サイコロの目で1が出る確率は1/6である
サイコロを2つ振って両方1が出る確率は1/6^2である
「^(カレット)」記号というのはC言語などのプログラミング言語で乗数を表す時に用いる表記である
一般的な数学の数式表記をググるのが面倒臭いのでこう表記してみた
3っつのサイコロを振って全部1が出る確率は1/6^3
サイコロの数をnとした場合 全て1が出揃う確率は1/6^nである
100個のサイコロを振って全て1が出揃う確率は1/6^100で 電卓アプリで計算したら
1/653318623500070906096690267158057820537143710472954871543071966369497141477376
というとんでもない低い確率になった
77桁もある
でも0ではない
遺伝的進化というものは 途方もない突然変異の挙げ句の果てに 偶発的に環境適応した個体が「生き残った」という「結果」に過ぎない
膨大な屍の上に偶発的に生き残ったものを「生物」と分類しているだけであって 生物自体には「目的」意図があるわけではない
生物が「生きて」いるのは 結果的に「生きて」いることにとって有利な形質を持っていたからであって 別に個体の目的意図に基づいて「生きて」いることにとって有利な形質を「選んだ」わけではない
統率協調行動を採る行動習性を持つことによって それが生存にとって有利に働き 死なずに済む可能性はある
しかし ヒトの協調性は常に人間性や倫理に則った行動しか促さないわけではなく むしろイジメや差別や暴動や紛争やネット上の誹謗中傷においても発揮される方向性のないものである
先天的行動習性というのは もともと目的に基づいて意図的に選択「した」ものではなく
結果的に「死なずに済んだ」個体に残った性質であり 偶発的に環境からの淘汰圧力よって選択「された」ものに過ぎないので 方向性や目的はないのである
一つの可能性だけを抽出してきて あたかもそれ以外の可能性が存在しないかのように決めつけるのは科学ではない
リチャード:ドーキンスの科学的誤謬はここにある
ところが 科学的な論理検証の出来ないバカの場合 「ヒトは進化的に人間性を発揮するよう進化している」かのような話を聞かされると「自分は先天的に優秀な生物なのだ」という勝手な満足に溺れ それが科学的に論理的証明が伴うのかどうかは「考え」なくなり 盲目的に信奉するようになる
ドーキンスの著作が長年人気があるのも 人気があるのに何の役にも立たないのも 科学的論証ではなく 文科系大衆やマスコミ関係者の勝手な主観的満足に過ぎない「お伽話」だからである
オオカミのメスは子供が産まれそうになると群れから離れ ワンオペで複数の子供を育てるという
オオカミの群れというのは その内部に強烈な序列があるため 小さな子供がオスの群れの中では序列が極めて低く扱われるため 成体のオスに殺されてしまうことがあるからだという
生物学上における先天的な「社会性」というのは 統率協調行動や役割分担を促すことで それが捕食にとって有利に働くことはあっても 捕食以外の子育てなどにとっては不利に働くこともある
ヒトが権威に服従する行動においても ユダヤ人大量虐殺という残虐行為に発揮されることもある
アウシュビッツ ビルケナウ絶滅収容所の官吏アドルフ:アイヒマンは 戦後の国際法廷において「自分は体制に忠誠忠実な一官吏に過ぎない」と主張した
どんなに権威や体制に忠誠忠実であろうとも それは人間性や倫理の論証には全くならないのである
人間性というのは 「個人が自律的に社会的責任を負うこと」であって 自分以外の権威や多数や体制に迎合したり服従したりすることで発揮されるものではない
権威や多数や体制に迎合したり 同調しておけば気分的に安心である それこそが先天的な統率協調行動習性が促す快楽であり 忠誠忠実であることに対して主観的な美的官能を感じるように大脳辺縁系が出来上がっているからである
ヒトは順位序列を決めつけておかないと不安になり 服従すべき権威対象のようなものを盲目的に信じ続けようとするものなのである
主観的な安心だけを追求していればイジメや差別は止まらない
