話」である

 


「迷惑者はザラにいる」と称して自分の迷惑行為が正当化出来ていると勝手に勘違いしている迷惑系ユーチューバーがいたが 「俺の迷惑行為なんぞ 大したことではない」という比較を用いた正当化の手口は 養老孟司による「私は教科書に墨を塗らされた どうせ間違っていない本なんかないんだから 間違っていたら墨を塗れば良いんだな そう思っています」と称して支離滅裂な話を展開するのと同じ手口である

どうせ世の中バカばっかりで 間違いだらけなんだから 「まちがったっていいじゃないかにんげんだもの」的な開き直りともとれる言い逃れに衆愚は満足し その主観的満足を客観的真理か何かと履き違えて思考停止に陥る衆愚は非常に多いものである

「非常に多い」ということは 「ヒトという種の生物に普遍的に見られる」ということでもあり 「子供のイジメなんか皆やるものなんだから そんなの無視しておいても構わない」という傍観放置の屁理屈に用いられることも多い

ヒトは「多い」ことには安心し 多数でありさえすれば「正常」だと見なして何の対策もしなくなるものである

フリードリヒ:ニーチェの「迷言」の数々は 根拠や基準が曖昧で 読み手が都合良く主観的に気分が良くなるようこじつけ解釈することが可能であるために多数から人気を得られる

主観的満足感というものと 客観的真理(哲学)を区別せず あたかも「哲学というものを主観的に安心満足するための芸術文学」か何かと勘違いしているバカは「多い」ものである

そしてその「多数」によって 衆愚は自らの頭の悪さを安心して自覚しなくなるのである

ほんの数年前には大学でニーチェを教え込んでいたそうで 下手すると今でも教えているのかも知れないが 少なくとも現代人の大半はニーチェを論理客観的根拠に基づいた真理(哲学)だと錯覚しているバカが大半であろう

「哲学には好き嫌いがあります」と言い出す「哲学者」がいるが そんなもん何だって個人的好き嫌いなんかあって当たり前であり 主観的に嫌いであることが「間違い」で 個人的に好きだから「正しい」ことの論証になどならないのは当たり前の話である

 

痴漢に遭うのは基本的に若い女性である

ヒトの男は基本的に見た目が幼い女性に性的衝動を促されやすい先天的傾向が存在するからである

進化的にはヒトは幼形成熟性が高く 体毛やシワが少ない傾向があるが これはヒトの祖先による配偶者選択によるものである

女性であっても配偶者選択には「肌がキレイかどうか」が基準になるという

人気アニメキャラクターの多くは顔が幼いものが多いし 女性アイドルも世間一般から比べると幼い顔立ちの方が多い傾向がある こうした先天的な傾向性というものは祖先の繁殖の過程における収斂進化の結果であって 決して主体的に選択できるようなものではなく それだけでは「自由意志」であることの論証にはならない

「欲望そのものを欲することはできない」のである

これは定理でもある

欲望というものは遺伝的進化によって結果的に組み込まれた大脳辺縁系による情動行動バイアス(偏り)であり 状況や環境に左右されるシーケンシャル(機械的)な条件反射に過ぎない

欲望や衝動によって短絡的行動が促されるというのは 進化的には正当化可能なものであり 進化的に幼女強姦の衝動が存在しているからといって正当化できるようなものではない

先天的な本能習性というものは あくまで遺伝的進化という自然現象の結果であって その全てに合理性や正当性が存在しているわけではなく むしろ「繁殖の継続」においての収斂進化や 「拡がりやすい遺伝子」が拡がったというだけの結果以上の意味など存在しないのである

したがって 遺伝的進化による「説明」からは 人間としての社会性 自律的な社会的責任判断選択について論証することは原理的に不可能なのである

航空機が墜落するのは航空機というものの構造原理によるものであって 「墜落する」ことを前提として安全性を追及することが重要なのである

船舶も沈没するが 原理的に沈没する可能性があるからこそ 沈没しないようにするにはどうすれば良いのかを考え選択することが必要なのである

ヒトは原理的に間違えるものである

誰も全知全能の神じゃねぇからな

だからこそ 「間違える可能性」に基づいて 「どうやったら間違えずに真理を見極められるのか」を常に考え続けなければならないのであって

遺伝的進化に基づいたあらゆる説明というものは あくまで「ヒトという種の生物」の結果以上の何も論証することはできず 人間性や倫理 合理性といったものを見出すことは構造原理的に不可能なのである

