書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

注意喚起

2020年06月15日 16時31分20秒 | 日記

アマゾンだと称する「アカウントの修正完了しました。」というメールが来たのだが

アカウントを変更した覚えがないので不審に思って自力でアマゾンにログインしてパスワードを変更したんだけど

来たメールが違う

おいらが自力で変更した場合に来たメールではリンクなんかなかったのだ

発信元は「amazonses.com」で

メールの題名の頭文字も大文字だった

 

で 身に覚えのないメールの方は発信元が出ないし

リンクもついている

単に第三者が勝手にパスワード変更の手続きをしようとすると来るメールだからなのか

それともフィッシングなのか

ようわからん

ようわからんのでこういうメールが来てもリンクは押さない方が良いと思う

 

以前にも楽天と称する発信元の怪しいメールが来たことがあった

何にせよ メール内のリンクは押さない方が良い

 

 ◇追記:「修正が完了した」というメールでありながら

「パスワードの再設定へ進む」ボタンをクリックするって 論理整合性がない

これ 嘘だわ

メールのヘッダーを開いてみた

怪しいメールのアドレスは

<account.update@amazon.co.jp>

で 自力でログインして帰ってきたメールのアドレスは

<account-update@amazon.co.jp>

だった

一文字違うのわかるかな

 

一回メールヘッダー全部載せてみたんだが

よく考えたら自分のメアドまでさらしてたわ

コピペされてなきゃ良いけど

まあ 詐欺師には既にばれているから怪しいメールもくるんだけどな


でもメアドの後半「@amazon.co.jp」の部分はアマゾン社内じゃないと取れないメアドなんじゃないのかしら

どゆこと?

何か普通の1バイト文字とは違う文字が使われているとか?

本当に社内に詐欺師が紛れ込んでいるとか?

アマゾンがハッキングされているとか?

あ そうだ 怪しいメールのリンク先のURLをコピペしてみようかしら

https://amazon.co.jp-adminlogin.dskfjk9yuh980s.info/

ううむ アマゾンだな

アマゾンだぞ

何なんだこれ


ああそうか アマゾンのドメインは

「https://www.amazon.co.jp/」

であって「co.jp」の後が「/」で一回終わってないとおかしいんだ

なるへそねー

なるなるへそへそねー

 

Ende;

 

 

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論外

2020年06月15日 16時14分32秒 | 意識論関連

嘘は目先の生存価において有利に働きます

生存を目的だと勘違いしていれば 嘘は正当化されてしまうのです

生存というものが自然界における生物の「結果」以上の意味がないことは既に何度も述べました

 

ヒト個人が生きる理由というのは 先天的に予め神などの誰かに用意されているわけではありません

倫理や人間性も然りです

神がいなければ倫理がなくなるわけではなく 神がいてもいなくても社会安全性を求めるのはヒトであって 倫理や人間性というものはヒトが求めるものであり 神の有無とは関係がありません

 

ヒト個人が生きる理由とは 生きるに値する社会であればこその自己存続であって 生きるに値しないような社会であるならば死ぬことも自由なのです

そもそもヒトは誰一人として自らの意思で生まれてきたわけではありませんし

「ヒトが他人を殺してはいけない理由」はありませんが 同時に「ヒトが他人を殺すような社会で生き続ける理由」もまたないのです

自己が他者に危害を加えるような社会であれば それは同時に他者から自己に対して危害を加えられても文句の言いようがありません

社会とは それぞれの「自己」の集合であって 自分だけが自分なわけではなく それぞれの自己を尊重し合わなければ 自分だけを尊重してもらう権利もないのです

個人的な好き嫌いを尊重するとは言うものの だからといって個人的に嫌いな相手を差別排除したり暴力を振るって良い理由には全くなりません

ヒトそれぞれ好きな相手は違いますが 個人的に誰が好きなのかは自由であり 他人がどう思うかも関係がありません

にも関わらず 「嫌いな相手」となった途端にイジメや差別排除を統率協調的に行う習性がヒトにはあります

社会的に害をなす相手を抑圧する場合もあるでしょうが 実際のイジメや差別排除というのは実害が立証不可能な個人的嫌悪で行われるものばかりです

たとえ社会的に有害な相手を抑圧するとしても 刑罰などの威力で抑圧したからといって解決するわけでもありません

 

社会安全性を求めることも 主観ではあります

隣人が誰かに殺され続けるような危険な社会の中で生き続ける必要性がありません

別に強制的に何が何でも「生き続けなければならない理由」がどこかに存在するわけではないのです

人間性として生きるに値する社会は 差別がなく平和で持続可能性がある社会です

差別と不公平と暴力と略奪が横行するような 無責任な奴しかいない社会を望んでいれば人間性に重大な問題があります

ところが ヒトはすぐに諦め どのような社会が理想なのかも認識しようとせずに現状の社会を受け入れ 何も改善しようとはしなくなります

「諦め」てしまうとは要するに絶望することであり 絶望して根拠もなく「ヒトとはそういうものである」などと勝手に決めつけてしまえば「悟り」か何かと錯覚し 簡単に理想の追求を放棄してしまう習性が ヒトにはあるのです

根拠のない勝手な決めつけを多数で共有してしまえば もはや何も考えなくても良くなるので 気分的に楽になれます

その気分的な楽というのは怠慢です

「イジメはなくならない」という決めつけを多数で鵜呑みにして何も対策をしなくなれば予言が達成されてしまうのと同様 あらゆる根拠のない勝手な決めつけによってヒトは理想を見失い 「どうせ何をしてもダメだ」という虚無主義を気取っていれば気分的には楽なのです

虚無主義とは 理想を放棄することを正当化する精神の怠慢に過ぎません

理想を実現することは簡単ではありませんから 簡単な方に流され 逃避しているのが虚無主義であって 虚無主義者は偉そうに何かを悟ったかのようにふんぞり返ってますけど 実際には何も「悟って」などおらず 単に人間性としての理想を「諦め」ただけの「愚か者の遠吠え」や「精神薄弱児の戯言」でしかないのです

 

「世界中の人が幸福にならなければ 自己の幸福もあり得ない」と宮沢賢治は言いました

それは途方もない理想ではありますが 理想があるからこその人間性であって 人間性とは「自己の生存価」が基準ではなく 「自己が存続するに値する社会の理想を追求する」ことにおいて自己の存在理由として成立するのです

理想を放棄するのであれば 別に生き続ける理由も必要性もないのです

他人からの評価承認を求めることというのは 利己的利益を期待しての欲望であり 要するに目先の欲望の大きさだけが基準となった行動でしかありません

大量虐殺を行った犯罪者が「歴史に名を残す」だとか言っていることがありますが これも結局は他人からの歪んだ評価承認でしかありません

他人からの評価承認を求める限り 自律的な責任判断選択は出来ず 多数や権威が間違っていても同調したり迎合する以外の選択肢はありません

スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験 通称「アイヒマン実験」を読んだ感想で「それでも権威に服従しない社会は崩壊する」などと言い出したバカもいましたが これも根拠のない勝手な決めつけであり 主観的に「権威に無為に服従しておいた方が気分的に安心」であることを あたかも論理客観的根拠だと錯覚しているに過ぎない屁理屈なのです

 

ヒトという種の生物は 理想の追求を放棄して目先の主観的な「楽」に囚われ 論理客観的な根拠も伴わぬ嘘を鵜呑みにして何も考えなくなる習性があるのです

何も考えない奴のことをバカといいます

ヒトはバカでいた方が楽なので 精神の怠慢を正当化する屁理屈ばかりを信じ込もうとし 多数や権威に迎合同調して自律的な社会的責任判断を一切しなくなるのです

「信じたい」かどうかは論理客観的検証ではなく それは単なる主観的観念でしかありません

他人にばかり人間性や倫理を求めながら 自分は主観的に「信じたい」ことだけを鵜呑みにするというのは 義務を放棄して権利ばかりを主張する傲慢な態度です

社会安全性というものは 社会を形成するあらゆる個人に自律的判断責任があるものであって 「誰かに丸投げして文句だけ言ってりゃどうにかなる」ようなものではなく

自分の安全性を担保してもらいたいのであれば 他人の安全性についても配慮するのは当然のことであり 根拠のない嘘を鵜呑みにして主観的に「信じたい」話だけを盲目的に鵜呑みにしているのは社会的責任の放棄なのです

 

社会安全性を追求することも 結局は自己の幸福の追求から導き出される主観であることに違いはありませんが より自己客観性や人間としての社会性が伴う観点であり 単純に「主観である」というだけで「何でも同じだ」と言い張るのは誤った判断です

科学的理論であっても所詮はヒトの感覚器からの入力(主観)に基づいたものであることに違いはありませんが より客観的証拠に基づいた理論ほど真理に近いと判断するのが科学というものです

 

倫理や人間性を語る上においては 最終的には主観も含めた判断も必要ですが 単なる個人的な好き嫌いなのか それともより客観的根拠を伴った判断なのかを区別しなければ人間性も倫理もスッタクレもなくなってしまいます

「どうせ全部主観じゃねぇか」などという雑な理屈を鵜呑みにするのは社会的に無責任であり 人間性や倫理を欠いた判断でもあります

 

理性で全てを知ることは出来ません そもそも有限の脳しか持たぬヒトが世界の全てを知ることなど構造原理的に不可能であり それが主観的に不安だからといって理性以外の何か謎の「叡智」だの「純粋統覚」だの「悟性」だのを持ち出せばどうにかなるというようなものではないのです

エマヌエル:カントの純粋理性批判というのは カントの主観的妄想に基づいたファンタジーに過ぎず 到底論理的根拠を伴った哲学ではありません

「わからないことは わからない」と保留するのが論理客観的な考え方であって 理性でわからないなら理性以外の謎の能力で「全部わかった」と錯覚することはファンタジー以外の何ものでもないのです