客観的に社会安全性に基づいた論理的根拠を伴う行動選択が必要不可欠なのである
倫理的行動というものには「心」が必要だと言われるが
この場合の「心」というのは動物的な行動習性だけではなく あくまで理性に基づいた選択が必要なのである
ところが 多くのヒトは倫理というものは「優しい気持ち」にさえなれば発揮されるものだと勝手に勘違いしており 道徳教育では「たかしくんは、やさしい気持ちになりました」などという意味のわからぬ話で大衆の脳を撹乱しているだけである
倫理的行動選択というものは 先天的本能習性だけでは発揮されることはない
もし先天的本能習性だけで常に発揮されるのであれば 何も理屈こねて論証する必要もなく 自動的自然に人間性が発揮されることになるが そんなことは実際にはお伽話の妄想である
実際のヒトというのは集団でイジメを行い 論理的根拠や証拠も伴わぬ誹謗中傷を統率協調的に行い 特定個人を抹殺する事例が後を絶たない
養老孟司が言うように「ヒトとはそういうものである」のだが これは「考え」に基づいた結論ではない
「ヒトとはそういうもの」なのは結果であって それに対してどのような対策を立てるのかを「考え」て 初めて「考え」だと言えるのである
養老孟司が「私はそう考える」と言いさえすれば 読者の大半 ほぼ全員は「そういう考えもあるのか」などと鵜呑みにするが 本当はそれは「考え」ではなく ただの結果的事実を述べたに過ぎないことについては誰も気づかない
それが本当に「考え」なのかどうかは 誰も「考え」ていないからである
「ヒトは今まで実証不能の観念を振り回し 他人に多大な迷惑をかけてきた」ことをどんなに大量に抽出陳列してきても 「ヒトとは実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけ続ける以外の選択肢はない」ことの論証にも 「ヒトとは実証不能の観念を振り回し他人に多大な、迷惑をかけることが目的である」ことの論証にもならない
ヒトがなぜ実証不能の観念を振り回すのか
それは 実証不能の観念と客観的真理の区別が出来ないからである
それはつまり 主観的感覚に過ぎない気分感情が促す行動バイアスと 客観的根拠に基づいた目的行動選択の区別が出来ないからである
理論的に順序立てて物事を考え 本当に最も重要な目的にとって合理性のある行動は何かを選択することで 実証不能の観念に囚われることなく自律的に社会的責任判断選択ができるようになるのである
「目的意識」という言葉があるように ヒトは意識がないと目先の感情が促す行動に意識を奪われ 合理性のない行動に執着してしまう性質がある
ヒトは自分の感情の強度程度を短絡的に意識だと勘違いしているため 感情的に「悔しい」だの「腹がたった」などという目先の行動バイアスに意識を奪われ イジメだの殺人だのといった何の建設性もない行動に異常執着してしまうことに陥るのである
電話を用いた詐欺も その被害者の多くは「自分だけは騙されない」と主観的に「思って」いるのであり
新型コロナウイルスに感染した患者の多くも「まさか自分が感染するとは思っていなかった」と述べるのである
ヒトである以上騙されることもあれば ヒトが感染するウイルスに感染することもある
主観的に「自分だけは大丈夫」だと「思って」いるのは感覚や直感である
どんなに強く「思って」いても むしろ強く「思って」いるからこそ客観性が失われてしまい 論理的根拠のない実証不能の観念に囚われ客観的真実を見失うのである
客観的に何が本当のことなのかを判断するべきは論理的根拠である 論理的根拠というものは客観性を伴うので 主観的感覚が促す錯覚に惑わされることなく事実を見分けることができる
だから科学的検証というものが重要となるのである
警察が科学捜査をするのは 犯人が誰なのかを客観的に絞り込むために行うのであって 捜査員の主観で勝手に決めつけていたら冤罪の大安売りである
人間としての倫理を伴う行動選択を行う上において 客観的論理検証は必要不可欠なものであり 個人的な主観は徹底して排除しなければならない
利己的利益のために自分が所属する組織の利益を優先して個人が自律的な社会的責任を負わなければ人間性や倫理の論証にはならない
