NASA公開の“天体投入ゲーム”が混沌。ブラウザで遊べる、天体物理学に基づく星系づくり -Automaton-Media.com
残念ながら画面横幅解像度が800の端末だと右端が表示されない
以前にこんなのこさえたことある
http://srand4000.seesaa.net/article/479748446.html
右カーソルキーで加速し 左カーソルキーで減速する
「Recording」ボタンを押すと軌跡が表示される
画面全体に下向きの重力が働いていて 中央には一切動かない重力天体的なものが固定された 現実には存在しない謎の重力場を永遠に動き続ける白い玉
重力場が謎なので 謎の安定軌道に落ちることもある
こっちはカーソルキーで射出速度が変わる
ゲームみたいに得点を稼ぐ機能はなくて ただ動きを面白がるだけのJavaScriot
インスタレーション的なもんだな
Ende;
「人は褒めるとダメになる」自ら成長する子を育てる親が褒める代わりにしている"最強の声かけ" -PresidentOnline
「自己肯定感」だとか「自己存在感」だとか 表現はどうあれ主体性が自律的な社会的責任判断選択の源ともなるし 親から大切にされて育った人は他人にも優しい
Ende;
↗ポリヴェーガル理論 -ルークス芦屋クリニック
性的被害を受けた時などに「怖くなって力が入らず 動けなくなる」ことがあるという
痴漢に触られている時に拒否できなくなるのは こうした神経の働きによるものだそうで
誰かが助けないと本人だけではどうにもならないらしい
進化の過程において 男から性交渉を強要された時に抵抗できない女性の方が結果的に繁殖しやすく そうした遺伝子の方が拡がりやすかったのかも知れない
襲う側には都合が良いが 襲われる側の都合は遺伝的要素に影響しなかったことになる
遺伝的進化というのは そういう理不尽さも伴うものであり 決して万能ではない
Ende;
最高裁判所第2小法廷の菅野博之裁判長は「現実に発生した地震は長期評価に基づいて想定される地震よりはるかに規模が大きかった。津波も試算より規模が大きく、到来した方角も異なり、仮に国が東京電力に必要な措置を命じていたとしても大量の海水の浸入は避けられなかった可能性が高い」と述べ、原発事故について国の責任はなかったとする判断を示しました。
検察官出身の三浦守裁判官は反対意見を付けた。
⇨国の責任が全くないという判決は ちょっとおかしくないかな
◇
大阪地方裁判所の土井文美 裁判長は「婚姻は、男女から成ることを想定したもので異性間のみを指し、同性間を含むものではない」として、婚姻の自由を定めた憲法には違反しないという判断を示しました。
⇨違憲ではないという判断も可能なんだろうけども 問題が憲法の方にあると「逃げ」たと言われても致し方ないだろうな
Ende;
家の近くの路上に600円落ちてたんだが
500円玉と100円玉だったので 落としたら音がするからわかりそうなもんだが
拾得物の届け出すんのって警察署まで行かないといけなくて
この糞暑いのに面倒くさいと思って近くの塀の上に載せておいた
子供が見つけて持ってくだろうと思う
Ende;
絆や共感性というものは 暴力団だの半グレだの暴走族や振り込め詐欺の内部でも働くものであり
日本大学田中英寿体制やプーチン政権においても その内部では絆だの共感といったものが働いているのである
イジメやヘイトスピーチに便乗する大多数のバカにおいても 共感性によって誹謗中傷が暴走を加速させているのである
共感される「数」だけなら SNS上の「いいね」の数欲しさに無意味な虚飾に中毒になることもある
同調圧力というものも 結局は共感性に因るものであり 共感さえしておけば人間性が発揮されるなどという短絡安易なものではない
多数で共感したり 「絆」を感じれば 主観的には安心満足感が得られる習性がヒトという種の生物には先天的にあるものの
それはあくまで主観的感覚に因るものであって 何に共感するかの選択に自律的な社会的責任判断選択が伴わなければ人間としての行動にはならない