「理性を超越した謎の能力を立証する理論」などというのは自己矛盾も甚だしく 全く理論として意味を為さないことくらい いちいち説明せんでもわかるやろと

私は「思う」んですけどね

わかんないんすかね

 

「考えること」は哲学ですが

考えたかのような錯覚に陥って満足し 錯覚を錯覚だと認識出来ずに間違った観念を鵜呑みにしていることは哲学ではありません

錯覚に基づいた話を鵜呑みにしている時点で 何も「考えて」いないのであって

何も「考えて」いないというのは「バカになっている」だけです

大衆の多くはニーチェ的なものを読んで満足し 哲学だと勝手に錯覚していますが ニーチェは論理的に物事を考えることを放棄するために都合の良い勝手な決めつけの羅列でしかありません

だから大衆人気がある

でもキェルケゴールやサルトルは大衆人気がない

それは身勝手な決めつけによる思考停止にとって都合の良い満足感が得られないからです

ヒトは根拠のない決めつけを鵜呑みにして何も考えないように陥っていた方が楽な習性があります

それはすなはち先天的にヒトはバカになるように出来ているのであって それを避けるために科学や哲学が必要となるのです

何も考えないバカだと暴走破綻に陥り易いので そうならないように「より正しい認識」を得るために科学や哲学というものが社会的に必要なのです

何が哲学なのかすら区別が出来ないのでは もはやお話にならないのです

 

Ende;

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怠惰

2020年06月13日 01時45分42秒 | 意識論関連

哲学は「考え」ることを意味します

「考え」てみることが哲学ですから 考えてみて答えが出なくても良いですし 役に立たなくても良いんですね

でも「役に立たなくても良い」からといって 客観的な論理的根拠がなくても「答え」だと勝手に勘違いしても良いわけではありません

 

科学の基礎研究も「役に立たなくても良い」んです

量子物理学とか天文学なんてのは直接何かの「役に立つ」わけではありませんから

でもね 科学において重要なのは論理客観的根拠なんですね

論理客観的根拠もない話は科学ではありません

論理客観的根拠のない話というのは真理ではありませんから 役に立たないことが明らかであり 社会にとって害しかもたらしません

量子物理学や天文学というのは 今のところ直接社会の役に立つわけではありませんが 将来的には役に立つ可能性はあるわけです

論理客観的根拠のある話というのは将来役に立つ可能性がありますが 論理客観的根拠がない話というのは将来役に立つ可能性が全くありません

 

哲学も科学と一緒で論理客観的根拠に基づいた論証がなくてはいけません

「役に立たなくても良い」というのは もう少し厳密に言えば「今すぐに何かの役にたたなくても良い」という意味であって 「今後一切糞の役にも立たないことが明確な話であっても哲学として扱って良い」わけではないのです

哲学というのは倫理や人間性 社会安全性や持続可能性に関わるものであり 論理的根拠もない話まで無責任に鵜呑みにしておいて良いものではありません

ところが大衆の多くやマスコミは「哲学は役に立たなくても良い」という話を短絡的に鵜呑みにし 哲学を逸脱したオカルト観念までも哲学として分類しているのです

客観的論理検証というのは主観的な好き嫌いで判断して良いものではありません

科学において「何を研究してみるか」の好き嫌いがあっても良いのですが それは「昆虫が好きだから昆虫を研究してみたい」とか「爬虫類が好きだから爬虫類を研究してみたい」といった領域の好き嫌いは自由なんですが 検証においては論理客観性が必要であって 主観的好き嫌いで勝手に結論をでっち上げても良いわけではありません

哲学においても好き嫌いはありますが 主観的に好きな話だからといってバカみたいに鵜呑みにして良いわけではありません

法哲学に興味があるのか 科学哲学に興味があるのか そういった領域の好き嫌いはあっても良いのですが どのような領域であろうとも論理客観性に基づいた根拠がなければ哲学ではありません

哲学というのは主観的に「かっこいい」だとか「センター性がある」だとか「素晴らしい」だのといった文学的感想を根拠に評価して良いわけではないのです

芸術やスポーツというのは主観的な好き嫌いの領域ですから 別にフェルメールが好きだろうとカラヴァッジョが好きでも奈良美智が好きでも何の問題もありません

しかし科学や哲学というのは論理客観的真理を追求することですから主観的な好き嫌いだけを根拠に内容を鵜呑みにして良いわけではありません

 

ヒトは今まで実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけてきました

なぜでしょうか?

それは実証不能の観念を実証不能の観念と認識できていないため 実証不能の観念を論理客観的な根拠を伴った真理と錯覚しているためです

錯覚というのは主観的感覚が作り出すものですから 客観的に論理検証することで錯覚を錯覚と認識し 間違った認識に陥らないようにすることも出来る

その客観的論理検証を目的としたものが科学や哲学の本来の役割なのです

「世界は存在しない」だの「人間は叡智界に属している」などといった論理的根拠の全くないオカルト話の方が大衆の多くから人気を得られるようですが ヒトという種の生物は先天的に自分の気分が良くなる話だけを信じたがる習性があるため こうした「嘘」の方にばかり安易にとびつき 客観性を失うという欠陥を先天的に持っているのです

ヒトは神の産物ではありません

ヒトは 別に「ヒトになろう」としてヒトになったわけでもありません

ヒトとは 「結果的に死なずに生きている」生物の一種でしかないのです

それに絶望を「感じ」ようとも 不条理性を「感じ」ようとも 「感じ」という主観こそが客観性を眩ませ 見えなくさせてしまうのです

目的意識を持って物事を判断すれば 目先の主観的感覚よりも普遍性を伴った客観的根拠に基づいた判断の方が重要であることは間違いありません

遺伝的進化によって自動的にヒトが超人のようなものにでもなれると信じ込み 目先の満足に溺れて自発的に社会安全性を追求しなくなることの方が楽かもしれません

それは怠惰でしかありません

 

Ende;

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できそうにないことは やってみないとわからない

2020年06月12日 12時44分10秒 | 意識論関連

直感というものには錯覚を伴う可能性があります

錯覚によって作られた認識に基づいて行動してしまえば間違った行動に陥る危険性がありますから 何が錯覚で 何が錯覚ではないのかを区別する必要があります

 

ヘイトスピーチをやっているヒトというのは 自分が主観的に嫌いな相手を攻撃することが社会正義だと錯覚しているので必死になってヘイトスピーチに邁進します

カルト宗教の信者達は教祖の言っていることには絶対に間違いがないと錯覚しているので 「地下鉄に毒ガスを撒き散らすことが人類の救済」だと言われれば その通りに行動します

ネコは鏡に映る自分の姿を自分だと認識することが出来ず 自分以外のネコが来たと錯覚して威嚇し続けます

実証不能の観念を 実証不能の観念だと認識出来ず それが錯覚であると認識できないと 障害者施設に包丁持って殴り込みに行ったり ユダヤ人殺害計画を立案したりするようになるのです

錯覚を錯覚だと認識区別するのは客観的な論理検証性です

いわゆる「理性」ですね

強い感情が伴う直感というのは錯覚が入り込みやすい傾向があり これを利用して他人を騙すのが振り込め詐欺です

 

マイケル:サンデルの嘘を多くのバカ学生が識別出来ないのは サンデルの講義を受けた学生達が主観的に「悩んだ」ことと 論理客観的に「考えた」ことの区別が出来ないために 「自分は深く物事を考えた だから 自分は頭が良くなった」と錯覚し 「頭が良くなるようにしてくれたサンデル先生は素晴らしい」と思うことによってサンデルを好きになり 疑うことをしなくなり サンデルの嘘には誰も気づかなくなるからです

よくよく考えればサンデルの提供する命題というのは答えが出せないように 場当たり的に条件が追加されてくる上 そもそもどう選択しても人間性や倫理の論証になる根拠が全くないんですね

にも関わらず「倫理の話をしよう」などと題している

つまりこれ 全部嘘なんですよ

人命に関わる話でありさえすれば何でもかんでも倫理や人間性の話になるわけではありません

福島原発事故では「放射能で直接死んだ者は1人もいない」からといって 原発事故が倫理的に許されるわけじゃないでしょ

人命が関わった話だと どうしても強い感情が伴いますから 何とかして命題の答えを出したいと「思う」ようになるんですけど ちょっと「考え」ればサンデルが提供する命題には倫理は関係がないことに気付くことも出来る

サンデルの手法というのは オウム真理教の教祖の説法の手法と良く似ていて 「みなさん考えてみてください」なんて言って 本当は答えの出しようもない命題を提供して信者達を悩ましい気分にさせることで客観的論理検証性を奪うことで洗脳が可能となるのです

 

主観的に「悩ましい」というのは気分に過ぎず 客観的な論理的「考え」とは全く別のものです

仏教で言えば「煩悩(煩わしい悩み)」でしかなく 煩悩にとらわれているからこそ真実を見失うことに陥るのです

人生相談の類いというのは主観的な「悩み」を解決するだけであって 論理客観的な「考え」でも何でもないので 本当は哲学とは関係がありません

ですから「哲学者に人生相談」などというのは寝言レベルの話でしかないのです

論理客観的に「考え」ても そもそも判断となる情報自体が足りないのであれば それは「考え」ようがないので「悩ましい」だけであって その気分的な「悩ましさ」を解消してもらおうというのが人生相談であり 主観にすぎない「悩み」が解消しても哲学としての論理的根拠を伴う「正しい」認識や選択の論証になるわけではありません

