絆や共感性というものは 暴力団だの半グレだの暴走族や振り込め詐欺の内部でも働くものであり
日本大学田中英寿体制やプーチン政権においても その内部では絆だの共感といったものが働いているのである
イジメやヘイトスピーチに便乗する大多数のバカにおいても 共感性によって誹謗中傷が暴走を加速させているのである
共感される「数」だけなら SNS上の「いいね」の数欲しさに無意味な虚飾に中毒になることもある
同調圧力というものも 結局は共感性に因るものであり 共感さえしておけば人間性が発揮されるなどという短絡安易なものではない
多数で共感したり 「絆」を感じれば 主観的には安心満足感が得られる習性がヒトという種の生物には先天的にあるものの
それはあくまで主観的感覚に因るものであって 何に共感するかの選択に自律的な社会的責任判断選択が伴わなければ人間としての行動にはならない
衆愚迎合的に 大多数の衆愚が気分的安心満足できるような話でもしておけば それは「共感性」として働くであろうが 衆愚がいくら多数と共感共鳴して「絆」を主観的に「感じ」ても その内容が論理客観的根拠に基づいた真理であることの論拠にはならない
梅沢富美男が相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件の植松聖に対して「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と主張したことに対して どんなに多数が同調共感しようが 死刑などの刑罰が無差別殺人の原因究明や再発防止にはならないのである
「科学は多数決ではない」のと同様に 真理もまた「数」では見極められるものではない
ナチス政権下のドイツにおいては ナチス政権こそが正義だと多数決(民主)的に選出されたのであって 主観的気分としての安心満足感は安全性の論拠にはならない
共感性だの「絆」などというのは あくまで主観的安心満足感による感覚的なものに過ぎず 普遍的な人間性の論拠にはならない
暴走族同士がどんなに共感共鳴しようとも それが人間性の論拠にはならないのであり 集団規模による多数の共感共鳴によってむしろ暴走行為を安心して出来るようにもなるのである
共感共鳴だの「絆」というのは あくまで主観的安心満足感に過ぎず 人間性の論証には全くならない
「自分のことを大切に思ってくれる誰か」の存在も不要である
自己が主体的に生きていないからこそ 他人からの承認のようなものを必要とするのであって 誰も自分のことを大切だとは思わないとしても 主体的に自律的な社会的責任判断選択ができれば他人は必要がないのである
日本大学田中英寿体制の中では 田中に異議を唱えて左遷されてしまえば 仲間内からは「アイツはバカだ」とバカにされていただろう
ロシアのプーチン政権下においては 国営放送で反戦を主張したアナウンサーを「アイツはバカだ」とくさした視聴者もいた
東京電力福島第一原子力発電所において 原発の津波に対する脆弱性を主張して上司から嫌われれば 「アイツはバカだ」と言われただろう 「津波の危険性を考慮に入れたら 日本のどこにも原発など作れない」と言われれば 大多数の社員はそれを鵜呑みにし 組織の利益を優先して個人が自律的な社会的責任など取ろうとはしなかった
東京電力福島第一原子力発電所の中では 無責任なバカだけが上司から「大切に思われて」いたのである
それでは 原発の津波に対する脆弱性を主張したら 社外の誰かから「大切に思って」もらえただろうか?
そんなことは絶対にない
世の中「絶対など存在しない」と言われているが ヒトが素手で宇宙空間に放り出されて生き延びることが出来ないのと同じくらい絶対である
東電社内において 誰も自律的な社会的責任判断をしないという「多数」を論拠に 社内の多数で共感共鳴する形で原発の津波に対する脆弱性は傍観放置されたのである
「共感性」や「絆」といった「数」に対する同調迎合性を人間性だとすり替え錯覚しておいて 無差別殺人などの犯罪を含むあらゆる無責任な「人災」の根源的原因を見極めることはできない
自分の主観的感覚を絶対的な人間性か何かだと倒錯しているからこそ 無責任な犯罪者の倒錯の温床ともなってしまうのである
「自分だけは絶対に間違えない」という倒錯をしておいて 犯罪者の倒錯を批難しても 「バカがバカをくさしている」だけにしかならない
主観的感覚そのものは 自分の遺伝子を選択不可能である時点であらゆる本能情動感情も選択不可能であり 自分が育った環境としての社会や時代から受けたあらゆる「正解データ(常識)」もまた選択不可能である
しかし ヒトは自分の頭で物事を論理客観的に検証し 考え 主観的情動に惑わされずに真理を見極めることは不可能ではない
それは必ずしも簡単ではないかも知れないが 「難しいからやらなくても良い」というものでもないのである