動物としての「ヒト」は 懲罰や暴力によって物事が「解決」するという感覚(錯覚)が先天的にあり 国家権威による司法裁判の判決が出れば ほとんど誰も批判せずに唯々諾々と鵜呑みにして泣き寝入りするだけである

「痴漢や性犯罪は強盗殺人よりも罪が軽いから 懲役何年」という判決は 被害者からすれば合理性が何もないのである

社会的にも合理性などなく 「どうして痴漢などの性犯罪をするようなバカになったのか」についての科学的知見というものが司法裁判からは全く得られないのである

マスコミも短絡的に「動機の解明が待たれる」などと言い出すが これは司法警察の捜査における手続きを そのまま鵜呑みにして垂れ流しているだけであって 犯罪者の動機を解明しても加害者の身勝手な主観が出てくるだけである

プーチンに対する心理分析で「冷徹な理性」などという形容詞が出てきているが 「冷徹」であることというのは強い実証不能の観念に囚われているからであって 情動バイアス(偏り)が認知に悪影響を及ぼし合理性を欠いた執念(中毒)によるものであり 「利己的行動選択を理性だ」と見なしている大衆観念的誤謬に基づいた分析に過ぎない 

本当の「理性」 究極の「理性」とは 自らの生存すらも顧みずに社会安全性や公平性を優先する人道的なものなのであり 利己的利益をいくら追求しても「本当の精神の平穏」には全くならないのである

物質的な富や 権力をいくら手に入れても それは結局他人との比較における優越感にしかならず 平和で平等な社会への希望には全くならない

しかし ヒトというのは先天的にはバカなので どうしても目先の欲望ばかりを満たそうとしてしまい 「本当の目的」を忘れて非合理な行動や言動ばかりに囚われてしまうものなのである

先天的にはヒトはバカだが 主体的に物事を考え 何が本当に「自分が望むもの」なのかを追求する「意志」によって 人間性は発揮されるのである

人間性や倫理というものは 個人の主観的な好き嫌いや趣味趣向とは無関係なものであり ロリコンだろうが殺人ゲーム好きだろうが自律的な社会的責任さえ果たしていれば 個人的な趣味趣向は人間性とは無関係なのである

主観的好き嫌いの強度程度に因ることなく 社会的存在として責任ある行動選択をしてこその人間性であって 生物学者共による「進化的説明」からはヒトの先天的行動バイアス以上の何も論証することはできないのである

 

 

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環境依存性

2022年06月03日 10時14分31秒 | 意識論関連

生物は誰であれ、自分自身を取り巻く環境の中で、利害が対立する同種の他者と戦わねばならない状況がつねにある。そういう時に、攻撃行動をどこまでエスカレートさせるのかは、相手がどう出るのかという、相手の戦略に依存するのだ。これは、ゲーム理論的状況である。(長谷川眞理子)

 ↗出典:ウクライナ侵攻 戦争はヒトの本能か?

 

⇨「相手の戦略に依存する」ということは 要するに環境依存的な行動に過ぎず 合理性が伴うかどうかは無視しているのである

 

生存のためには、誰でも攻撃性を備えているのだが、それがどのように表出されるのかは、社会関係の状況によるのである。

さらに、戦争という問題になると、個人対個人の攻撃の話ではなく、集団対集団の攻撃の話である。集団が、自分たちの集団としてのアイデンティティーを持ち、その内部で結束して、他の集団と対決するのである。これができるにはかなりの認知能力が必要だし、そんな攻撃が有利になるような事態も、動物界でそれほどあることではない。

 

⇨「誰でも攻撃性を備えているのだが、それがどのように表出されるのかは、社会関係の状況によるのである。

これもまた環境依存的結果であり 合理性を伴った自律的な目的行動選択性を無視した「動物の理屈」「野獣の屁理屈」に過ぎない

「チンパンジーは環境が安定していれば殺し合いをしない」だとか「ヒトのほとんどは戦争をしていないことを知れば戦争はなくなる」などという生物学権威共の主張には論理客観的根拠に基づいた「人間性の論証」が伴わないのである