「Aを選ぶか Bを選ぶか」どちらを選んだら良いのかわからない命題でいくら「悩んで」も 実際にやってみなければわからないものであれば やってみるしかないわけです

だから小柴昌俊は「実際にある程度やってみないとわからない」と言うわけです

それで世間的に成功できないとしても どのみち自己責任であることに違いはないので 主観的に「納得できるかどうか」の方が本当は重要なのです

アップル創業者のスティーブ:ジョブズは「人生は短い 他人の顔色を窺っている暇などない」と言いました

どんなに金儲けに成功しても 世間的に評価されようとも 死ぬときゃ死ぬんですよ

永遠に生きられるわけでもなければ 永遠に生きたところで意味があるわけでもない

だから金も評価も本当は自己存在にとってはどうでも良いものなのです

納得のゆく生き方をしていなければ 納得のゆく死に方もできないのです

 

フリードリヒ:ニーチェは「できそうにないことは やらない方が良い」と言いましたが 「できそうにない」という主観的感覚を頼りにしていて人間として正しい選択ができる保証はありません

ナチスに反対してもどうにもなりそうにないからといって同調したり傍観することが人間性や倫理に適うわけではありません

「イジメをなくすことはできそうにない」と主観的に思ったからといって 多くのヒトがイジメに対する原因究明や再発防止への取り組みをしなくなれば それは「トイレットペーパーがなくなる」というデマと同様に予言は達成されてしまうことになるのです

「できそうにない」難題は やらない方が楽です

本当は人間として 倫理的にやらなきゃいけないことであっても 直感的(主観的)に「できそうにない」ことを根拠に無責任に放棄してしまった方が楽なのです

平たく言えば 「難しいことは嫌」なんですよ

楽な方に流されているのは精神の怠慢であって 人間性の欠如の一因でもあります

ニーチェというのは精神の怠惰を促すことで大衆の主観的満足を促し人気を得ているのであり「悪魔の囁き」に過ぎず 到底「哲学」とは真逆のものなのです

カール:ライムンド:ポパーは「プラトンの呪文」と題して非常に激しくプラトンの権威主義を糾弾していますが 未だにプラトンは学術論文での引用数が一番多いのだそうです

それだけヒトというのはバカげた話の方が主観的満足を得られやすいものなのです

 ◇

直感というものはごく一面的には適切な判断を促すこともあります

将棋棋士の羽生善治は盤面を見て直感的に指し手を決めることがあるそうです

四葉のクローバーを探すのが得意な人は 一面緑色のクローバーの群生の中から一瞬で四つ葉のクローバーを見つけることができます

野依良治であれば「大学入試で女子学生というだけで無条件に減点する」ことがあからさまに間違いであることを主観的に判断することも出来るでしょう

でも こうした「直感的に適切な判断を行う」ことというのは ある程度深く物事を考えている事柄の場合であって 普段何も考えていないバカの直感までもが常に正しい判断を促すわけではありません

相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺を行った植松聖の直感は「障害者は絶滅させることが社会的に有益だ」というものでした

バカだと直感は糞の役にも立たないばかりか 極めて迷惑な行動を引き起こすことの方が多いのです

一番バカげた結論は「暴力で解決」するというものです

国家権力を用いた刑罰も同様で 厳罰化さえしておけば全てが解決すると「思って」いるだけで 客観的に見れば原因も解明されないし 当然合理的な再発防止にもならないので 飲酒運転も「バレなきゃ大丈夫」と思っているバカによって繰り返し起こることになる

通り魔もテロリストも「社会が悪い」からと言って無差別に暴力を振るいますが 暴力で社会の問題が解決することは一切ありません むしろ暴力こそが社会にとって一番問題なのです

テロリスト達が言うように 確かに「今の社会に問題がある」とは言えますが だからと言って「暴力で解決」だと言うのは本当は合理的根拠が何もなく 単に暴力的に報復することで主観的に満足しているに過ぎないので 何ら社会の問題は一向に解決することはないのです

様々な社会の課題に対して 論理的に原因を究明し改善するという作業はとても根気の要るものであって 命がけで暴力破壊するように簡単に達成できるようなものでもありません

めんどくさいことを地道に続けるよりも 簡単安易に死刑などの暴力破壊でもしておいた方が手っ取り早く達成することができますから ヒトは簡単に「死刑で解決だ」という結論に至り易いのです

 

多くのヒトが「陥り易い」からといっても多数決に過ぎず 必ずしも論理的根拠を伴った最適解であることの証明にはなりません

論理的根拠を持った効果的な実効性のある対策ではなくても 多くのヒトが「死刑で解決だ」と「思って」いれば 民主主義制度下では放置されることになります

酷い場合には会社の収益を社長が勝手に着服しても脱税だけで済まされる場合もあります

私は刑法廃止論者ではありますが 刑法を解決だと規定している現状の司法制度下においては刑事罰で起訴するしかありません

本来であれば刑事告訴で解決にするのではなく 「なぜ無責任な行動を採るのか」についての徹底検証が必要ではありますが 現状制度下では今の所それが出来ないので 仕方なしに刑事告訴をすべきだと言っているのです

そもそも会社の利益というものは従業員の達が働いて稼いだものであって それを社長の不適切な行動によって追徴課税という形で没収して終わりというのは随分おかしな話であり むしろ社員に分配するとか利用者に還元するなどの措置を採ることも必要ではないでしょうか その意味においても司法手続きというのは欠陥だらけで全然公平性が担保されていないのです

 

刑法を廃止すると言っても 別に犯罪者を野放しにしておいて良いと言っているわけではありません

「刑法廃止」と言うと あたかも犯罪者を野放しにすることになるのではないかと勘違いする人が多いようですが それは論理的理解を欠いた主観的な感覚に過ぎません

むしろ犯罪の軽重に関わらず徹底した再発防止を優先するべきであって 「幼女に対する性的暴行は強盗殺人よりも罰を軽くしなければならない」などという「他の犯罪者との罰の公平性」などという意味のわからない司法の常識が横行している状態の方が異常なのです

女子中学生を拉致監禁しておいても懲役8年かそこらで出所してきてしまうのが現在の刑法制度というものであり 治っていようがいまいが判決で「8年」と決まってしまえば問答無用で8年で釈放されてきてしまいます

それが社会安全性にとって最適であるとは到底言えません

何年拘束するかが重要なのではなく 治っているかどうかが社会安全性にとって重要なのであって 刑法判決では再犯に対する責任の所在が全く曖昧にされており これは国民をごまかしているとしか言いようがないのです

しかし ヒトというのは犯罪者に対してはとにかく罰を優先すべきだという感覚が優先しがちで 論理客観的に社会安全性にとってそれが最適化どうかは誰も考えなくなる性質があるのです

それは錯覚にすぎません

どんなに残虐な犯罪であろうとも 単に死刑にして終わりにするのではなく 徹底して厳密に原因を究明して同じような事件が起きないような対策を立てる必要性があるのです

それをやらないというのも社会的に無責任であり 罪でもあると言えるのです

「俺はバカだからわかんねぇ」というのであれば 「わからないから判断しない」というのが正しい結論であって わかりもしないのに「死刑にしちまぇ!」というのは合理性が完全に崩壊した身勝手な結論にしかなっていません

それはもはや「ムシャクシャしたから無差別殺人を起こした」と言っている通り魔の主張とさしたる違いはないのです 

ハインリッヒの法則によれば 「一つの大きな事象の影には無数の小さな事象が隠れている」のであって 大衆の無責任で身勝手な判断を放置しているからこそテロや通り魔といった重大事象の温床となっていると言えるのです

 

Ende;

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不完全であることを受容する精神の余裕

2020年06月11日 16時26分26秒 | 意識論関連

「理性だけでは全てを知ることはできない」

そう「諦めた」ことによって論理検証を放棄したことを エマヌエル:カントは「悟り」だと勝手に勘違い錯覚して満足したのである

客観的な論理検証では世界の全てを知ることなど出来ない

客観的論証なんぞなくても 主観的に「悟った」ような気分になりさえすれば あたかも「世の中の全てを知ったかのような全知全能感覚に酔いしれることも可能である

理性や人智を超越した「叡智」などという根拠の全くない実証不能の観念を多くのヒトが求めるのは

ヒトの先天的欠陥でしかない

「全てがわかった」と言い張るのは宗教やイデオロギーやペテンの領域であって

哲学や科学の領域ではない

有限の脳しか持たないヒトが 世界の全てを理解することなど原理的に不可能であり 「全てがわからないと不安」なのは先天的本能習性が促す主観的気分の問題に過ぎない

それは先天的欠陥であり 先天的不条理でしかないのである

科学は 「わからないことは わからない」と保留する姿勢が必要である

わからないことを知りたいと思うからこそ客観的分析によって解明しようとするのが科学であって 根拠もなく勝手に「わかった」と錯覚するのは科学ではない

科学よりも宗教やイデオロギーの方が人気があるのは 「わからないことは わからない」と保留する姿勢では主観的満足感が得られないため 「全てがわかった」かのような錯覚を得られる話の方が気分的にスッキリし 破綻暴走にも邁進することができるからである

ヒトは自分では何も考えずに「これさえ信じておけば全てはうまくゆく」かのような話にばかり飛びつく習性があるのだ

 

ヒトの多くは自分の気分が良くなる話をする相手を主観的に好きになり その相手の言っていることを信じたいと思うようになる

逆に 頭の悪さを指摘されると落ち込んでみたり 或いは嫌いになって拒絶したり 主観的に絶望するだけで自らの頭の悪さの原因を理解したりせずに同じような過ちを何度も繰り返すばかりである

封建的統率によって順位序列を受け入れ 格差が生じても仕方がないと諦め 不平等を受容してしまうことによって平等は失われるのである

野生動物における本能由来の社会形成習性というものは 封建的な順位序列の決定によって統制が保たれるのであって 野生動物に平等という概念はない

それはヤクザやマフィア社会における威力による下剋上を伴う統制であって 到底人間性を伴った「社会性」とはかけ離れた動物的習性に過ぎない

軍隊というものは こうしたヒトの動物的な習性を経験的に応用した集団であって 戦争のような糞しょうもない事にでも便利に使うことが可能なのである

何せ一人一人の兵隊には自律的な判断選択が失われており 上官の命令以外何も自分では選択することがないので どんなに残虐な行為であろうとも 明らかに破綻するであろう行為であろうとも 誰も逆らうことなく服従するのである