衆愚迎合的に 大多数の衆愚が気分的安心満足できるような話でもしておけば それは「共感性」として働くであろうが 衆愚がいくら多数と共感共鳴して「絆」を主観的に「感じ」ても その内容が論理客観的根拠に基づいた真理であることの論拠にはならない
梅沢富美男が相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件の植松聖に対して「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と主張したことに対して どんなに多数が同調共感しようが 死刑などの刑罰が無差別殺人の原因究明や再発防止にはならないのである
「科学は多数決ではない」のと同様に 真理もまた「数」では見極められるものではない
ナチス政権下のドイツにおいては ナチス政権こそが正義だと多数決(民主)的に選出されたのであって 主観的気分としての安心満足感は安全性の論拠にはならない
共感性だの「絆」などというのは あくまで主観的安心満足感による感覚的なものに過ぎず 普遍的な人間性の論拠にはならない
暴走族同士がどんなに共感共鳴しようとも それが人間性の論拠にはならないのであり 集団規模による多数の共感共鳴によってむしろ暴走行為を安心して出来るようにもなるのである
共感共鳴だの「絆」というのは あくまで主観的安心満足感に過ぎず 人間性の論証には全くならない
「自分のことを大切に思ってくれる誰か」の存在も不要である
自己が主体的に生きていないからこそ 他人からの承認のようなものを必要とするのであって 誰も自分のことを大切だとは思わないとしても 主体的に自律的な社会的責任判断選択ができれば他人は必要がないのである
日本大学田中英寿体制の中では 田中に異議を唱えて左遷されてしまえば 仲間内からは「アイツはバカだ」とバカにされていただろう
ロシアのプーチン政権下においては 国営放送で反戦を主張したアナウンサーを「アイツはバカだ」とくさした視聴者もいた
東京電力福島第一原子力発電所において 原発の津波に対する脆弱性を主張して上司から嫌われれば 「アイツはバカだ」と言われただろう 「津波の危険性を考慮に入れたら 日本のどこにも原発など作れない」と言われれば 大多数の社員はそれを鵜呑みにし 組織の利益を優先して個人が自律的な社会的責任など取ろうとはしなかった
東京電力福島第一原子力発電所の中では 無責任なバカだけが上司から「大切に思われて」いたのである
それでは 原発の津波に対する脆弱性を主張したら 社外の誰かから「大切に思って」もらえただろうか?
そんなことは絶対にない
世の中「絶対など存在しない」と言われているが ヒトが素手で宇宙空間に放り出されて生き延びることが出来ないのと同じくらい絶対である
東電社内において 誰も自律的な社会的責任判断をしないという「多数」を論拠に 社内の多数で共感共鳴する形で原発の津波に対する脆弱性は傍観放置されたのである
「共感性」や「絆」といった「数」に対する同調迎合性を人間性だとすり替え錯覚しておいて 無差別殺人などの犯罪を含むあらゆる無責任な「人災」の根源的原因を見極めることはできない
自分の主観的感覚を絶対的な人間性か何かだと倒錯しているからこそ 無責任な犯罪者の倒錯の温床ともなってしまうのである
「自分だけは絶対に間違えない」という倒錯をしておいて 犯罪者の倒錯を批難しても 「バカがバカをくさしている」だけにしかならない
主観的感覚そのものは 自分の遺伝子を選択不可能である時点であらゆる本能情動感情も選択不可能であり 自分が育った環境としての社会や時代から受けたあらゆる「正解データ(常識)」もまた選択不可能である
しかし ヒトは自分の頭で物事を論理客観的に検証し 考え 主観的情動に惑わされずに真理を見極めることは不可能ではない
それは必ずしも簡単ではないかも知れないが 「難しいからやらなくても良い」というものでもないのである
学生にばかり学力偏差値競争を押し付け 若い人達の労働力を買い叩き 潰し合い競争を強要しておいて 自分達だけは「難しいからやりたくない」と言い出すのは もはや犯罪レベルの身勝手なワガママである
Ende;
いや それは個人的に好きなことだから認知機能が向上するんであって 「バイクだから良い」というわけではないぞ