 

戦争という問題になると、個人対個人の攻撃の話ではなく、集団対集団の攻撃の話である。集団が、自分たちの集団としてのアイデンティティーを持ち、その内部で結束して、他の集団と対決するのである。これができるにはかなりの認知能力が必要だ

統率的協調性を発揮するためには それなりの知能は確かに必要だが 動物的行動習性だけで「人間としての知能」を論証することそのものが根本的に間違っている

戦争とて所詮は「ヒト」が引き起こしているものであって 「集団対集団」だからといって急にヒト個人の判断が環境依存的にしか決定しないものであるかのように言い張るのは 随分おかしな話である

 

 

ヒトにおける戦争が、「ヒトに生物学的に備わっている本能的性質によるものなのか」という問いは無意味だ。集団間にどのような利害対立があるのか、それを解決するためにどれほどの攻撃を用意するのか、自集団はどれだけ結束できるのか、といった問題の集合の結果として、戦争という行為が選択されるのかどうかが決まる。

⇨独裁者の非合理な行動選択というものは ヒトという種の生物の先天的情動である恐怖心や猜疑心に依るものである

「生物学的に備わっている本能的性質」が短絡的に行動に反映してしまうから合理性のない理不尽な暴力が引き起こされるのであって 子供のイジメ殺人にせよ 国家単位での戦争にせよ 暴力の原因は生物学的本能習性に起因することに違いはない

野犬や暴力団同士の抗争に「かなりの認知能力が必要だ」などというバカみたいな話を鵜呑みにしている奴の方が頭がおかしい

 

「ヒトに生物学的に備わっている本能的性質によるものなのか」という問いは無意味だ。」などと決めつけているが これは論理客観的根拠が示されておらず 長谷川の勝手な主観的印象に基づくものに過ぎない

地政学的リスクの類いは 戦争の有無とは無関係であり 戦争というのは為政者の人格に依存するものであって これは子供のイジメもイジメ加害者側の「ボス」の判断に依存するのであって 環境条件にいちいち左右される環境依存性そのものが人間としての理性や知性としての自律的判断の欠如を意味するものである

 

非暴力を唱えたガンジーを称賛しておきながら 「殴られたら 殴り返す」という報復や懲罰を正当化するというマルチスタンダードそのものが二枚舌(嘘)を含んでいるのである

殴り合いの勝ち負けで人間としての存在価値が決定するわけではなく 相手が殴りかかってきたら防衛のために殴り返すことは仕方ないとしても そもそも「先に殴って解決しよう」とする動物的行動習性そのものに合理性が伴わないのであり 「本能的性質が原因ではない」などと言い張るのは あまりにバカ過ぎて話にならない

殴り合い暴力によって勝つのは 人数や武装の質や量に依存するものであって 勝っても負けても殴り合いそのものには合理性も 人間存在としての優位性の論拠にもならない

生存や「繁殖の継続」という結果だけを価値と見なす遺伝的進化のアルゴリズムは あくまで「自然現象」であって 「殴り合いで勝ったから 正しい」という短絡的な結論にはならない

 

遺伝的進化というのは 死なずに生き残れば「生物」なのであって 死なずに生き残りさえすれば正義とみなすのが遺伝的進化万能論である

先天的に暴力性が高いか低いかという程度問題ではなく 暴力によって解決しようとする非合理性にこそ非人間性の根源が存在するのであって 「殺さない程度に殴っているから人間性だ」とか「殴らないで怒鳴り散らしているから人間性だ」などというバカみたいな話は要らないのである

それは「複雑な法手続きを踏んで死刑にしたら人間性」の論証にもならない

気分的安心や満足という主観的印象が基準になっているから論理客観性が失われるのであり 長谷川眞理子ら生物学権威(肩書)による主観的印象論の羅列を鵜呑みにしているバカが多過ぎてどうにもならない

科学というもの 真理というものは 論理客観的根拠や証拠に基づいて見極めなければならないのであって 権威の主張を漫然と鵜呑みにしているだけでは「ただの無意識なバカ」にしかならない

 

 

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