軍隊ではマフィアのような下剋上はないが 上とみなした対象に対して忠誠忠実に服従することに対する観念的な「美しさ」を感じる習性があるために盲目的に服従することを「素直な人間性」などと勝手に錯覚することで盲目的に服従「したい」のである

宗教における服従性も同じ仕組みであり 盲目的に何かを信奉してさえおけば 多くのヒトは主観的な安心満足によって自律的に批判する精神を喪失するのである

これが科学や哲学において発揮され権威主義に陥ると どんなに論理的に間違ったことを権威が述べても 誰も何も言わず 誰にも批判精神の欠けたオカルト状態が放置され 組織腐敗が進行しても歯止めが効かなくなるのである

 

ヒトという種の生物は バカでいたほうが安心で満足できるという先天的欠陥を持っているのである

ヒトは神が作ったものではなく あくまで結果的にヒトになったに過ぎず 社会安全性や持続可能性を求める倫理や人間性というものは神が求めるものではなく ヒトが主体的に求めるべきものである

「神がいないなら 何をしても許される」だの「神の存在が否定されれば倫理は意味を為さなくなる」だのといった論説は 全て自律のないバカの戯言に過ぎない

ゾロアスター教における超人幻想で満足することでユダヤ人虐殺も安心して出来るようになるのは 「神は死んだ」と勝手に決めつけ 「神がいないなら何をしても許される」と勝手に妄想した結果である

ニーチェは単なるカルト宗教に過ぎない

単なる諦めや絶望を「悟り」であるかのように錯覚させ 客観的に物事を考えることを人々から放棄させることで人気を得ているだけのペテン師に過ぎない

こんなオカルト大衆迎合を哲学だと分類している「哲学者」というのは 哲学者としては無能なポンコツでしかない

現状の哲学界というのは無能なポンコツしかいないのが実情であり ゆえに「世界は存在しない」などという意味不明なことを主張するマルクス:ガブリエルを「新時代の哲学」などと形容し鵜呑みにしているのである

哲学というのは倫理や人間性に関わる重大な責任を負う分野であり 科学同様に論理的根拠や厳密さなくして論じてはならない

大衆人気やバカを満足させるだけのオカルトが混入して良い分野ではない

 

Ende;

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格言

2020年06月11日 13時59分51秒 | 意識論関連

「私は悟った」と主張している話の99%以上は

実際には何も「悟って」などおらず

ただの「諦め」で気分的に満足しているに過ぎない

 

Ende;

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弱いものイジメ

2020年06月11日 13時04分33秒 | 意識論関連

医療関係者個人とか 営業自粛している個人経営のライブハウスとか

金銭的に余裕がなさそうで攻撃しても裁判沙汰にされそうにない弱者に対する個人攻撃は凄いんだけど

学術権威や ある程度の規模以上の企業経営者に対してのバッシングは誰もしないのよね

ただの弱いものイジメでしかない

自分自身の人間性に対する客観性が全くないんだろな

言っている内容が「死ね」だの「消えろ」だのと個人的な主観を言っているだけで 合理的根拠が伴わない場合がほとんど

オイラも糞DQNは死ねと「思う」が それはオイラの個人的な主観であって 客観的には「なぜ糞DQNは糞DQNになるんだろうか」という原因究明を優先すべきである

糞DQNの調査研究はオイラはめんどくさいのでやらんけど そもそも犯罪者を調査研究する社会的制度自体がなきゃ誰も調査研究なんぞできないからな

方向性のないバッシングとかヘイトスピーチの類いというのは 自分の承認欲求が満たされないことへの不満を解消するために 目についた相手を多数で無差別に攻撃して満足しているだけなんだよな

承認欲求自体が身勝手な欲望なんであって それは主体的な意志に基づいた純粋行為を持たない奴特有の行動であって 本当に主体的に好きなことがあれば本当に批判すべきは誰なのかを選択することが出来る

もちろん 論理的根拠を示さないと話にならないが

 

Ende;

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犬も食えない

2020年06月09日 13時40分25秒 | 日記

まさかのカップヌードル

2,420円(税込)

しかも食用ではない

 

Ende;

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錯覚

2020年06月09日 10時25分14秒 | 意識論関連

純粋理性批判ってのは「純粋統覚」だの「悟性」だのといったカント独自の分類をでっちあげて理性を伴わぬ感覚や直感に基づいた判断の方が正しいと決めつけているだけであり

論理の飛躍や見落としが激しく到底哲学としての論証にはなっていない

ヒトという種の生物に見られる共通規格でありさえすれば人間性を伴った「正しい判断」であることの論証になる訳ではない

それは単なる多数決や民主主義に過ぎず 制度手続きと論理的根拠の混同である

カントはデイビッド:ヒュームが言った「因果法則も習慣的印象に過ぎない」という話に衝撃を受けたというが

「衝撃を受けた」というのは強い感情(主観)が伴うために客観性を失うことになるのである

野依良治が「主観が大事」と述べた際にも強い「怒り」の感情が伴っており

振り込め詐欺の被害者も恐怖心などの強い感情を煽られることによって簡単に客観性を失うのである

 

「人間は主観の外に出て世界を認識することはできない」のだが だからといって錯覚を錯覚だと理解認識することが出来ないわけではなく 論理的に現象を理解すれば主観が作り出す錯覚や妄想に惑わされずに真実を見分けることが可能である

望遠鏡や電子顕微鏡といった機材というのは ヒトの感覚器の限界を拡張することが出来るわけであって スペイン風の時には原因がわからなかったウイルスの存在を認識できるようになったのであり 先天的なヒトの感覚器だけでしか物事を判断することが出来ないわけではない

ウイルスが肉眼では見えないからといって「存在しない」としか認識できないわけではない

ある物質を熱して溶ける温度が一定だとみなすのは 何度も繰り返し試した結果からの推測なのだが 100回繰り返して同じ温度で溶けたからといって101回目も同じ温度で溶けるとは限らない 何度も同じものを加熱冷却したことによって融点が変わってしまう可能性もないとは言えないだろう

ある航空機が10万回墜落せずに飛行できたとしても それが「これからも絶対についらくしない」ことの論証にはならない 10万回も飛行したために劣化して空中分解するかも知れない

40年間運転し続けた原発が一度も放射能を放出しなかったからといって 「これからも絶対に放射能を放出しない」ことの論証にはならない

どんなに白いスワンを大量に集めてきても スワンの全ては常に白いことの論証にはならない

科学というのはあらゆる観点から検証する必要性があり 単純に「これさえ立証すれば全てを証明した」ことにはならない

ところがヒトという種の生物は物事の解釈を単純化したがる習性があるため 「これさえやっときゃ全ては解決した」かのような短絡安易な解釈で満足したがるため 多角的な検証をすぐに無視してしまうのである

「客観性っつったってどうせ主観の中にあるのは一緒じゃねぇか」と言われて衝撃を受け 錯覚に起因する誤謬の存在を無視して 衝撃という感情的興奮につられて勝手にでっちあげた主観的感覚の方を正当化するための「理屈」が純粋理性批判である

「純粋統覚」だの「悟性」があるからヒトは理性や人智を超越した謎の「叡智」を発揮できることの論証になるんすかね

理性を超越したら論理的根拠の説明は要らないし

人智を超越しちまったら一体誰が思いついて 誰がどう応用すると言うんでしょうな

その話は一体だれが責任とって呉るんでしょうか

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メモ:純粋理性批判

2020年06月08日 23時00分26秒 | 意識論関連

デイビッド:ヒューム

「因果法則も習慣的印象に過ぎない」

人間は主観の外に出て世界を認識することはできない

主観には共通規格がある

 

経験的総合判断

経験に依らぬ判断 アプリオリな総合判断 錯覚を含むことを考慮に入れていない

因果律:偶然に起こるものはない

因果に悪霊妖怪の類いを含めてしまえば真理を見失う

 

空間時間を通して直感を作り出す ?

原因と結果 (状況証拠に過ぎない

手続きの仕方

 

「純粋統覚」の中には刷り込み学習も含まれることになり 育った環境によって根拠もなく鵜呑みにしている「常識」も含まれることになる

「自分の経験」を事後正当化してしまう習性があるからこそ虐待は連鎖するのである

 

カントは見落としが多すぎる

頭ごなしに科学や理性を批判しようとしているため先天的感覚や直感の全てを万能だと見なして論じており

持論に都合の良い屁理屈を陳列しているだけである

 

Ende;

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ヒトが信じたくない話

2020年06月08日 21時30分40秒 | 意識論関連

第2回 科学の知は、なぜ共有できるのか


多様な感覚的素材を「時間」と「空間」という形式を通して受容する「感性」。「時間」と「空間」は客観世界にあるのではなく、私たちの認識主観にあらかじめ組み込まれている「形式」だとカントは考える。いわば、私たちは「時間」「空間」という眼鏡をかけて世界を認識しており、その規格が共通だからこそ科学や数学が客観性をもつというのだ。しかし、それだけでは認識は成立しない。もう一つの共通規格である「悟性」が、そうした感覚的素材を量、質、関係、様態といった「カテゴリー」に当てはめて統一することで、初めて万人が共有できる「知」が成り立つという。第二回は、認識能力の限界を見極めるカントの洞察を通して、「人間が何を知りえて、何を知りえないか」を明らかにし、科学的知識がなぜ共有できるのかを掘り下げて考える。

