書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

基本

2020年06月03日 15時41分50秒 | 意識論関連

心とは何かを論ずるためには

その定義を明確にしておく必要がある

人それぞれに定義が違っていたのでは同じ理屈を聞いても理解が異なってしまうからだ

ゴリラに心はあるだろうか

感情はあるだろう

感情や気分を作り出す大脳辺縁系自体はヒトと違いがほとんどないからだ

大脳辺縁系はゴリラのような高度な知能を持った動物以外でも ネズミでもクマでもネコでもさしたる違いはないという

ヒトが有意に異なるのは 大脳の容積だけで 辺縁系自体は他の動物とは違いがない

ヒトは基本的に野生動物と同じ脳の構造を持っているのである

 

ゴリラはヒトと同様に生物学的な「社会性」を持っている

この生物学的な「社会性」とは 先天的な本能として条件反射的に統率服従による協調行動や役割分担を促す「習性」である

振り込め詐欺は統率的な協調行動によって 高度な役割分担を行い 巧みに詐欺技術を高度化させることができる

イヌ科の動物の中には集団統率的協調行動によって より高度な狩りを行うことができる種もいる

軍隊というのは ヒトの先天的な統率協調性を利用することで兵隊が上官の命令に絶対服従するよう「学習」させることで 戦争のようなクソしょうもない暴力破壊行為にも便利に利用することが可能なのである

この場合における「学習」というのは AIの機械学習のような「刷り込み学習」であって 頭が良くなるわけではなく むしろ自発的自律的には何も考えずに条件反射的に命令に服従するよう「学習」しているのであって これはいわば「バカになるため」の学習である

兵隊というのは訓練による「学習」によって 命令が間違っているかどうかなど一切自発的には検証することなく 唯々諾々と従うようになる

なぜ自発的自律的に何も考えなくなるのかと言えば それは先天的に誰かの命令に忠誠忠実に従うことが快楽となる行動バイアスが組み込まれているためである

誰かに従うことで快楽を感じ それによって統率的な協調行動が促される「仕組み」が先天的にあるため

ヒトに限らず生物学的な「社会性」を持った生物は統率的協調性を発揮することができるのである

こうした生物学的な「社会性」というものは 大脳も何もない極めて単純な脳しか持たないハチやシロアリなどの昆虫でも発揮されるものであって 進化の過程で偶発的に獲得されることが可能なものである

そもそも遺伝的進化に基づいた行動習性というものはあくまで結果的に死なずに生存していた個体種において残った習性であり 生存にとって有利で死なないような行動習性を持った個体種が全て死滅したという結果的必然性でしかない

そこには別に「目的」がないのである

あらゆる行動習性には「目的」がないので 統率的協調行動バイアスである生物学的な「社会性」であっても イジメや詐欺や戦争や暴動でも発揮されるものでもある

イジメを行う際にも統率的協調性が発揮され 極めて高度で悪質なイジメへとエスカレートする傾向がある

何せ先天的に統率協調行動を行うことが快楽として組み込まれているため エスカレートすることはあっても抑制はほとんど効かない

アブグレイブ収容所における虐待も同じである

スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験 通称「アイヒマン実験」においても ヒトは命令された通りに他人に危害を加え

アメリカの大学で行われた「監獄実験」という心理学実験では 権威による命令がなくても 被験者は実験だと認識していながらも虐待が生じたのである

これらの残虐行為というのは ヒトの先天的な社会形成習性によって促された 本能の暴走に他ならない

虐待などの暴力は何の合理性にも利益にもならない

統合的視点から考えれば 虐待や差別のある社会では生きてゆくのに価値がないことを認識し それらがない社会を本当は誰もが望んでいるのである

それを望まないバカがいるのは 何も「考え」ていないからである

自分が体力的に有利な時に 体力的に劣っている相手から略奪暴力をしていれば 自分の体力が劣った時には略奪や暴力を受けることになることがわかっていれば どのような社会であるべきかを理解認識し それに則った行動を選択することが可能となる