マイケル:サンデルが提示するトロッコ問題の類いには 個人の自律的な社会的責任判断選択が全く考慮に入っておらず 何ら倫理や人間性の論証にはつながらないのである
ただ 気分的に「悩ましい」だけに過ぎず どんなに悩んでも それは「考え」にはならない
サンデルの提示する命題に倫理が伴わないことに誰も気づかないのは 誰も「考え」ていないからである
考えない奴をバカという
バカであることに気づかされると多くのヒトは気分が悪いので無視しようとしたり 逆にバカであることを嘆いて落ち込んだりするだけで 「どのようにして自分は何も考えなくなってバカに陥ったのか」について客観的に検証し「考える」こともしない
真理を追求せずに主観的に絶望だけして何も考えなくなる それをセーレン:キェルケゴールは「死に至る病」と形容した
何も気づかなかった 考えなかったという「失敗」に基づき どのようにしたら考えないように陥らないのか 間違いに気付くようにできるのかを論理客観的に検証し 再発防止の教訓にして初めて「頭が良くなった」と言えるのである
学力偏差値だのクイズの正解率がどんなに高くてもバカは治らない
個人的に 主観的に好きなことに熱中して何かをしていると 自分が思ったようにうまくいかないことであってもあれこれいろいろ工夫ができるようになるものである
しかし 誰かからの成績評価のような「エサ」を目的に何かをやっても 工夫すら他人から教えてもらわないと出来ないバカになるのである
そして試験が終わって評価が出れば内容は全部忘れてしまう
本当に興味があるのは評価成績という「エサ」の方であって やっていることそのものではないため 本当は好きでもないのにやっているに過ぎないので 本質的集中力が発揮されないのである
「エサ」で芸を仕込むのはサルでもイヌでもブタでもできることである
カラスやイルカは野生でも遊ぶそうだが
ヒトが人間としての知能を発揮するためには 「エサ」でつられるような短絡的行動動機ではなく 本質的主体性を伴う純粋行為が必要なのである
ある数学理論を思いついた生徒がいて 教師に提示したら「それは既に過去の学者が発見していたので無駄だ」と言ったという
しかし それは間違いである 教えていないのに発見できる能力があることが重要なのであって 教えたことしかわからないバカがどんなに大量の知識を「知って」いても 教えていないことには何も気付くことの出来ないバカでしかないからだ
数学上の業績としては無駄になるかも知れないが それは「数学上の業績」という評価軸の上での無駄でしかない
教えていないことを発見できる能力があれば それはまだ誰も発見できていないことを発見する可能性があるが
教えたことしか覚えていないバカなら どんなに大量の知識を知っていても 教えてもらっていないことはわからないのである
その違いは自発性とか主体性である
砂漠の真ん中で熱中症になりかけながら いるかいないかわからないトカゲを探す根性は それが「好き」だからである
それは「好き」ではない他人には真似ができない
主観的に「好き」というのも ある種の脳内「エサ」であり 「脳への報酬」ではあることに違いはないが 重要なのは満足感が自給自足できていることである
本当に主体性があれば 他人から何を言われようとも続けることができるが 主体性のない奴は他人からの誹謗中傷に簡単に傷つき 簡単に諦めてしまう
フリードリヒ:ニーチェは「できそうにないことは やらないほうが良い」と述べたが 主体性のないバカはこれを根拠にすぐに諦めてしまう
しかも 他人のやっていることまで「できそうにないからやめておけ」などという大きなお世話も言い出す始末である
どっかの病理診断医も言ってましたな「恥ずかしいから やめておけ」なんて
「恥ずかしい」かどうかは個人の主観であって 客観的に無駄であることの論理科学的な証明になるわけではない
イジメを止めたことで逆にイジメの対象にされて惨めな思いをしたことを「恥ずかしい」と思うかどうかは主観である
「立派だ」と思う人もいれば 「バカじゃねぇのかw」と嘲る者もいる
ニーチェを好きになっている時点で 既に論理客観性が欠けたバカが確定しているのである