虫採りが好きな人なら虫採りで認知機能が向上するし
お菓子作りが好きな人ならお菓子作りで認知機能が向上する
人それぞれ集中して熱中して夢中になれることは違う
逆に言うと 他人からの見た目ばかりに執着して 本当に自分が好きなことがわからない奴は外見的な格好良さに倒錯して暴走族になることもあるので
「バイクに乗れば認知機能が必ず向上する」というものではない
バカがいくらバイクに乗ってもバカは治らない
川島隆太って「強いて勉めるのが勉強だ」などと言ってたバカで
最新の脳科学や教育心理学では 主体性こそが脳の発達に最も良いことが証明されており 「強いて勉める」とバカになることもわかっている
社会学者の宮台真司もそうなんだが 自分が強いられたことを事後正当化しておかないと気分的に嫌なもんだから 自分が強いられたことを他人にまで強いろうとする習性がヒトにはある
虐待の連鎖なんてのは最たるもので 他人から無理強いされるとヒトはバカになって 同じことを連鎖するようになる
合理性も何もない理不尽な校則を強いてくる教師というのは 自分が理不尽で非合理な規則を強いられ それを鵜呑みにした頭の悪さ 主体性の無さを事後正当化する形で生徒に強要するようになる
バカとは何かというと 自分の頭で物事を考えない状態を指すのであって どんなに知識の「量」をひけらかして自慢しても 統合的に論理整合性のある結論判断ができなければバカなのである
養老孟司だの長谷川眞理子だの川島隆太だのというのは 言っている内容に論理整合性がなく 衆愚の人気を集めているだけのオカルトに過ぎない
衆愚の多数人気をいくら集めても 科学的に正しいことを言っている保証にはならないのである
将棋の棋士が直感で指し手を見極められるように バイクレーサーもまた直感的にバイクを操作できるようになるのであり 何よりも好きで主体性があるからこそ直感的判断まで出来るようになるのであって 好きじゃないことをいくら「頑張って」も認知機能は向上しない
学力成績評価という他人から与えらえる形の抽象化された脳への報酬に無意識につられて学力偏差値競争をいくら「頑張って」も 地下鉄に毒ガスまきちらすようなバカにしかならない
他人がでっち上げた評価基準を鵜呑みにし そこに論理客観的根拠があるのかどうかも考えずに 目先の勝ち負け競争にだけ意識を奪われているからバカになる
何度も言ってるが 学力偏差値というのは認知科学的には知能の論証にはならないのであって いくら学力学歴を自慢しても そんなもん自慢している時点でバカが確定しているのである
Ende
オウム真理教内部の「絆」や「共感性」というものが 「一線を超えない」理由になどなりません
プーチン政権内部でも ナチス政権内部でも 日本大学田中英寿体制においても 自律的な社会的責任を負わないバカの群れの内部で「絆」だの「共感性」だのが働いても 「一線を超えない歯止め」には全くならず むしろ暴走破綻への無意識な「流れ」を作ってしまう原因でもあるのです
あっちの「絆」であろうと こっちの「絆」であろうと 「絆」という主観的安心感や満足感や仲間意識そのものは人間性の論証にはなりません
「誰かに求められているかどうか」に関わらず 「社会的に認知評価されているかどうか」に関わらず 論理客観的根拠や証拠に基づいた「本当のこと」を見極めてこその人間性や倫理として機能するのであって
個人的に悪趣味であろうが 多数人気が得られなかろうが それは人間性とは無関係なのです
人畜無害な悪趣味は 社会的には人畜無害なのであって 主観的嫌悪感という個人的好き嫌いそのものは 所詮や主観に過ぎず 論理客観的な人間性や倫理の論証には全くならないのです
自分の主観的好き嫌いが絶対的基準になっているのであれば それは自分に対する過信でしかありません
自分の個人的好き嫌いが完全無欠の絶対的評価基準だと「思って」いるとすれば それこそが「倒錯」というものです
真理は主観の中にはありません あくまで論理客観的根拠に基づいて識別されなければならないのです
Ende;
ヤグルマギクというとこの色のイメージだったんだが
近所の公園ではカラバリが豊富だった
うわっ クマバチ乱入
ちょっと怖い
ホタルブクロかな?