「社会環境が悪いから無責任な行動を採る」というのでは その環境を誰が整える義務があると言えるのであろうか

社会というのは個人の集合であり 社会環境というのは個人の行動選択によって作られるものである

従って 個人が自律的に社会的責任を負わなければ社会環境が良くなることはない

日本ではあまり見られないのだが 海外ではデモに乗じた暴動や略奪が良く見られる

デモが起きている「環境」では ヒトの何割かが無責任に暴動や略奪を引き起こす性質が普遍的に見られるのである

通信の秘密が保証されている国では 電話を使った詐欺の温床になる これも「環境」に依存した結果である

騙し合いや奪い合いが横行している社会など 本当は誰も望んではいないのだが 目先の利益に意識を奪われ統合的な理想を「考えた」ことのないバカは平気で他人を騙すことができるようになるのである

若者達がなぜ詐欺に加担してしまうのか それは自分達が大人から騙されて育ったことへの報復でもある

奨学金と称して数百万もの借金をさせられ 「叡智界」などという糞の役にも立たない嘘を「哲学」だと教え込まれ 格差や貧困に苦しめられていても誰も助けてくれない非情な社会環境で育てば 「他人を騙してでも金を奪わなければ損だ」という発想に陥っても何の不思議でもない

しかも 犯罪者には罰を与えて「解決」にされ 原因も再発防止策も講じられない無責任な社会制度が放置されているのである

子供は大人の鏡である 大人が無責任な社会に何の疑問も持たなければ 子供も何の疑問も持たなくなり 環境に応じた条件反射的行動にしか陥ることはない

何が嘘で 何が本当のことなのかを区別するのは感情ではなく客観的論理検証性である

客観的論理検証性(理性)という人間としての意識なくして人間としての「心」も機能することはない

 

ゴリラ社会では ボスの威厳に服従する形でしか統率を得ることが出来ない

ボスが「ハッタリ」をかまして威圧することによってのみ 集団内部での紛争を回避できるのである

それは ヤクザがヤクザのボスの威圧(ハッタリ)に頼って統率するのと同じ構造であり 恐怖心を用いた封建的統率である

ゴリラは非常に凶暴な野生生物である

だが なだめすかしてゴリラに恐怖心を与えないよう近づくことは可能である

それは ヤクザと話を丸めて取材するのと同じようなものであって どんなにゴリラやヤクザと仲良くなれても ゴリラやヤクザの危険性の反証になるわけではない

そもそもゴリラは生息数が限られており 決して生物的に環境適応能力が高いわけでもなく 何ら生物として優れていることの論証にはならない

どんなに山極寿一が主観的にゴリラを正当化しても ゴリラの人間性や生物的有意性の論証には全くならない

ゴリラ社会の常識というのは ヤクザ社会の常識同様に封建的で差別に満ちた下剋上の社会であり ボスが何らかの形でいなくなった途端に内部で暴力的な権力争いが生じるのである

これはヤクザと同じものである

昭和天皇が太平洋戦争を回避出来なかったのも 陸軍の一部将校による下剋上が大きな要因だったと昭和天皇は懐述し戦後に激しく悔いている

戦争に邁進している間だけは かりそめの統率的協調性を発揮していたからこそ 破綻するまで暴走したのである

戦争中の日本は暴走に向かって体制は安定していたのである

北朝鮮における独裁も 軍部の強行な姿勢にとって都合の良い人選によって より暴力的な指導者がまつりあげられている結果であり 軍隊というのはヤクザ同様 より威圧的な相手に服従することで気分的な安心を得ることを安全保障か何かと何違いしているからである

北朝鮮も金正恩の統率下では安定した体制が維持できるのも 自分達が暴走破綻に向かっている可能性を客観的に検証出来ないからである

暴走に歯止めがかからないのは 気分的に安心だからであり 先天的に促される感情が原因である

イジメをやっている時 やっている者の脳は安心に満ちている

仲間と協調的に同じ相手を攻撃していれば気分的に安心できるからである

その行為全体客観的に見て 自発的に検証するという 人間としての意識が働かないから暴力行為が正当化されてしまうのである

人間としての「心」とは 環境に依存した感情によって促される主観的な行動バイアスという無意識によって発揮されるものではなく

あくまで徹底した客観的な論理検証(人間としての意識)によってのみ発揮されるものを指すのである

梅沢富美男的に「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らしていることに同調して炎上しているのは イヌが統率協調的に狩りをしているのと同じようなものである