バカの大多数に人気があるからといって ニーチェが論理客観的根拠を伴った哲学であることの証明には一切ならない
評価が得られなくなった途端に自暴自棄になって暴れたりするのは 本当は主体性がないからである
幼少期に自主性を重んじもらえない環境で育つと 自分から物事を「考え」ることをしなくなる傾向があり
家庭内カーストが酷く ヒエラルキーの低い環境で虐げられて育つと 自制心が著しく欠落した大人になる
なので 貧乏かどうかはあまり関係なく 貧乏な環境でも親が子供の自主性を重んじて育てれば自制心のある本当の意味での「人間としての社会性」を獲得することができるのである
もちろん だからといって貧困格差を是正しなくても良い理由にはならない
しかし 虐待されて育った子供は どうしても大人になると自分の子供に対しても虐待をしてしまいがちである
幼少期の生育環境ばかりは どんなに頑張っても本人には取り戻しようがないものでもあり 様々な支援が必要である
とは言っても他人からの支援ばかりをアテにされても限界というものがあり 最終的には本人の理性 論理的理解に基づく自制心や 自律的な社会的責任への自覚は欠かせない
バカな大人達に育てられたからといって バカのままでも良い理由には全くならない
何がバカなのかを理解し 同じバカに陥らない賢さを身につけなければ 社会のあらゆる問題は解決することはなく それは社会の破綻を意味する
ヒトは意思を発揮することが可能である
論理客観的に目的意図に基づき 本当に合理性のある行動選択を行うことが可能ではあるが 可能ではあっても簡単ではない
それは先天的な行動習性ではなく むしろ行動習性に流されないようにするための理性が必要だからである
ヒトはサイコロの目の偶然で自動的に遺伝的進化によって「超人」になれるわけではなく 人間としての本質的な意識による客観的論理検証性によって 本当の「目的」を持つのである
他人の大切にしている何かを尊重できるようになるためには まず自分が大切にしている純粋行為を持つことである
養老孟司は東大を退官するまで虫の研究に没頭してこなかった それを養老は「世間がそれを許さなかった」と称して好きでもない医学の道に進んだことを「社会の所為」だと言い張るが 本当は主体性の欠如が原因である
養老は大衆観念に迎合する話しかしたがらないし 論理客観的検証なんぞ本当はどうでも良いと思っている
それが原因で哲学界や生物学界の著しい誤謬が放置され 危険性が放置されたとしても「知ったことではない」のである
養老は自著に間違いがあっても「自分は教科書に墨を塗らされた」ことを理由に間違いを訂正することは一切せず その場限りの口頭での言い逃れはぐらかしごまかしはぐらかしを繰り返すばかりである 文科系マスコミ関係者達はそれで簡単にごまかせるが 物理工学系研究者からは「意味がわからない」と一蹴されるだけである
「間違ったっていいじゃないか にんげんだもの」とは会田みつをだが 間違ったことを放置して良いわけではなく 間違えたら丁寧に訂正したり検証するのが「人間性」である
そこに主観的気分なんぞどうでもよろしい どんなに凹んでも嘆いても嫌な気分になっても 社会にとっては何の役にも立たないからだ
それは どんなに猟奇殺人の小説を書いても実害がないのと同じことである
何かを読んで「救われた」だの「元気が出た」だのと言うヒトは多いが 元気が出なかったら原発の津波に対する脆弱性を放置して良いことになるわけではない
救いがないからといってナチスに迎合して良い理由にもならない
とは言っても周庭さん達に無茶を強要するわけではなく より効果的な方策を選択する理性も必要である
頑張りさえすれば何でも叶うわけではなく 合理性のある工夫は必要である
日本のアニメが好きだそうだが 素手で「かめはめ波」が出せるわけではない
現状の中国政府というのは 太平洋戦争時の日本と同様 非常に「安定」して破綻に暴走している状態である
日本の失敗を教訓にすれば 暴走破綻の抑制にもなるかも知れない
ならないかも知れない
そればっかりは「やってみないとわからない」
わからないことは慎重に進める必要がある
慎重さを欠いているから「暴走」なのである
Ende;