ちっちゃい花がいっぱい
植えたものではないようだが こんな花自生するかな
ユリ科の何かではなかろうか
カサブランカ的なもの
シジミチョウの一種
露出足りてないな
カキツバタ
ツボミではなくて実じゃないかな
Ende;
ディープフェイクの危険性が提唱されているが
別にディープフェイクなんぞ使わんでも衆愚を騙すのは簡単である
読書猿による「学校の勉強は認知的ワクチン」などというデマも ディープフェイク映像なんぞ使わなくても衆愚は簡単に鵜呑みにし 何の疑問も持たない
現状の哲学界においては イマヌエル:カントの「純粋理性批判」は「近代哲学の最高峰」だと形容されているが その内容は論理的根拠をすっ飛ばした実証不能の謎の「叡智界」というファンタジー妄想であっても衆愚は簡単に鵜呑みにし 「哲学的で難しいからわからない」などと言いながら 論理的には何も理解していないにも関わらずそれを哲学だと鵜呑みにし 信用してしまう
現状の生物学においても 遺伝的進化には目的もなければ選択可能性も生存戦略も存在しないにも関わらず 相変わらず長谷川眞理子は「○○のために進化を選んだのよ」などという間違った説明を続け しかもヒトの戦争をチンパンジーの殺し合いと同列に扱い「ゲーム理論」などという損得勘定だけで説明しているにも関わらず 大衆マスコミの誰も 何の疑いも持たずに鵜呑みにしているのである
嘘やデマなのか それとも真実なのか その区別がつかないのであれば それは「区別がつかない」と判断を保留するのが論理客観的判断というものである
だが ヒトは自分が主観的に信じたい話 気分が良くなる話の方だけを信じようとする性質があり 偏った判断をするヒトというのは基本的にヒステリックで暴力的解決に走るものである
感情的な「レッテル貼り」や暴力的解決を選択していること そのものが主観的解決(錯覚)であり 論理客観性を欠いている証拠である
◇
アイデンティティは主観であり 論理客観的には存在しない
「自分は○○だ」といった決めつけに依存して 気分的に安心満足することをアイデンティティだと主観的に「思って」いるに過ぎない
ヒトという種の生物は 主観的安心感のために様々な決めつけやはぐらかしや「エピソード記憶」をでっち上げ 既存の自分のあらゆる判断選択や価値観を事後正当化しようとするものなのである
しかし 既存の自己のあらゆる判断選択や価値観は 必ずしも自己の主体的判断選択が介在している保証はない
自己の遺伝子も選択不能であれば 自分の大脳辺縁系によって促されるあらゆる行動バイアスの全てにも 生育環境によって組み込まれたあらゆる価値観にも 自己選択可能性はほとんど介在していないのである
だから「自由意志はほとんどない」と言えるのである
従って 自発的に論理客観的検証による判断選択なくして自由意志選択など存在していないのである
自由意志とは論理客観的検証による真実に基づいた判断選択の中にのみ存在しているのである
人間としての倫理的判断にはアイデンティティは必要がない 民族国籍所属肩書ジェンダーに依らず 偏りのない普遍的価値観に基づいた判断でなければ真の人間性とは言えないからである
しかしヒトは基本的には動物であるために 主観的情動に基づいた行動が優先し 論理客観的根拠に基づいた安全性よりも 主観的安心満足が得られる短絡安易な正義や解決を選択しがちなものであり
それこそが無意識であることを ヒトは自覚することができない原因でもある
主観的に気分を良くしてくれる「信じたい話」ばかりを求め その内容に論理客観的根拠や証拠が存在しているのかを誰も考え検証していないから バカみたいな話であっても鵜呑みにしてしまい 真実を見失うことに陥るのである
Ende;
「生きていた証を遺したかった」
⇨「生きていた証を遺す」必要性とは 結局他人からの評価承認である
存在を他人からの見た目だけに依存し 主体的に自分からは生きていないのである
「自分の事しか考えていない奴ばっかりだから」
⇨結局他人の所為
世の中自己中心的な奴は少なくはないが だからといって自分までが自己中心的で身勝手な行動をしても良い理由にはならない
自己中心的な行動が良くない行動であることを知っていながら 自律的な社会的責任判断選択をしないから「自分がない」「意識がない」のである
「へずまりゅう」が主張していた「迷惑者はザラにいる」という話と同じで 「悪いのは他人」であって 自分の主体的意志では行動を選択していない
なぜ事件を起こすに至ったのか 本人にもわかってはいない
情動としての不満に基づく方向性や合理性のない報復感情による暴力であるから 先天的本能としての暴力性に無意識に流されているだけだからこそ 本人には理由がわからないのである
自分で物事を主体的に選択せず 環境に流されるままだからこそ 他人との比較に敗北感を抱き 生きる意欲を失い何もしなくなるのである