『私たちの認識主観に予め組み込まれている「形式」だとカントは考える。』

「考える」と述べているが 根拠が示されておらずデマ同様に勝手な決めつけにすぎず それに基づいたカントの論説は全て基礎を失う

カントは理性を超越しちまった悟性(何だそれ)という分類の中に錯覚がもたらす科学的誤謬の存在を無視している

「万人が共有できる」ことの全てが真理であることの根拠が全く示されていない

ヒトの大多数は科学的思考や論理客観的検証というものが苦手で 神だの魂だのといった実証不能の観念を信じ込み倫理に反する行為を行うようにもなる

それなら「万人」という多数が共有したがるからといって真理であるとは言えないのである

「万人」と称して多数派の人気取りをしているだけなら それは哲学ではなく大衆迎合に過ぎない

 

 


第3回 宇宙は無限か、有限か

理性が本来の限界を超えて推論を続けると必ず陥ってしまう誤謬。中でも「世界全体についての認識」を例にそうした誤謬の検証を行うカント。例えば「宇宙は無限か、有限か」。宇宙に時間的な始まりがあるとすると、その前には時間が存在しないことになり、いかなる出来事も生じず宇宙は誕生しないことになる。逆に宇宙に時間的な始まりがないとすると、現在までに無限の時間が経過したことになるが、無限の時間とは経過し終えないもののはずだから現在という時間は決して訪れないことなる。このように、対立するどちらの論も成り立たない矛盾をアンチノミー(二律背反)と呼び、この検証を通じてカントは理性の限界を鮮やかに浮かび上がらせる。第三回は、理性が自ら陥ってしまう誤謬の解明を通して理性や科学的思考への過信に警告を鳴らす。

「いかなる出来事も生じず」と言っているが この論証における「出来事」とは「この時空間においての出来事」を述べているに過ぎず 「この時空間」からは見えない高次の「ゆらぎのようなもの」の存在を否定したことにはならない

最新の物理学においては「この時空間」の4っつの次元からは少なくとも他の7次元を知覚することは原理的にできず 「いかなる出来事も生じない」ことの論証には全くならず 何ら論理性の限界の証明にはなっていない

今更ビッグバン理論(この時空間の始まり)を否定する天文学者なんぞオカルトでしかない

 


第4回 自由と道徳を基礎づける

理性の能力の限界を厳しく吟味すると「神の存在」や「魂の不死」は証明できないことが明らかになる。ではなぜ古来人間は、神や魂について考え続けてきたのか? その動機の裏には「かくありたい」「かく生きたい」という「実践的な関心」があった。「神の存在」「魂の不死」を前提としなければ道徳や倫理は全く無価値なものになると考えたカントは、それらを「認識の対象」ではなく、実践的な主体に対して「要請された観念」だと位置づける。この立場からカントは、科学によって居場所を失いつつあった価値や自由といった人間的な領域を基礎づけようとする。第四回は、科学が主導権を握りつつあった世界にあって新しい道徳の復権を目指したカントの思索を通して、知識や科学だけでは解決できない「人間的価値や自由の世界」を深く見つめ直す。

ヒトが神や魂について考え続けてきた動機の裏にあるのは動物としての先天的な「社会性(社会形成習性)」による妄想観念の事後正当化であり 錯覚を錯覚だと認識するのは客観的論理検証性である

「神の存在を前提としなければ道徳や倫理は全く無価値になる」と述べているが

旧約聖書において「神がいないのであれば 何をしても許される」という話同様 自律のないバカの主張に過ぎない

社会安全性や持続可能性の追求(倫理)というものは神が許すかどうかの問題ではなく あくまで「人間」としてのヒトが求めているものであり 神がいようがいまいが関係がない

そもそも魂が不死であるのならば 死ぬことを恐れる必要もなくなるので 「早く死ね」という結論にしかならない

 ◇

カントは当時の科学の進歩に対しての観念的恐怖心から科学的な理論(理性)を頭ごなしに否定したかっただけであって 純粋理性批判は何ら理論として成立していない

そもそも「理性を否定する理論」自体が自己矛盾であって その屁理屈の結論が実証不能の「叡智界」では話にならない

ヒトの多くは自分の主観的観念の方を意識の本質だと錯覚する習性があり 客観的な論理検証に基づく話に耳を貸さないようにするためには「理性は悪だ」と決めつけておけば主観的に満足し 何も考えなくなる

考えないということは バカということである

ヒトはバカでいた方が楽なのである

 

Ende;

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バカワクチン

2020年06月08日 16時40分40秒 | 意識論関連

養老孟司は「地球温暖化の原因が温室効果ガスの放出によるものだと言っている学者が9割なら 9割は信じても良い」と言ったが

これは嘘である

それなら「哲学者の99.99%がカントの純粋理性批判を支持していれば99.99%は信じても良い」ことになってしまう

カントの純粋理性批判というのは論理客観的根拠が著しく欠損しており ただのオカルト妄想にしかなっていない

科学や哲学にとって重要なのは 客観的証拠や根拠であり 「学者の多数決」ではない

客観的根拠に基づいて 「何が間違いなのか」を認識するのは最終的には個人の検証であって 多数派迎合ではない

ヒトという種の生物は先天的に客観的論理検証性が働きづらい性質があるため わざわざ科学や哲学といった論理的根拠を伴った客観的事実を認識するための方法論を必要とするのであり

「哲学」だと称して根拠のないオカルトやお伽話を信じていたのでは哲学もスッタクレもなくなるのである

 

ヒトの多くは実証不能の観念を鵜呑みにし 他人に多大な迷惑をかける習性が先天的にある

だから 実証不能の観念なのか それとも客観性のある論理的根拠を伴う事実なのかを識別するために科学や哲学が必要となるのである

妖怪悪霊の類いを信じ込んで効果のないおまじないで安心しても安全性は全く向上しないのである

疫病対策として妖怪を祀っても それは主観的気分の問題であって 客観的には効果がないことは明らかである それはたいていの人が知っている

ところが 純粋理性批判に関しては多くの人が客観性のある論理的根拠を伴う「哲学」だと信じ込んでいるため 純粋理性批判を鵜呑みにして「理性には利己的利益追求の側面があります」などと言い出すバカが後を絶たない

バカは自分で物事を考えない

物事を考えないからバカなのだが

何が論理的根拠を伴う「考え」なのか それとも客観性のない「思い込み」に過ぎないのかを区別出来ないのが原因である

自分で物事を考えず 多数派に迎合して自律的判断を放棄しておいた方が判断責任を負わなくて済むため 主観的には安心してどんな話でも鵜呑みに出来る

バカというのは その主観的な安心そのものが「利己的」であることすら自覚することはない

感覚や直感には利己的利益追求の側面が存在しないとでも言うのであろうか

何も考えない方がむしろ利己的なのである

ヒト以外の動物は常に利己的である

ゴリラやチンパンジーに白目がないのは 相手から視線を悟られないために結果的に進化したためであり 基本的にゴリラやチンパンジーは相手に自分が何を考えているのかは知られたくないのである

イヌやサルにエサを与えて芸を仕込むことは出来るし 盲導犬や介助にサルを用いることは可能であるが これは訓練によってヒトにとって都合の良い行動を「学習」させることで可能になる一種の洗脳であり あまり知能の高過ぎる動物は使うことが出来ない

すると「知能が高いと理性が働くから 理性は悪だ」という説明も可能になるが これは間違いである

知能が低いイヌの場合 軍用犬として殺戮に運用することも可能となるのであり どう運用するのかは使う方の目的次第である

重要なのは「目的」である

目的が目先の欲望だけである場合には 利己的行動しか促されることはなく これは理性の有無とは関係がなく ワニでもサルでも野生動物は全て利己的なのである

ヒトがなぜ利己的行動を悪だと認識できるのかと言えば それは社会安全性において必要だと「理解」しているからである

自然界においては利己的行動だけでも 結果的に環境調和が可能な生物相へと「進化」した結果 肉食動物の繁殖力が一定程度低く 草食動物の繁殖力が非常に高い個体種だけになったのであって 別に彼らが「自然環境と調和するため」という目的意識に基づいて自らの遺伝的形質を選択したわけではない

「犀は草食動物だが繁殖力が低い」のだが それは肉食動物から喰われないためであって むしろ天敵がいないために繁殖力の低い個体でなければ環境調和に適さないため 結果的に淘汰されたと言える

つまり 環境調和であれ何であれ 野生動物の形質というのは全て結果的な必然性であって 誰の「目的」も介在していないのである

それなら自然界同様に社会から犯罪者を片っ端から「淘汰」していけばヒトは人間性が高まるという妄想も働くかも知れないが これは自然界の「結果」を鵜呑みにした短絡的発想に過ぎず 本当に自然界における遺伝的進化を促すためにはヒトの99.99%以上を淘汰しなければ遺伝的進化など起きることはない

そもそも遺伝的進化による先天的な行動習性や形質といったものは 特定環境下においてのみ有効性を発揮するものであって 環境が変われば無駄になるものでもある

ネアンデルタール人が絶滅したのは寒冷地適応が地球温暖化に対応できなかったのが原因だと言われている

もし ネアンデルタール人の中により温暖な気候に適した個体がいて その個体同士だけが子供を作り続ければ環境の温暖化にも適応することが出来たかも知れないが そうした遺伝的進化というものは常に成功する保証は何もないのである

遺伝的進化が促されるのは何世代もの苛烈な淘汰が必要であり 自然界の過酷な淘汰圧力の結果に過ぎない遺伝的進化をヒトに適用する時点で 既に人間性を著しく欠いているのである