それは主観的には安心なのであろうが 社会安全性に対しては害しか及ぼさない

本当に深く熟慮すれば 東池袋プリウス暴走事故遺族の松永莉子パパのように「再発防止を優先して欲しい」と願うようになるのである

その どちらが本当に「人間としての心」だと言えるであろうか

「死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らすことよりも 「私のように苦しむ人が もう誰も出てこない社会を望む」ことの方が「人間としての心」であろうことは 何ら疑う余地はない

目先の気分 主観的感情を満足させることだけを「心」だと 「思って」いるのは主観である

ヒトは基本的に動物であるため 客観的論理検よりも 目先の主観的感情の強度程度が促す行動バイアスの方に流されがちである

哲学とは 本来主観的感情が促す動物的バイアスに惑わされずに 客観的に真実を見極めるためのものである

真理というのは安全性にとって最も大事なものであり 社会というのは安全性が最も重要だからこそ ただの文芸文学と哲学とを明確に区別する必要性がある

客観的根拠のない妖怪悪霊を信じ込んでいたのでは疫病対策には全くならない

「叡智界」などというお伽話で満足することは文学芸術の分野の領域であって それでどんなに主観的に満足しても安全性にとっては何の役にも立ちはしないばかりか そんな話を「哲学」だと錯覚していれば それは合法的な詐欺も同然である

 

「哲学だ」と言い張れば 何を言っても許されると勘違いしているバカが多すぎる

客観的論理検証を伴わなければ あらゆる「理論」は意味を為さず 全ては目先の感情の多数決だけで暴走を引き起こすだけである

現状の哲学界や生物学界が安定した体制を維持できているのは その内部が封建的で差別的で「開かれて」いないからである

だから論理反証も無視される

4億5千万円も横領したアニメ会社の社長が「納税したから良いだろ」などという開き直りで済んでいるのは 組織内部が封建的で開かれていないからである

特定の誰かにとって利益になる行動を集団組織的に行っていれば 特定個人だけが得をするのは必然的結果であり 格差が起きる原因というのもヒトの先天的な「社会性(統率的協調行動バイアス)」が働いているからである

 

先天的行動バイアスという無意識が 特定の条件下において有益性が立証されたとしても 先天的行動バイアスの全てが常にあらゆる条件下で有益な結果をもたらすことの論理的証明にはならない

自然に起こった進化というものは 環境などによっては都合よく利用することも可能だが 環境などが異なれば暴走破綻の原因になる危険性をはらんでいるのである

生物学者というのは自然を頭ごなしに賛美したがるが 自然というのは時に危険で過酷で凶暴なものでもある

主観的に「自然は美しい」と「思った」からといって 自然に起きたことの全てを事後正当化するための「こじつけ」をしていたのでは科学を逸脱している

主観は人それぞれであって 小学生のノートに昆虫の写真が掲載されていることに嫌悪する親もいるくらいである まあ 写真が若干ギラついていて硬調なのも原因かも知れないが

きれいなアゲハチョウでも嫌がる人はいるものである

山極寿一がゴリラを主観的に美しいと「思った」からといって 何でも正当化して良いことの理由には全くならない

客観的論理検証という「考え」が伴わないから科学を逸脱するのである

こんな基本的なこと わざわざ私が言わなきゃいけないことかね?

 

 

Ende;

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炎上案件

2020年06月03日 12時56分00秒 | 日記

「鬼滅の刃」などの人気アニメを制作していた会社の社長が 関連するカフェの売上をちょろまかして4億6400万円の所得を隠して1億4000万円の脱税で告発された

いやまて

店の売上をちょろまかしたんだから業務上横領(泥棒)だろ

脱税で済む話か?

刑事告発されないわけないだろ

しかも「より良い作品作りをしてまいります」だとか言ってやがる

社長を続けるつもり?