社会が良くなるかどうかはわからない
「わからない」というのは 「良くなる」可能性と「良くならない」可能性の両方があり 社会が良くなるために必要なのは まず自分も含めた個人が良くなる方向へと行動を選択する必要がある
「犯罪者の共感性の乏しさ」などという意見があるが 通り魔に共感している奴もいるのであって 主観的気分としての共感性は人間性の論拠にはならない
「どうすれば一線を超えさせないようにできたのか」というが 一線を超える前からそもそも主体性がないことが原因であって 危険性の源を絶たなければ世界中のバカの面倒を 一体誰が看ると言うのであろうか
「自分のことを大事に思ってくれる人」が いるかいないかは関係がない
誰も大事に思っていようがいまいが 自らが安全で公平な社会を求めば 他人に迷惑にも配慮は可能となる
身勝手な奴を見ればぶん殴りたいと「思う」ことは誰しもがあるが そういう衝動や欲望そのものは自ら欲することはできないものであって それは「自分の意思(意識)」ではないのである
迷惑者を殴るのであればまだしも 無差別殺人犯が標的にする相手は「誰でも良い」のであって 主観的に「怖い」相手には向かわず 「勝てそう」な相手ばかりを標的に選ぶ卑屈さも 結局は他人と比較しての劣等感が原因だからである
幸福そうな他人も守るという社会安全性なくして 自分が個人的に楽しいと思えることにも安心して続けることができないということを「理解」しておらず 幸福そうな他人を蹴落とすことで目先の優越感を得ようとするからバカなのである
一線を超える以前に 一線を超える原因が存在しているのであって 原因を無視して再発防止になどならない
私から見れば オガクズの山に埋もれてタバコを吸いながら「どうして火事が起きるんだろう?」と言っているようなものである
それはもうバカという以外なかろう
主観的気分 欲望や感情の強度程度だけが意識の本質だと錯覚しているから 論理客観的真理が全く区別できていないのである
たとえ境遇がどんなに豊かであろうとも 身勝手な独裁者は平気で他人を殺すものである
「絆」だの「仲間」だのも 腐敗組織の内部でも発揮される主観的気分に過ぎず 評価承認欲求中毒患者である以上は自分で自分を抑制することはできず 結果的にヒトラーやプーチンやらルカシェンコや習近平やミャンマー政府軍のように身勝手な独裁政権にも簡単に陥るものなのである
日本大学の田中英寿理事長らによる組織腐敗や振り込め詐欺師集団に「絆」もスッタクレも関係はない
どんなに物質的な富や権力を掌握しても 「人間としての本当の目的」を忘れ 何も考えていないバカなら無差別殺人でも戦争でも何でもやらかすものなのである
こうした性質は ヒトという種の生物であれば普遍的に見られるものでもある
ヒトの先天的な頭の悪さ 認知上の欠陥を理解認識しない限りは 同じ様な過ちは何度でも繰り返すことになるのである
一線を超えるか超えないかは「結果」である
結果的に起きた無差別殺人だけを論じても 一線を超える可能性としての無差別殺人の原因の究明にはならず 必然的に再発防止にもならない
実際に起きてしまった事象だけを注目し 起きる根源的原因を別物に扱うから根源的原因を見失うのである
Ende;
ヒトという種の生物には 先天的本能習性としての「社会性」がある
だが 先天的本能習性として社会を形成する習性というものは あくまで封建的序列に基づいた統率協調性であって 差別や組織腐敗の原因としても働く無意識な行動バイアスに過ぎず 「人間としての社会性」とは全く別のものである
先天的本能習性としての封建的統率協調性というものは イヌにもみられる習性であって イヌはそもそも平等が嫌いなのである
平等を嫌う本能的習性に人間性が伴うわけもなく これは人間としての社会性とは逆行するものでもある
ヒトは 主観的に嫌なことはしたくないものである
当たり前の話だが 怖い相手に逆らうことも嫌いである
暴力的な集団には 誰もが逆らいたくはない
だからイジメは学級内の8割が傍観者となるのである
これは日本大学における組織腐敗でも同じであり 怖い権力者に逆らいたくないという恐怖心によって 組織腐敗は長年温存放置され続けてきたのである
やっていることはヤクザ暴力団と同じである
一方的な暴力によって他人を抑圧すれば 多くのヒトは逆らうことができずに唯々諾々と腐敗組織の温存に加担してしまうものなのである
ロシア人の多くがプーチン政権に逆らわずに傍観しているのも
第二次世界大戦時にドイツ人の多くがナチス政権に逆らわなかったのも
東京電力福島第一原子力発電所において原発の津波に対する脆弱性について誰も批判しなくなったのも
組織を構成している個人が 組織の中での保身感情によって たとえ腐敗した組織であろうとも唯々諾々と服従迎合することによって 個人は自律的な社会的責任判断選択を放棄するようになるのである