ヒトは 深く物事を考えれば社会安全性が結局は自分の利益になることを認識することが可能ではある

可能ではあるが それは深く考えずに目先の欲望に任せてしまえば社会安全性よりも利己的行動の方を優先してしまいがちである

だから犯罪だの紛争が絶えない

釈迦は「情けは他人の為ならず」と述べたが それは宮沢賢治の「世界中の人が幸福にならなければ 自分の幸福もあり得ない」のと同義である

ゴリラやチンパンジーレベルの中途半端な知性は利己的利益追求を加速させることになるが ヒトは深く物事を考え 何が本当なのかを理解認識することによって目的を持った人間性を発揮することも可能なのである

ヒトであってもゴリラやチンパンジーレベルの中途半端な知性しか発揮しなければ利己的な行動しか採ることはない そんなバカなら世の中に掃いて棄てるほどいる

さらには中途半端な知性すら働かずにイヌ程度の盲目性を発揮してしてしまえばバカげた戦争にも便利に使えるようになるのである

 

相模原障害者施設津久井やまゆり園の被害者の個人情報報道が問題になったのは その個人情報に基づいて直接電話や訪問や「手作りのおはぎ」を持ってくるという迷惑な「お励まし」が起きたことである

「お励まし」を行っているヒトというのは 主観的に「かわいそう」だと思ったからやっているのであって 客観的に迷惑かどうかを全く配慮しないバカが一定する世の中にはいることの証拠である

現在の義務教育における「道徳」教育というのは 主観的な「かわいそう」という感情論の喩え話をしているだけであって これは被害者や遺族への配慮を欠いた「お励まし」を助長するだけである

「相手の気持ちを理解した」という錯覚に基づいた行動であろうが 実際には「お励まし」をすることによって 「自分は心の優しい人だ」と思い込むための利己的な自己満足でしかない

「情けは他人の為ならず」ではあるが 合理性や方向性のない身勝手な観念で「お励まし」をされても迷惑だということを バカは自覚認識することが出来ないのである

松永莉子パパに対して無神経に「頑張って」だとか「早く忘れろ」だとか言い出すバカもいるらしいが 頑張るべき対象を失ったから地獄なのであって無神経にも程がある

鬱状態の人に対して「頑張れ」は禁句である これは臨床心理では常識であり 絶対に言ってはならない

ところが一般的には何か災害などが起きるとすぐに「頑張れ」と言い出すのが常識みたいになっているが これは個人に対しては厳に慎むべきである

マスコミ報道で「お涙頂戴」とばかりに被害者報道を繰り返し その報道に煽られて無神経な「お励まし」を行うことは人間性を欠いた行動である

被害者を取材して個人情報を垂れ流して「お涙頂戴」的報道でもしておけば視聴率は採れるのだろうが それは身勝手な利己的行動にしかなっていない

自分達の組織の利益を追求しているだけであって 社会安全性にとってはむしろ害しかもたらしていないことも自覚せず 「事件の再発防止のため」などという論理的根拠もない身勝手な実証不能の観念を振り回すのは 合理性のない「道徳」教育が助長しているのである

 

知能が一定程度までは利己的行動は助長されるが 理性が充分に発揮されれば利己性が悪であることを自覚し自制することができるようになる

ゴリラやチンパンジーは生息数が少ない それは生物としては特に優れていないことをも意味する

ボノボは感情が高ぶると誰彼構わず抱きつきケツを振って満足するが これは時折イヌでもやる程度のことである これをヒトの社会人がやったら頭がおかしい

自分の感情は自分でナントカするのが人間というものである 「誉めてもらわないとやる気が起きない」だとか言っているのは自発性や主体性の欠如したバカの言い分である

芸術や文芸というのは科学や哲学と違って主観の世界である だから会田誠や江戸川乱歩による猟奇殺人小説のような不道徳な作品でも構わない そもそも「道徳」なんてのが社会安全性にとって意味がないからである

「たかしくんは やさしい気持ちになりました」でも「たかしくんは 女子の太もも見てムラムラしました」でも同じ主観であることに違いはないし それこそ「たかしくんは腹が立ったので殴りました」でも主観であることに違いはない

個人的な好き嫌いをどんなに多数で共有しても それが論理的根拠を伴った客観的事実の論証になるわけではない

養老孟司は主観的な好き嫌いの話を陳列して「客観的事実などない」などと言い出したのであり 科学者としても哲学者としてもポンコツ過ぎて論外である

養老孟司の嘘は大多数の人は見抜けず 簡単に鵜呑みにして主観的満足だけでなにかを「理解した」かのような錯覚に陥る

こうした錯覚によってヒトは真理を見失い 訳のわからぬ実証不能の観念を鵜呑みにし 他人に多大な迷惑をかけることになるのである

嘘つきは養老に限ったことではなく マイケル:サンデルやマルクス:ガブリエルや西研や茂木健一郎 挙げたらキリがないほど山ほどいる それらのどこがどう間違っているのかを全部私が教えるわけにはいかない

嘘つきという利己的行動は 知能が充分に働いていないバカの行動であり バカはいなくなることはない

「いなくならない」からといって放置して良いのではなく 「いなくならない」からこそ嘘を見抜く知性や理性が必要不可欠なのである

航空機事故もおそらく「なくならない」だろう だからこそ徹底した論理的原因究明と再発防止策が必要なのである

バカという「失敗」を教訓にすれば バカは確実に減る

バカが減れば社会安全性は確実に高まるのである

 

Ende;

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決めつけ

2020年06月06日 23時10分46秒 | 意識論関連

「人間ひとりが、狂うことは稀だが、集団、政党、国家、時代が狂うのは定めである」 -フリードリヒ:ニーチェ

集団政党国家時代が狂うことが絶対に不可避であることの論理証明があるわけではない

「定め」であることの根拠が全く示されておらず

また 当然原因も根拠も不明なので再発防止策なんぞ一切出てこない

これは単なるニーチェの勝手な決めつけでしかない

こんな糞の役にも立たない勝手な決めつけを哲学だと勘違いし

何かの役に立つと錯覚しているのは極めて無責任である

哲学は「役に立たなくても良い」のだが 「役に立たないことが論理的に証明出来るのに証明しない」のは何も「考え」ていないからであり

それは「哲学」ではなく 「根拠のない身勝手な思い込み」に過ぎない

 

養老孟司の「ヒトとはそういうものである」だとか

室山哲也の「人類は絶対に絶滅します」と一緒で

論理的根拠もなく勝手に決めつけ科学や哲学だと言い張っているだけであり

無責任で悪質なペテンである

 

 ◇

「イジメはなくならない」などと称して自発的に何も対策を考えようとしなくなるのに都合が良い言い逃れと同じで 「なぜイジメが起きるのか」という原因究明が出来れば再発防止に役立つのであって それを考えることを面倒くさがって放棄するために論理的根拠もなく「イジメはなくならない」と決めつけ 勝手に満足する

「イジメはなくならない」と称して対策をしなくなれば それは確かになくならないだろう

それはもはや「トイレットペーパーがなくなる」という「予言」と一緒で 予言を盲目的に信じたバカの多数によって予言は達成されるのである

ニーチェや養老孟司による根拠のない勝手な決めつけを鵜呑みにしておけば 何の責任意識も持たずに何も考えず 何も対策をしない方が個人的には楽であろう

それは ただの怠慢怠惰でしかない

ニーチェや養老の話を鵜呑みにしたがる奴というのは 精神が怠惰だからである

怠惰を正当化し 既に存在している自己を正当化することによって 何も考えなくなり 現時点での選択可能性を喪失するのである

それこそが人間性や倫理の喪失を招くのである

 

Ende;

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自己矛盾

2020年06月06日 14時02分21秒 | 意識論関連

エマニエル:カントの「叡智界」だとか フリードリヒ:ニーチェの「超人」だとかを未だの哲学として教育機関で教えているというのは

これは例えば錬金術や天動説を未だに科学だとして教えているようなものなんですよ

「科学の歴史」と題して「過去にこうした間違った話を科学だと信じていた時期もありました」と教えるなら間違いじゃありませんけどね

今の哲学界というのは間違っていようがなんだろうが 人気さえあればロシア文学だろうと妄想観念だろうと「哲学」として扱っている

哲学っていうのは「考える」ことであって 主観的に「信じたいことなら論理的根拠や実証的証拠が伴わなくても信じて構わない」わけじゃありませんよ

ヒトは主観的に「信じたいものだけを信用したがる」習性があります 

主観に頼っていると客観的真実を見失うから論理的客観性に基づいて「本当のこと」を見極める必要がある

科学や哲学というのはそのためにある

なのに哲学界は主観的好き嫌いに基づく文芸を哲学と明確に区別出来ていない

これはフィクションやファンタジーと科学をゴッチャにしているのと同じこと

それは異常なんですよ

もしエマヌエル:カントの純粋理性批判が論理客観的証明であるというのであれば 畑村洋太郎に説明できる奴がいるのかって話ですよ

「叡智界」なんつうオカルト話が出てくる話を畑村洋太郎が理解できる形で説明できる奴なんか世界中探したって出てこないんですよ

なのに文科系大衆やマスコミには人気がある

それはなぜか 客観的理論を伴う話じゃなくて 読んだ奴が主観的に満足して勝手な解釈をでっちあげられるからですよ

野依良治は「わかった」と錯覚したようですけど だから「ボケジジイ」なんですよ

「論文を捏造するのはやめましょう」なんつう幼稚園レベルの「教育指導」を再発防止策だと言い張るようなバカですから そりゃボケているとしか言いようがありません

かつてはノーベル賞を獲るくらいの知能があったかも知れませんけど

過去の栄光が今現在の知能の論証になるわけではありませんよ

科学や哲学を主観的に「信じたい」かどうかを判断基準にするべきではありません

個人的な好き嫌いというのは客観性も論理性もないからです

それとも何ですか あんたの好き嫌いには論理客観性が先天的に組み込まれているとでも思ってんですか?

おまえさん 一体何者なんですか?

自分を何様だと思ってんですかね?