嘘だろ

なんだこの国

追徴課税された残りはどうなるの

まさか社長のフトコロに入るわけじゃなかろうて

会社に戻したとしても横領して自分の家に3億円溜め込んでた事実が許されるわけないだろ

ネット上で大炎上しろよ

炎上するべき相手を選べよ

二度と会社経営なんぞできないようにしろよ

そんな雑な経営でも許されんなら誰でも良いだろ

それとも何? 経営者って不逮捕特権でもあんの?

納得いかないわー

 

Ende;

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決めつけ

2020年06月02日 22時35分33秒 | 意識論関連

養老孟司はこう述べたことがある

「ヒトは今まで実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけてきた ヒトとはそういうものであると私は考える」

この言説には嘘がある

「私は考える」と養老は述べたが 論理的根拠が一切示されておらず これは「考え」ではなく養老の勝手な決めつけに過ぎず

実証不能の観念そのものに他ならない

これはNHKの室山哲也が「人類は絶滅します」と根拠も示さず勝手に決めつけたのと同じものであり 到底科学的検証に基づいた結論とは言えない

養老の言説というのは こうした根拠のない身勝手な言説が非常に多く 到底「科学の玄人」とは言えないバカの癖に 他人にツッコミを入れられると「これだから科学の素人は困る」などと蔑み 一方的に話をはぐらかすのである

これは科学を装ったただのオカルトペテンに過ぎないのだが 大衆の多くは内容を誰も論理的に検証せず マスコミも大衆人気や著作の販売部数や儲かった金額だけを根拠に「科学的に正しい内容である」と勝手に勘違い妄想したまま 間違いを誰も正さないというバカのスパイラルに陥っているのである

 

「ヒトとはそういうものである」などと言えば あたかも運命論的に不可避で それ以外の選択の不可能性の論証であるかのような錯覚を促すが

それこそが自律的に論理検証が出来ないバカ特有の「鵜呑み」であり 錯覚を用いた洗脳なのである

こうした科学や哲学を装ったペテンというのは 何も養老孟司に限ったことではなく マイケル:サンデルもマルクス:ガブリエルもフリードリヒ:ニーチェもイマヌエル:カントも同じ構造で人々を洗脳するのである

カントの純粋理性批判というのは その理屈を本当は誰も理解などしていない

それはオウム真理教教祖の麻原彰晃の言説と同じで 本当は論理的には何の根拠も証明も論じてなどいないのである

訳のわからぬ話で相手の脳を撹乱した後に 「叡智界」などという何の根拠もありゃしない勝手な決めつけを持ち出し 大衆の脳を酔わせて満足させ 人気を得る

多数から人気があり 主観的に「好き」な相手の言うことに対し ヒトという種の生物は疑うことをしなくなる習性がある

疑うことをしないのは 進化的に統率服従による協調行動を採るのに都合が良いために 先天的な行動習性として組み込まれたものである

先天的な統率協調行動というのはヒトに限った習性ではなく ハダカデバネズミでもイヌでも それこそ条件反射しかしないハチやシロアリでも発揮する習性であり ヒトがヒトになる以前から進化的に組み込まれてきた行動習性である

行動習性というのは環境依存的な条件反射行動であり
特定環境さえ整えれば常に発揮されるが 他の条件で発揮される保証はない

ヒトやチンパンジーが特定環境下において利他的行動を採ることを どんなにたくさん「立証」しても それによって「ヒトとは常に利他的行動しか採らないことの論証」には全くならないのである

つまり 先天的行動習性という条件反射的な行動バイアスというのは 環境に左右される運命論的行動しか促さないものであり 本質的な自発的行動選択とは全く別次元の動物的な無意識に過ぎない

人間性や倫理の本質というのは 環境に左右されずに個人が自律的に社会的責任を負う必要性があり 動物的な先天的習性で立証することは 最初から構造原理的に不可能性が論理証明されているのである

にも関わらず 松沢哲郎は「先天的本能習性から人間性が立証できるかも知れない」などという根拠のない仮説で大衆人気を得て しかもそれが文化功労賞受賞にまでなったのである

これをペテンと言わずに何と言うのであろうか

 