「戦争は女の顔をしていない」の著者であるアレクシェービチ氏は
「個人に本当のことを言う勇気が試されている」と述べている
しかし 残念ながら ヒトの多くは「本当のこと」が何なのかすらも自覚認識してはおらず
主観的に安心なものを短絡的に安全性と錯覚し 自分が安心だと「感じて」いる自分の感覚を あたかも絶対的なものであると過信していることこそが安心であり 論理客観的安全性になど誰も興味はないのである
腐敗した組織集団の中における個人は 「世の中そういうものだ」という「安易な絶望」によって問題意識を失い 腐敗組織への同調迎合や忖度服従こそが「生きるため」には最優先であると称して腐敗組織の温存に加担するようになるのである
東京電力社内において 原発の津波に対する脆弱性なんぞ放置しておいてでも 社内における自分の地位権益を保守維持することの方が優先し それこそが安心満足なのであって それが「本当のこと」かどうかなど 利己的には何の興味もなかったからこそ 自律的な社会的責任判断選択などしなくなったのである
日大でも同じで 腐敗した組織に迎合しておくことこそが 組織内部での利己的地位権益において有利であることを優先したからこそ 組織腐敗は長期において温存放置され続けてきたのである
「生きるためには」という利己的利益を最優先にすれば 社会安全性や公平性といった「人間としての判断(本当のこと)」など どうでもよくなるのである
生存そのものをいくら求めても 生存にとっていくら有利な行動を選択したとしても ヒトはいつか必ず死ぬ運命にある
ヒトの死亡率は100%であることからは逃れられない
それでも生き続ける理由とは 生き続けるに価する社会の姿としての理想(本当に求めている社会)に基づいた行動選択をすることである
腐敗組織の温存に加担してまで自己の延命を望んでも それは生物としては生存に適しているとは言えても 人間としてしては死んでいるのである
生物の生存とは あくまで「結果」であって 人間としての「目的」ではない
生き続ける上において人間としての「目的」を忘れて ただ漫然と無意識に「生きている」だけなら それはヒトであっても人間とは言えないのである
「生きるためには」と称して あらゆる屁理屈をでっち上げることは可能であるが 単なる遺伝的進化の結果に過ぎない「生存」そのものは自分では選択していないのである
選択していない生存に「自由」などない
本当の「自由」とは 選択可能性の中に存在するのであって 生き続ける「理由」もなしにただ本能のままに「死にたくない」といくら主観的に「思って」も それは自由意志でも何でもないのである
ヒトは絶望する
未成年が自殺するのも 絶望するからである
絶望するからこそ人間でもあるのだが 絶望するからには「本当の望み」があるからである
何の望みも持たぬイヌやサルは自殺をしない
養育放棄による多頭飼育崩壊環境においても イヌが絶望して自殺することはない
イヌには欲望はあるが それは目先の情動バイアスとしての欲望であって 人間としての「本当の望み」に基づいた選択ではなく 野犬の群れに混ざれば野犬となり ヒトに訓練されれば介助犬や救助犬にもなる環境依存的な結果以上何も選択はできない
育て方を間違えれば飼い主の手を噛むようにもなるのであり イヌにあるのは自己選択不可能な先天的情動バイアスだけであって イヌには「本当の望み」など存在していないのである
セーレン:キェルケゴールは「死に至る病」において 絶望の様々な形態を挙げ それらの全ての絶望に「本当の望み」が伴っていないことを論証している
通り魔が「俺のような人間は死刑になったら良いんじゃ!」などと言い張るのは 「世間的評価が主観的に思ったように得られない」という利己的欲求を満たしてくれない社会に対する方向性や合理性のない報復感情を満たすための無差別殺人であって 人間としての「本当の望み」に基づいた絶望ではないのである
自分の脳を満足させるのは 自分である
何に満足を「感じ」るのかは 自分にしかわからないからだ
脳内麻薬を自給自足できるからこそ 他人への理不尽な要求や迷惑行為をしなくなるのであって 他人からの評価や報酬だけしか見ようとしないからこそ 利己的で身勝手な実証不能の観念を振り回し 他人に多大な迷惑をかけるようになるのである
オウム真理教幹部達が毒ガステロを実行したのは 教祖からの評価が目的である
ナチスのユダヤ人絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンが600万のユダヤ人殺害計画書を作成したのも ナチス政権からの評価が目的である
ロシア人の大半がプーチン政権に異議を唱えないのも ロシア社会における自分の評価を失いたくないという情動が働いているからである