私は自分をスケベなハゲヲヤヂだと思ってますよ だから正しいのは論理的根拠に基づく客観性だと「知って」いるから自分の主観的好き嫌いは信用しません

学校安全に関わる研究者が金髪で「何かチャラい」と「思って」も 言っている内容が論理的に正しければ信用します

でも 言っている内容に論理整合性がなければ京大学長だろうが東大名誉教授だろうがノーベル賞受賞者だろうが叩きます

「権威」というのは 主観的に「信用したい対象」という主観的分類でしかなくて 論理客観的に「権威」というものを立証するこた出来ないんですよ

ガリレオを火炙りにしようとした当時の教会も ヴァルター:ベンヤミンを死においやったのも当時の「権威」であることに変わりはありません

地動説を火炙りにしようとした「失敗」経験に基づいて 「なぜ失敗したのか」の原因を突き止め 再発防止に役立てなければ 何度でも同じような過ちを繰り返し 真理を見失うことになります

真理 真実が見えなければ 正しい行動選択は出来なくなります

意味のない「おまじない」の類いに邁進して 実効性のある行動はしなくなる

「ヒトは今まで実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけてきた」からといって 「ヒトとはそういうものであって 何度繰り返しても治らないものである」という解釈をしておいた方が何も考えずに無責任に放置することができます

何も考えず 何も責任を取らない方が安心でしょうよ

それこそがむしろ「利己的」だということを誰も「考え」もしないんでしょうな

理性を批判しときゃ自分の主観的な感覚が正当化出来ると「思って」いる

だから客観的論理検証に基づく根拠を誰も「考え」なくなる

ヒトは先天的にバカなんですよ

でも バカは自覚すれば治る

自分の何がどうバカなのかを客観的に理解していれば バカに陥らずに済む

バカのままでいたほうが気が楽でしょうな

国民を弾圧する独裁者というのは それが安心だからやるんですよ

警察や軍隊が平気で市民に危害を加えるのも

デモに乗じて略奪や暴動を起こすのも

その方が安心だからやるんです

自分の主観的な安心の多数決によって 破綻への暴走が始まるんです

暴走している間は安定しています

安定しているから破綻するまで暴走することになる

誰もブレーキをかけない

暴走者の群れと暴走者の群れが衝突しても それは武力の強い方が「勝つ」だけであって そこに正義なんぞありゃしませんよ

ナチスを止めたのはソ連でしたが ナチス以上に国民を虐殺したそうです

暴動を制圧するのに軍隊や武装警官は「便利」でしょうけど 彼らには主体的な「意思」なんぞありゃしません

命令通りに服従するだけの洗脳状態を人為的に作り出した集団が兵隊というものなんですから

自国の武力の方が強ければ主観的には安心でしょうけども その主観こそが軍拡というバカみたいなチキンレースの原因なんですよ

そして 軍隊というのは自分たちの存在価値を示して評価を得るためには 実際に戦争をするのが一番効果的だから戦争が起きる

ヒトがバカなのは 主観を意識の本質だと錯覚し「思って」いるからです

だから 「主観が大事」なんつう根拠のない野依良治の勝手な決めつけなんぞ要らないんですよ

要らないものは要らない

 

「理性を批判する理論」という時点で自己矛盾ですよ

話にならない

「理性が悪だから主観的感覚や直感の方が正しい」という「理論」が純粋理性批判です

その結論が「人間は叡智界に属しているのである」ときたもんだ

もう何が何だかサッパリ訳がわからない

そういうオカルトの方が大衆やマスコミには人気がある

「ヒトとはそういうもの」なんですよ

それで良いと「思って」んでしょね

 

 

Ende;

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塞翁が馬

2020年06月05日 16時22分15秒 | 意識論関連

サイコロの目で1が出る確率は1/6である

サイコロを2つ振って両方1が出る確率は1/6^2である

「^(カレット)」記号というのはC言語などのプログラミング言語で乗数を表す時に用いる表記である

一般的な数学の数式表記をググるのが面倒臭いのでこう表記してみた

3っつのサイコロを振って全部1が出る確率は1/6^3

サイコロの数をnとした場合 全て1が出揃う確率は1/6^nである

100個のサイコロを振って全て1が出揃う確率は1/6^100で 電卓アプリで計算したら

1/653318623500070906096690267158057820537143710472954871543071966369497141477376

というとんでもない低い確率になった

77桁もある

でも0ではない

 

遺伝的進化というものは 途方もない突然変異の挙げ句の果てに 偶発的に環境適応した個体が「生き残った」という「結果」に過ぎない

膨大な屍の上に偶発的に生き残ったものを「生物」と分類しているだけであって 生物自体には「目的」意図があるわけではない

生物が「生きて」いるのは 結果的に「生きて」いることにとって有利な形質を持っていたからであって 別に個体の目的意図に基づいて「生きて」いることにとって有利な形質を「選んだ」わけではない

 

統率協調行動を採る行動習性を持つことによって それが生存にとって有利に働き 死なずに済む可能性はある

しかし ヒトの協調性は常に人間性や倫理に則った行動しか促さないわけではなく むしろイジメや差別や暴動や紛争やネット上の誹謗中傷においても発揮される方向性のないものである

先天的行動習性というのは もともと目的に基づいて意図的に選択「した」ものではなく

結果的に「死なずに済んだ」個体に残った性質であり 偶発的に環境からの淘汰圧力よって選択「された」ものに過ぎないので 方向性や目的はないのである

一つの可能性だけを抽出してきて あたかもそれ以外の可能性が存在しないかのように決めつけるのは科学ではない

リチャード:ドーキンスの科学的誤謬はここにある

ところが 科学的な論理検証の出来ないバカの場合 「ヒトは進化的に人間性を発揮するよう進化している」かのような話を聞かされると「自分は先天的に優秀な生物なのだ」という勝手な満足に溺れ それが科学的に論理的証明が伴うのかどうかは「考え」なくなり 盲目的に信奉するようになる

ドーキンスの著作が長年人気があるのも 人気があるのに何の役にも立たないのも 科学的論証ではなく 文科系大衆やマスコミ関係者の勝手な主観的満足に過ぎない「お伽話」だからである

オオカミのメスは子供が産まれそうになると群れから離れ ワンオペで複数の子供を育てるという

オオカミの群れというのは その内部に強烈な序列があるため 小さな子供がオスの群れの中では序列が極めて低く扱われるため 成体のオスに殺されてしまうことがあるからだという

生物学上における先天的な「社会性」というのは 統率協調行動や役割分担を促すことで それが捕食にとって有利に働くことはあっても 捕食以外の子育てなどにとっては不利に働くこともある

ヒトが権威に服従する行動においても ユダヤ人大量虐殺という残虐行為に発揮されることもある

アウシュビッツ ビルケナウ絶滅収容所の官吏アドルフ:アイヒマンは 戦後の国際法廷において「自分は体制に忠誠忠実な一官吏に過ぎない」と主張した

どんなに権威や体制に忠誠忠実であろうとも それは人間性や倫理の論証には全くならないのである

人間性というのは 「個人が自律的に社会的責任を負うこと」であって 自分以外の権威や多数や体制に迎合したり服従したりすることで発揮されるものではない

権威や多数や体制に迎合したり 同調しておけば気分的に安心である それこそが先天的な統率協調行動習性が促す快楽であり 忠誠忠実であることに対して主観的な美的官能を感じるように大脳辺縁系が出来上がっているからである

ヒトは順位序列を決めつけておかないと不安になり 服従すべき権威対象のようなものを盲目的に信じ続けようとするものなのである

主観的な安心だけを追求していればイジメや差別は止まらない

客観的に社会安全性に基づいた論理的根拠を伴う行動選択が必要不可欠なのである

倫理的行動というものには「心」が必要だと言われるが

この場合の「心」というのは動物的な行動習性だけではなく あくまで理性に基づいた選択が必要なのである

ところが 多くのヒトは倫理というものは「優しい気持ち」にさえなれば発揮されるものだと勝手に勘違いしており 道徳教育では「たかしくんは、やさしい気持ちになりました」などという意味のわからぬ話で大衆の脳を撹乱しているだけである

倫理的行動選択というものは 先天的本能習性だけでは発揮されることはない

もし先天的本能習性だけで常に発揮されるのであれば 何も理屈こねて論証する必要もなく 自動的自然に人間性が発揮されることになるが そんなことは実際にはお伽話の妄想である

実際のヒトというのは集団でイジメを行い 論理的根拠や証拠も伴わぬ誹謗中傷を統率協調的に行い 特定個人を抹殺する事例が後を絶たない

養老孟司が言うように「ヒトとはそういうものである」のだが これは「考え」に基づいた結論ではない

「ヒトとはそういうもの」なのは結果であって それに対してどのような対策を立てるのかを「考え」て 初めて「考え」だと言えるのである

養老孟司が「私はそう考える」と言いさえすれば 読者の大半 ほぼ全員は「そういう考えもあるのか」などと鵜呑みにするが 本当はそれは「考え」ではなく ただの結果的事実を述べたに過ぎないことについては誰も気づかない

それが本当に「考え」なのかどうかは 誰も「考え」ていないからである

「ヒトは今まで実証不能の観念を振り回し 他人に多大な迷惑をかけてきた」ことをどんなに大量に抽出陳列してきても 「ヒトとは実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけ続ける以外の選択肢はない」ことの論証にも 「ヒトとは実証不能の観念を振り回し他人に多大な、迷惑をかけることが目的である」ことの論証にもならない

ヒトがなぜ実証不能の観念を振り回すのか

それは 実証不能の観念と客観的真理の区別が出来ないからである

それはつまり 主観的感覚に過ぎない気分感情が促す行動バイアスと 客観的根拠に基づいた目的行動選択の区別が出来ないからである

 