学生にばかり学力偏差値競争を押し付け 若い人達の労働力を買い叩き 潰し合い競争を強要しておいて 自分達だけは「難しいからやりたくない」と言い出すのは もはや犯罪レベルの身勝手なワガママである
Ende;
いや それは個人的に好きなことだから認知機能が向上するんであって 「バイクだから良い」というわけではないぞ
虫採りが好きな人なら虫採りで認知機能が向上するし
お菓子作りが好きな人ならお菓子作りで認知機能が向上する
人それぞれ集中して熱中して夢中になれることは違う
逆に言うと 他人からの見た目ばかりに執着して 本当に自分が好きなことがわからない奴は外見的な格好良さに倒錯して暴走族になることもあるので
「バイクに乗れば認知機能が必ず向上する」というものではない
バカがいくらバイクに乗ってもバカは治らない
川島隆太って「強いて勉めるのが勉強だ」などと言ってたバカで
最新の脳科学や教育心理学では 主体性こそが脳の発達に最も良いことが証明されており 「強いて勉める」とバカになることもわかっている
社会学者の宮台真司もそうなんだが 自分が強いられたことを事後正当化しておかないと気分的に嫌なもんだから 自分が強いられたことを他人にまで強いろうとする習性がヒトにはある
虐待の連鎖なんてのは最たるもので 他人から無理強いされるとヒトはバカになって 同じことを連鎖するようになる
合理性も何もない理不尽な校則を強いてくる教師というのは 自分が理不尽で非合理な規則を強いられ それを鵜呑みにした頭の悪さ 主体性の無さを事後正当化する形で生徒に強要するようになる
バカとは何かというと 自分の頭で物事を考えない状態を指すのであって どんなに知識の「量」をひけらかして自慢しても 統合的に論理整合性のある結論判断ができなければバカなのである
養老孟司だの長谷川眞理子だの川島隆太だのというのは 言っている内容に論理整合性がなく 衆愚の人気を集めているだけのオカルトに過ぎない
衆愚の多数人気をいくら集めても 科学的に正しいことを言っている保証にはならないのである
将棋の棋士が直感で指し手を見極められるように バイクレーサーもまた直感的にバイクを操作できるようになるのであり 何よりも好きで主体性があるからこそ直感的判断まで出来るようになるのであって 好きじゃないことをいくら「頑張って」も認知機能は向上しない
学力成績評価という他人から与えらえる形の抽象化された脳への報酬に無意識につられて学力偏差値競争をいくら「頑張って」も 地下鉄に毒ガスまきちらすようなバカにしかならない
他人がでっち上げた評価基準を鵜呑みにし そこに論理客観的根拠があるのかどうかも考えずに 目先の勝ち負け競争にだけ意識を奪われているからバカになる
何度も言ってるが 学力偏差値というのは認知科学的には知能の論証にはならないのであって いくら学力学歴を自慢しても そんなもん自慢している時点でバカが確定しているのである
Ende
オウム真理教内部の「絆」や「共感性」というものが 「一線を超えない」理由になどなりません
プーチン政権内部でも ナチス政権内部でも 日本大学田中英寿体制においても 自律的な社会的責任を負わないバカの群れの内部で「絆」だの「共感性」だのが働いても 「一線を超えない歯止め」には全くならず むしろ暴走破綻への無意識な「流れ」を作ってしまう原因でもあるのです
あっちの「絆」であろうと こっちの「絆」であろうと 「絆」という主観的安心感や満足感や仲間意識そのものは人間性の論証にはなりません
「誰かに求められているかどうか」に関わらず 「社会的に認知評価されているかどうか」に関わらず 論理客観的根拠や証拠に基づいた「本当のこと」を見極めてこその人間性や倫理として機能するのであって
個人的に悪趣味であろうが 多数人気が得られなかろうが それは人間性とは無関係なのです
人畜無害な悪趣味は 社会的には人畜無害なのであって 主観的嫌悪感という個人的好き嫌いそのものは 所詮や主観に過ぎず 論理客観的な人間性や倫理の論証には全くならないのです
自分の主観的好き嫌いが絶対的基準になっているのであれば それは自分に対する過信でしかありません
自分の個人的好き嫌いが完全無欠の絶対的評価基準だと「思って」いるとすれば それこそが「倒錯」というものです
真理は主観の中にはありません あくまで論理客観的根拠に基づいて識別されなければならないのです
Ende;
ヤグルマギクというとこの色のイメージだったんだが
近所の公園ではカラバリが豊富だった
うわっ クマバチ乱入
ちょっと怖い
ホタルブクロかな?
ちっちゃい花がいっぱい
植えたものではないようだが こんな花自生するかな
ユリ科の何かではなかろうか
カサブランカ的なもの
シジミチョウの一種
露出足りてないな
カキツバタ
ツボミではなくて実じゃないかな
Ende;