ヒトは多数に迎合しない少数派を「バカだ」とみなす そう思っておけば多数派に同調している自己が正当化できていると錯覚できるからだ
ヒトが暴力者に対して盲目的に同調迎合服従忖度し 腐敗組織の温存放置に加担するのは ヒトの先天的な情動バイアスによる「結果」である
自分の主観的感情を 自分の意識の本質だと錯覚していれば 「本当のこと」など最初から興味を持たない だからヒトは暴力的統率者に唯々諾々と服従し 組織腐敗を傍観放置するのである
ロシア人はプーチンを信じておけば安心なのである
それは ナチス政権下のドイツ人がヒトラーを信じようとしたのも 日大の職員達が日大組織を信じようとしたのも 東京電力福島第一原子力発電所の職員達が上司や経営陣の指示に従って個人が自律的な社会的責任判断をしなくなったもの ヒトという種の生物に普遍的に見られる先天的習性の「結果」である
ヒトは権威とみなした相手の命令に逆らうことが嫌いで たとえ他人に危害が及ぶような指示命令であったとしても ヒトは権威が全部責任を取ってくれるものだという錯覚によって ヒトは盲目的に無責任性を発揮するようになるのである
スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験は そうしたヒトの盲目性や無意識性を科学的に「立証」しているのである
ヒトが権威の指示命令を安心して鵜呑みにするのと同時に 権威肩書のない個人が多数や権威を批判しても耳を貸そうとはしなくなる
主観的に「嫌な話」は 主観的に「信じたくない」ために 内容を理解しようともしないし 最初から真実など何の興味もないからである
エサをちらつかせれば急に従順になるイヌのように 主観的に気分が良くなる「信じたい話」以外には何の興味もないから 盲目的無意識になり 何も自分では考えず 判断もせず 多数や権威の主張を唯々諾々と鵜呑みにしてバカになるのである
サイバネティクス(生物学)の観点からは 統率協調的に「敵」を排除できることは 「生存」価にとっては有利に働くものの テロリストや暴力団などの反社会的組織の排除以外においても ミャンマー政府軍のように民主化組織の排除にも便利に「応用」可能なものであって 決して常に人間性としての目的行動に適う「習性」とは言えないのである
長谷川眞理子のように「ゲーム理論」を持ち出してしまえば 武力的に優位な方だけが一方的に「勝つ」ことも正当化可能となるのであり そこに人間としての公平性や安全性など介在する余地はなくなる
表面的には独裁者を批判しているかのように衆愚には見えるかも知れないが 「勝てそうな戦争ならやっちまった方が得だ」というゲーム理論は むしろプーチンが戦争を始めたことを正当化しているのと同義である
長谷川眞理子のようなキチガイが大学の学長を何年も務めているというのは 文科省の判断にも著しい問題がある
一体どれだけバカが多いんだと 呆れて意欲が失せる一方である
Ende;
ヒトという種の生物には 先天的本能習性としての「社会性」がある
だが 先天的本能習性として社会を形成する習性というものは あくまで封建的序列に基づいた統率協調性であって 差別や組織腐敗の原因としても働く無意識な行動バイアスに過ぎず 「人間としての社会性」とは全く別のものである
先天的本能習性としての封建的統率協調性というものは イヌにもみられる習性であって イヌはそもそも平等が嫌いなのである
平等を嫌う本能的習性に人間性が伴うわけもなく これは人間としての社会性とは逆行するものでもある
ヒトは 主観的に嫌なことはしたくないものである
当たり前の話だが 怖い相手に逆らうことも嫌いである
暴力的な集団には 誰もが逆らいたくはない
だからイジメは学級内の8割が傍観者となるのである
これは日本大学における組織腐敗でも同じであり 怖い権力者に逆らいたくないという恐怖心によって 組織腐敗は長年温存放置され続けてきたのである
やっていることはヤクザ暴力団と同じである
一方的な暴力によって他人を抑圧すれば 多くのヒトは逆らうことができずに唯々諾々と腐敗組織の温存に加担してしまうものなのである
ロシア人の多くがプーチン政権に逆らわずに傍観しているのも
第二次世界大戦時にドイツ人の多くがナチス政権に逆らわなかったのも
東京電力福島第一原子力発電所において原発の津波に対する脆弱性について誰も批判しなくなったのも
組織を構成している個人が 組織の中での保身感情によって たとえ腐敗した組織であろうとも唯々諾々と服従迎合することによって 個人は自律的な社会的責任判断選択を放棄するようになるのである
「戦争は女の顔をしていない」の著者であるアレクシェービチ氏は
「個人に本当のことを言う勇気が試されている」と述べている