理論的に順序立てて物事を考え 本当に最も重要な目的にとって合理性のある行動は何かを選択することで 実証不能の観念に囚われることなく自律的に社会的責任判断選択ができるようになるのである

「目的意識」という言葉があるように ヒトは意識がないと目先の感情が促す行動に意識を奪われ 合理性のない行動に執着してしまう性質がある

ヒトは自分の感情の強度程度を短絡的に意識だと勘違いしているため 感情的に「悔しい」だの「腹がたった」などという目先の行動バイアスに意識を奪われ イジメだの殺人だのといった何の建設性もない行動に異常執着してしまうことに陥るのである

電話を用いた詐欺も その被害者の多くは「自分だけは騙されない」と主観的に「思って」いるのであり

新型コロナウイルスに感染した患者の多くも「まさか自分が感染するとは思っていなかった」と述べるのである

ヒトである以上騙されることもあれば ヒトが感染するウイルスに感染することもある

主観的に「自分だけは大丈夫」だと「思って」いるのは感覚や直感である

どんなに強く「思って」いても むしろ強く「思って」いるからこそ客観性が失われてしまい 論理的根拠のない実証不能の観念に囚われ客観的真実を見失うのである

客観的に何が本当のことなのかを判断するべきは論理的根拠である 論理的根拠というものは客観性を伴うので 主観的感覚が促す錯覚に惑わされることなく事実を見分けることができる

だから科学的検証というものが重要となるのである

警察が科学捜査をするのは 犯人が誰なのかを客観的に絞り込むために行うのであって 捜査員の主観で勝手に決めつけていたら冤罪の大安売りである

 

人間としての倫理を伴う行動選択を行う上において 客観的論理検証は必要不可欠なものであり 個人的な主観は徹底して排除しなければならない

利己的利益のために自分が所属する組織の利益を優先して個人が自律的な社会的責任を負わなければ人間性や倫理の論証にはならない

マイケル:サンデルが提示するトロッコ問題の類いには 個人の自律的な社会的責任判断選択が全く考慮に入っておらず 何ら倫理や人間性の論証にはつながらないのである

ただ 気分的に「悩ましい」だけに過ぎず どんなに悩んでも それは「考え」にはならない

サンデルの提示する命題に倫理が伴わないことに誰も気づかないのは 誰も「考え」ていないからである

考えない奴をバカという

バカであることに気づかされると多くのヒトは気分が悪いので無視しようとしたり 逆にバカであることを嘆いて落ち込んだりするだけで 「どのようにして自分は何も考えなくなってバカに陥ったのか」について客観的に検証し「考える」こともしない

真理を追求せずに主観的に絶望だけして何も考えなくなる それをセーレン:キェルケゴールは「死に至る病」と形容した

何も気づかなかった 考えなかったという「失敗」に基づき どのようにしたら考えないように陥らないのか 間違いに気付くようにできるのかを論理客観的に検証し 再発防止の教訓にして初めて「頭が良くなった」と言えるのである

学力偏差値だのクイズの正解率がどんなに高くてもバカは治らない

個人的に 主観的に好きなことに熱中して何かをしていると 自分が思ったようにうまくいかないことであってもあれこれいろいろ工夫ができるようになるものである

しかし 誰かからの成績評価のような「エサ」を目的に何かをやっても 工夫すら他人から教えてもらわないと出来ないバカになるのである

そして試験が終わって評価が出れば内容は全部忘れてしまう

本当に興味があるのは評価成績という「エサ」の方であって やっていることそのものではないため 本当は好きでもないのにやっているに過ぎないので 本質的集中力が発揮されないのである

「エサ」で芸を仕込むのはサルでもイヌでもブタでもできることである

カラスやイルカは野生でも遊ぶそうだが

ヒトが人間としての知能を発揮するためには 「エサ」でつられるような短絡的行動動機ではなく 本質的主体性を伴う純粋行為が必要なのである

 

ある数学理論を思いついた生徒がいて 教師に提示したら「それは既に過去の学者が発見していたので無駄だ」と言ったという

しかし それは間違いである 教えていないのに発見できる能力があることが重要なのであって 教えたことしかわからないバカがどんなに大量の知識を「知って」いても 教えていないことには何も気付くことの出来ないバカでしかないからだ

数学上の業績としては無駄になるかも知れないが それは「数学上の業績」という評価軸の上での無駄でしかない

教えていないことを発見できる能力があれば それはまだ誰も発見できていないことを発見する可能性があるが

教えたことしか覚えていないバカなら どんなに大量の知識を知っていても 教えてもらっていないことはわからないのである

その違いは自発性とか主体性である

砂漠の真ん中で熱中症になりかけながら いるかいないかわからないトカゲを探す根性は それが「好き」だからである

それは「好き」ではない他人には真似ができない

 

主観的に「好き」というのも ある種の脳内「エサ」であり 「脳への報酬」ではあることに違いはないが 重要なのは満足感が自給自足できていることである

本当に主体性があれば 他人から何を言われようとも続けることができるが 主体性のない奴は他人からの誹謗中傷に簡単に傷つき 簡単に諦めてしまう

フリードリヒ:ニーチェは「できそうにないことは やらないほうが良い」と述べたが 主体性のないバカはこれを根拠にすぐに諦めてしまう

しかも 他人のやっていることまで「できそうにないからやめておけ」などという大きなお世話も言い出す始末である

どっかの病理診断医も言ってましたな「恥ずかしいから やめておけ」なんて

「恥ずかしい」かどうかは個人の主観であって 客観的に無駄であることの論理科学的な証明になるわけではない

イジメを止めたことで逆にイジメの対象にされて惨めな思いをしたことを「恥ずかしい」と思うかどうかは主観である

「立派だ」と思う人もいれば 「バカじゃねぇのかw」と嘲る者もいる

ニーチェを好きになっている時点で 既に論理客観性が欠けたバカが確定しているのである

バカの大多数に人気があるからといって ニーチェが論理客観的根拠を伴った哲学であることの証明には一切ならない

評価が得られなくなった途端に自暴自棄になって暴れたりするのは 本当は主体性がないからである

幼少期に自主性を重んじもらえない環境で育つと 自分から物事を「考え」ることをしなくなる傾向があり

家庭内カーストが酷く ヒエラルキーの低い環境で虐げられて育つと 自制心が著しく欠落した大人になる

なので 貧乏かどうかはあまり関係なく 貧乏な環境でも親が子供の自主性を重んじて育てれば自制心のある本当の意味での「人間としての社会性」を獲得することができるのである

もちろん だからといって貧困格差を是正しなくても良い理由にはならない

しかし 虐待されて育った子供は どうしても大人になると自分の子供に対しても虐待をしてしまいがちである

幼少期の生育環境ばかりは どんなに頑張っても本人には取り戻しようがないものでもあり 様々な支援が必要である

とは言っても他人からの支援ばかりをアテにされても限界というものがあり 最終的には本人の理性 論理的理解に基づく自制心や 自律的な社会的責任への自覚は欠かせない

バカな大人達に育てられたからといって バカのままでも良い理由には全くならない

何がバカなのかを理解し 同じバカに陥らない賢さを身につけなければ 社会のあらゆる問題は解決することはなく それは社会の破綻を意味する

 

ヒトは意思を発揮することが可能である

論理客観的に目的意図に基づき 本当に合理性のある行動選択を行うことが可能ではあるが 可能ではあっても簡単ではない

それは先天的な行動習性ではなく むしろ行動習性に流されないようにするための理性が必要だからである

ヒトはサイコロの目の偶然で自動的に遺伝的進化によって「超人」になれるわけではなく 人間としての本質的な意識による客観的論理検証性によって 本当の「目的」を持つのである

他人の大切にしている何かを尊重できるようになるためには まず自分が大切にしている純粋行為を持つことである

養老孟司は東大を退官するまで虫の研究に没頭してこなかった それを養老は「世間がそれを許さなかった」と称して好きでもない医学の道に進んだことを「社会の所為」だと言い張るが 本当は主体性の欠如が原因である

養老は大衆観念に迎合する話しかしたがらないし 論理客観的検証なんぞ本当はどうでも良いと思っている

それが原因で哲学界や生物学界の著しい誤謬が放置され 危険性が放置されたとしても「知ったことではない」のである

養老は自著に間違いがあっても「自分は教科書に墨を塗らされた」ことを理由に間違いを訂正することは一切せず その場限りの口頭での言い逃れはぐらかしごまかしはぐらかしを繰り返すばかりである 文科系マスコミ関係者達はそれで簡単にごまかせるが 物理工学系研究者からは「意味がわからない」と一蹴されるだけである

「間違ったっていいじゃないか にんげんだもの」とは会田みつをだが 間違ったことを放置して良いわけではなく 間違えたら丁寧に訂正したり検証するのが「人間性」である

そこに主観的気分なんぞどうでもよろしい どんなに凹んでも嘆いても嫌な気分になっても 社会にとっては何の役にも立たないからだ

それは どんなに猟奇殺人の小説を書いても実害がないのと同じことである

何かを読んで「救われた」だの「元気が出た」だのと言うヒトは多いが 元気が出なかったら原発の津波に対する脆弱性を放置して良いことになるわけではない

救いがないからといってナチスに迎合して良い理由にもならない

とは言っても周庭さん達に無茶を強要するわけではなく より効果的な方策を選択する理性も必要である

頑張りさえすれば何でも叶うわけではなく 合理性のある工夫は必要である

日本のアニメが好きだそうだが 素手で「かめはめ波」が出せるわけではない

現状の中国政府というのは 太平洋戦争時の日本と同様 非常に「安定」して破綻に暴走している状態である

日本の失敗を教訓にすれば 暴走破綻の抑制にもなるかも知れない

ならないかも知れない

そればっかりは「やってみないとわからない」

わからないことは慎重に進める必要がある

慎重さを欠いているから「暴走」なのである

 

Ende;

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