軍隊というのは 兵隊というのは 上官に対して絶対服従するよう訓練させられる

上官の命令であれば 決して自律的に検証などせず 命令通りに唯々諾々と服従するよう「学習」させられることで 大量殺戮にも便利に使えるようになるのである

ヒトという種の生物は 先天的な統率協調性(生物学上における「社会性」)を持っているため こうしたバカを大量生産すれば 戦争などというバカげたことでも便利に利用できる習性を持っているのである

ヒトという種の生物は 自律的に物事を判断することを嫌がり 権威や上官の判断に唯々諾々と服従することで 判断責任を丸投げできるものであると「思って」いるのである

「思って」いるのは主観的感覚である

論理的根拠は何もない

ナチスによるユダヤ人絶滅計画において より効率よくユダヤ人を殺害するための計画書の作成に邁進したアドルフ:アイヒマンは 戦後国際法廷において「自分は体制に忠誠忠実な吏官に過ぎない」と主張した

ヒトというのは権威や体制に対して忠誠忠実に服従しておきさえすれば 安心して残虐な行為であっても責任を他人に丸投げできるものであると錯覚する習性がある

感覚的には それが「安心」で「満足」なのである

スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験によって ヒトには普遍的にこうした行動習性があることが立証されており 実験においては大多数のヒトが権威の命令に逆らうことなく他人に危害を加えるようになった

ミルグラムの論文を読んだヒトの中には 「それでも権威に服従しない社会は崩壊する」などと言い出す者もいた

ミルグラムの服従心理実験の結論というのは あくまで「権威に無為に服従するだけで自律的に物事を判断しないと重大な失態に陥ることがある」という内容であるにも関わらず 論理的根拠も示さずに「権威に服従しないと社会は崩壊する」などと決めつけて思考停止するバカも少なくはない

権威に服従しておけば 主観的感覚として安心が得られることを 短絡的に論理客観的根拠か何かと勝手に勘違いしているから 論理的根拠も示さずに身勝手な決めつけもできるようになるのである

こういった決めつけをしているヒトというのは 自信だけはタップリある

何せ気分が優先しているために論理客観的証拠や根拠なんぞなくても「安心」して主張しているからである

バカというのは自分の主観的感覚を絶対だと信じて疑わないからバカが治らない

何せバカは自分がバカである自覚がないからどうにもならない

 

Ende;

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洗脳

2020年06月02日 12時52分36秒 | 意識論関連

人智や理性を超越しちゃった「叡智」なる実証不能の観念に基づき 「人間(ヒト)は叡智界に属している」などという論理的根拠のない訳のわからぬオカルト観念を言い出した時点でイマヌエル:カントは哲学を逸脱している

ヒトの多く 文科系大衆やマスコミの大多数は哲学というものを 主観的に気分が良くなる「好きな」話で満足することだと勝手に勘違いし 論理的根拠も示されない実証不能の観念であっても鵜呑みにして有難がる習性がある

これはヒトという種の生物の先天的欠陥である

哲学は「答えが出なくても良い」とか「役に立たなくても良い」からといって 論理的根拠も示されない実証不能の観念を盲目的に信じ込み 何が間違っているのかを一切考えなくなることは哲学ではない

基礎科学においても 砂漠の真ん中で一日中穴掘りしてトカゲ一匹見つからなかったとしても 「見つからなかったからこの砂漠には絶対にいない」などという勝手な妄念的決めつけをして良いわけではない

探し方が悪かったのか たまたまいる場所に辿り着かなかっただけなのかは 「わからない」というのが科学的な検証である

「わからない」ことは「わからない」として保留しておく姿勢が科学や哲学には必要であり 勝手な主観的感覚に基づいて「わかった」と思い込むことは科学や哲学からの逸脱でしかない

ましてや論理的には理解不可能な話を盲目的に信じ込み 主観的気分を満足させて思考検証を放棄することは ただのオカルト洗脳でしかない

養老孟司はこう述べたことがある

「わからないなら わからないなりに わかったとする そういうわかりかたもあるのかと 思って頂けれればさいわいである」

こういう科学を逸脱した意味不明な観念の方が大衆には人気が得られるのである

人気とは 主観的な「好き」の多数決である

ヒトは主観的に気分が良くなる「好き」な話を聞くと 相手の言うことを盲目的に信じ込み 疑うことや論理的に検証することを全くしなくなる習性がある

カントの講義も学生から人気があったそうだ

マイケル:サンデルの講義もバカな学生共からは大人気である

カール:ライムンド:ポパーの講義に人気があったという話はない

キェルケゴールやサルトルの著作も人気はない

気分が良くならないからである

大衆人気が得られるのはフリードリヒ:ニーチェなどの主観的観念ばかりである

別に「大衆人気があったら哲学ではない」ことの論証にはならないが 「多数人気があれば論理的に正しい」ことの証明にはならないことは明確に言えるのである

 

「ヒトは先天的に理性や人智を超越した叡智なる凄い能力を持っている」などというオカルト話を聞くと ヒトの多くは「自分は生まれながらに優秀な存在なんだな」と勝手に勘違いし 「全てを知覚可能」だと全能感に溺れて思考を停止させている頭の悪さは認識できなくなる

養老孟司はこうも述べたことがある

「教えてもらってないことは わからないじゃないですか」

多くの人が理解可能な話であるならば それは理解可能な人の誰が思いついてもおかしくはないのである

教えてもらわなくても自分の頭で考えればわかることを 「教えてもらっていない」ことを根拠に「絶対にわからない」かのように言い張るのは 自分では何も考えていないバカの主張である

哲学とは 「考える」ことである

「考える」とは あくまで論理的根拠に基づいて検証することであって 論理的根拠をすっ飛ばした意味不明な話で満足して盲目的に鵜呑みにすることは哲学ではない

主観的に「信じたい」ことをどんなに主張しても それは客観的論理検証にはならない

 

客観性とは言っても 所詮はヒトの主観から導き出されたものであることに違いはないが 論理的根拠のない感覚的観念と 論理的根拠を伴った理論は区別が可能である

可能ではあるが バカはこれができない

できない奴をバカと言う

どんなに学力成績が良くても バカは間違ったことを教えられても間違いに気付くことは出来ない

だから「叡智界」などという意味不明なオカルト話も鵜呑みにできるのである

自らの頭の悪さを認識しなければ 頭の悪さから脱却することはできない

頭が良くなるというのは オカルト話を鵜呑みにして満足している自分の頭の悪さに気付くことで オカルトや錯覚に惑わされずに客観的論理検証によって真理(本当のこと)と そうでないものを区別することが可能となるのである

自らの頭の悪さを自覚することは 気分の良いことではない

気分的にいくら落ち込んでも 頭が良くなるわけではなく 主観的気分をも客観的には意味がないことを理解し 同じ過ち間違いに陥らないようにするためには主観的感覚を一度棚上げにして 徹頭徹尾論理客観的検証に徹する必要性がある

「自分の間違いを自覚すると 気分が悪くなる」というシーケンス(条件反射)も含めてのヒトの先天的な欠陥なのである

生物の生存価の観点からは 別に論理客観的検証ができなくても死にはしない

猫が鏡に映る自分の姿に威嚇し続けても 生存にとってはさしたる障害にはならないのと同じようなものである

身体障害者を虐殺した男を「こんな奴は死刑にしちまえ!」と怒鳴り散らして大衆人気を得 論理的原因究明や再発防止を放棄していても 梅沢富美男は死にはしないばかりか むしろ金儲けに成功するのである

個体の生存価に基づけば バカでも死にはしないが 社会的責任のある人間としては機能しない

世の中にはバカは多い

バカが大半だからこそ 叡智界などという糞の役にも立たないことが証明されているオカルト話が哲学扱いされ続けているのである

マイケル:サンデルは トロッコ問題などという制限をその場で追加し続けて答えが出せないように誘導する「サンデル命題」で聴衆を「悩ましい」気分にさせることで 「悩ましい」気分と論理的に検証した「考え」の区別が出来ないバカ学生に「自分は深く物事を考えたから 頭が良くなった」という錯覚を与えて満足させることで人気を得る

サンデルが提供している命題の制限の中だけでしか「悩んで」いないにも関わらず その思考の薄っぺらなことには自覚出来ず 気分的に「深く考えた」と勝手に勘違いし満足する

これはオウム真理教の洗脳の構造と全く同じものである

本当は何も「考え」てなどいないのに 勝手に「自分は頭が良くなった」と勘違い錯覚することで サンデルや麻原彰晃を主観的に好きになり 疑うことや検証することを一切しなくなることで洗脳が成立するのである

イマヌエル:カントの純粋理性批判というのは 話が複雑でややこしいため 読者は「理解できないのは自分の理解能力が低いからだ」と諦めてしまうのだが 実際には最初から論理的理解など不可能な実証不能の観念への誘導に過ぎず それでバカ学生から人気を得るための大衆迎合に過ぎないのである

麻原彰晃の話も 多くの幹部や信者は理解していない していないからこそ教祖に判断を丸投げして盲目になるのである

もはや自分では判断できない

洗脳状態に陥ると「個人が自律的に社会的責任を負う」ことができなくなるのである

だから都営三田線にサリンを撒き散らすこともできるようになり それが「人類の救済」だと信じて疑うことがない

純粋理性批判の中に出てくる「叡智界」などというオカルト観念すらも信じておけば 大衆の多くはバカなマスコミ関係者達は哲学だと勝手に勘違いして間違いに気づかない

論理的に間違っていて 論理的根拠も何もなく 応用も利用も不可能なことが論理的に証明されている概念を鵜呑みにすることは哲学ではない

それは「何も考えていない」からである

 

Ende;

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叡智界

2020年06月02日 01時09分00秒 | 意識論関連

【叡智界】〔ラテン mundus intellegibilis〕

〘哲〙 人間の経験的な知覚においては与えられず、ただ思惟や精神的直観によってのみ把握される超感覚的な世界。可想界。 ⇔ 感性界Wiblio辞典

「叡智」の説明でこんなのもあったな

「理性や人智を超越した叡智」とか言うの

論理的に理解不可能で人智を超越した何かってヒトが利用応用できんのかい?

説明や理解が不可能なら「実証不能の観念」でしかないだろ

「人間(ヒト)は純粋統覚を通して叡知界に属していたのである。」

何でこんなオカルトが哲学扱いされてんのか意味がわからん

今の哲学界ってこんなオカルトだらけなのに 奨学金を借金してまで教え込まれるのは詐欺でしかないだろ

未だの西研みたいなバカが哲学権威扱いなのは異常だよ

「東京医科大学が入試不正をしていた期間からすると被害者は少なくとも2万人以上」とされる -Wikipedia

これが東京医科大学の「叡智」の実態である

物理工学系研究者がツッコミ入れないと 組織腐敗は治らんぞ

野井良治みたいなボケジジイじゃ使い物にならん

 

Ende;

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現選択可能性

2020年06月02日 00時20分19秒 | 意識論関連

全てが因果律に則っているのであれば ヒトの認識には自由など存在しないのではないか

この問いに対しては 量子レベルにまで細分化すれば全ては運命論だと言っても構わないかも知れないが

量子の数はトンデモナイ数であり 予測は不可能である

そもそも 「それを予測しようとする」行為自体も運命論に基づくものであるならば 「何のために予測しようとするのか」という目的意識も運命論だということになるが 目的意識自体は運命ではない

論理客観的に検証することによる厳密な目的行動選択が可能であり 逆に論理客観的検証をしなければ事故の原因もわからず因果に従い同じような事故が何度も起きるのである

原因がわからず再発防止対策が全くされなければ 何度でも同じ原因で事故は起きる これは因果律であり 運命任せである

しかし こうした無為な危険性の放置から脱却し 危険性を放置しないという目的意識(客観的論理検証)によって 因果や運命を意図的に変えることが可能なのである

その「選択」不可能性の反証はない

なぜなら 危険工学では実際やっているからだ

強いて言うなら「刑罰で満足する執着(中毒)をやめたくない」という主観的感覚だけであろう

 

「起こったことの全ては必然である」と称して 自分の行動までをも運命論にしたがるのは通り魔(バカ)の常套句である

自分からは何の論理検証も目的意識も持たずに 全ては「他人から教えられなければわからない」と述べるのがバカの論法である

自分で考え 気付くことができる能力を放棄し 無責任に他人任せにすることは 人間としての倫理に反する行為である

学力偏差値だのクイズの正解率には執着するくせに 自分からは自律的に論理検証し 自律的に「何が本当に正しいのか」を一切判断しないバカが多すぎる

だから間違った内容を教え込まれても 誰も間違いに気づかないのである

これを「バカ」と言う以外に何かあんなら教えてくれ

 

Ende;

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西 研(東京医科大学教授) またコイツか

2020年06月01日 23時44分13秒 | 意識論関連

エマヌエル:カント

認識主体で構成される世界を「現象界」 人間が決して経験できない世界そのものを「物自体」と呼んで認識能力が扱える範囲外に位置づけることで難問を解決しようとするのだ

 -地上波デジタル放送番組表 番組説明より抜粋

認識の仕組みを研究したのが純粋理性批判

何を知り得て 何を知り得ないのか

「人間らしく思考」

近代哲学の2大難問

西 研 読み方は「にし けん」

ゾロアスター(ツァラトゥストラ)の回もコイツだったよ

純粋理性とは「人間に元々備わっている認識の能力」

「全てが因果律に従っているのであれば自由はないのではないか」

 

イギリス経験論

大陸合理論 先天的に論理的知覚能力が備わっている イデア論的なもんか?

物心問題 心は物から出来ているのか

主観と客観

客観的に存在するものを「物自体」

コペルニクス的転回(自画自賛も甚だしい 単なるカントの勝手な妄想でしかない)

先天的なはずすことの出来ないVRゴーグルのようなもので世界を見ている

認識可能な範囲内でしか認識できず 客観的「物自体」を全て認識することはできない

「共有できるもの=客観」(客観的根拠がなくても共有することがあるからこそ オカルト暴走も起きるのであり これもカントの勝手な妄想である)

ヒトの共通規格

二段階の認識能力 悟性 感性

感性 直感 観念や判断を作り出す能力を悟性

悟性 判断する能力

共有できるところ

 

「ヒトは客観的事実を共有できるのか」 できなかったからガリレオを火炙りにしようとしたのであり カントは錯覚という認識の欠陥が考慮に入っていない

ヒトは時に著しい認識の欠陥によって実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけることがある

そして それは多数のヒトによって共有されることで大量虐殺に至ることもある

純粋理性批判という著作は 「自分の認識には欠陥や誤謬はないと錯覚できる」ため大衆から人気があるのだろう

理論が難解だと 論理の飛躍や欠損を認識できなくなる習性がヒトにはある

意味もわからず有難がり まるで万能の理論であるかのように錯覚する

その上自己の先天的欠陥が無視できるような快感に基づく錯覚によって 主観的に「好き」になり 盲目的に信じ込み 誰も間違いに気付くことができなくなるのである

これは養老孟司やマイケル:サンデルやカルト宗教における洗脳の基本構造でもある

 

要するにカントの純粋理性批判というのは 論理的に理解出来ないのではなく そもそも論理的に間違っているため理解できないのであり

理解出来ない故に間違いを誰も指摘できず

しかも 論理的には理解していないにも関わらず多くのヒトが主観的に「好き」という感覚を促すことで盲目的に信じ込むようになるのである

「悟性」などという分類は応用性が何もなく カントの勝手な妄想観念にしかなっていない

ヒトという種の生物は 主観的感覚として「好き」になった話や相手を盲目的に信じ込む習性があり この先天的習性によってヒトは簡単に洗脳に陥るのである

 

そもそも 大脳辺縁系を損傷した人は決して利己的行動などしないことからも 純粋理性批判が間違っていることの証明である

いちいち論理反証などしなくても 最初から論として成立していないのである

そんくらい気づけ

バカ共が

世の中の間違いなんていうのは無数にあり そのいちいちを私1人で訂正反論するわけにはいかない

俺はキリストでも釈迦でもないので この世のバカのいちいちに噛んで含めるように説明する気はないし そんなこと俺1人でできるわけもない

少しは自分の頭で論理的に検証してみろよ

大脳容積自体にほとんど違いなんぞねぇんだからよ

クソめんどくせー

何だこの不毛な時間

誰か補償してくれ

 

Ende;

コメント
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