しかし 残念ながら ヒトの多くは「本当のこと」が何なのかすらも自覚認識してはおらず
主観的に安心なものを短絡的に安全性と錯覚し 自分が安心だと「感じて」いる自分の感覚を あたかも絶対的なものであると過信していることこそが安心であり 論理客観的安全性になど誰も興味はないのである
腐敗した組織集団の中における個人は 「世の中そういうものだ」という「安易な絶望」によって問題意識を失い 腐敗組織への同調迎合や忖度服従こそが「生きるため」には最優先であると称して腐敗組織の温存に加担するようになるのである
東京電力社内において 原発の津波に対する脆弱性なんぞ放置しておいてでも 社内における自分の地位権益を保守維持することの方が優先し それこそが安心満足なのであって それが「本当のこと」かどうかなど 利己的には何の興味もなかったからこそ 自律的な社会的責任判断選択などしなくなったのである
日大でも同じで 腐敗した組織に迎合しておくことこそが 組織内部での利己的地位権益において有利であることを優先したからこそ 組織腐敗は長期において温存放置され続けてきたのである
「生きるためには」という利己的利益を最優先にすれば 社会安全性や公平性といった「人間としての判断(本当のこと)」など どうでもよくなるのである
生存そのものをいくら求めても 生存にとっていくら有利な行動を選択したとしても ヒトはいつか必ず死ぬ運命にある
ヒトの死亡率は100%であることからは逃れられない
それでも生き続ける理由とは 生き続けるに価する社会の姿としての理想(本当に求めている社会)に基づいた行動選択をすることである
腐敗組織の温存に加担してまで自己の延命を望んでも それは生物としては生存に適しているとは言えても 人間としてしては死んでいるのである
生物の生存とは あくまで「結果」であって 人間としての「目的」ではない
生き続ける上において人間としての「目的」を忘れて ただ漫然と無意識に「生きている」だけなら それはヒトであっても人間とは言えないのである
「生きるためには」と称して あらゆる屁理屈をでっち上げることは可能であるが 単なる遺伝的進化の結果に過ぎない「生存」そのものは自分では選択していないのである
選択していない生存に「自由」などない
本当の「自由」とは 選択可能性の中に存在するのであって 生き続ける「理由」もなしにただ本能のままに「死にたくない」といくら主観的に「思って」も それは自由意志でも何でもないのである
ヒトは絶望する
未成年が自殺するのも 絶望するからである
絶望するからこそ人間でもあるのだが 絶望するからには「本当の望み」があるからである
何の望みも持たぬイヌやサルは自殺をしない
養育放棄による多頭飼育崩壊環境においても イヌが絶望して自殺することはない
イヌには欲望はあるが それは目先の情動バイアスとしての欲望であって 人間としての「本当の望み」に基づいた選択ではなく 野犬の群れに混ざれば野犬となり ヒトに訓練されれば介助犬や救助犬にもなる環境依存的な結果以上何も選択はできない
育て方を間違えれば飼い主の手を噛むようにもなるのであり イヌにあるのは自己選択不可能な先天的情動バイアスだけであって イヌには「本当の望み」など存在していないのである
セーレン:キェルケゴールは「死に至る病」において 絶望の様々な形態を挙げ それらの全ての絶望に「本当の望み」が伴っていないことを論証している
通り魔が「俺のような人間は死刑になったら良いんじゃ!」などと言い張るのは 「世間的評価が主観的に思ったように得られない」という利己的欲求を満たしてくれない社会に対する方向性や合理性のない報復感情を満たすための無差別殺人であって 人間としての「本当の望み」に基づいた絶望ではないのである
自分の脳を満足させるのは 自分である
何に満足を「感じ」るのかは 自分にしかわからないからだ
脳内麻薬を自給自足できるからこそ 他人への理不尽な要求や迷惑行為をしなくなるのであって 他人からの評価や報酬だけしか見ようとしないからこそ 利己的で身勝手な実証不能の観念を振り回し 他人に多大な迷惑をかけるようになるのである
オウム真理教幹部達が毒ガステロを実行したのは 教祖からの評価が目的である
ナチスのユダヤ人絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンが600万のユダヤ人殺害計画書を作成したのも ナチス政権からの評価が目的である
ロシア人の大半がプーチン政権に異議を唱えないのも ロシア社会における自分の評価を失いたくないという情動が働いているからである
ヒトは多数に迎合しない少数派を「バカだ」とみなす そう思っておけば多数派に同調している自己が正当化できていると錯覚できるからだ
ヒトが暴力者に対して盲目的に同調迎合服従忖度し 腐敗組織の温存放置に加担するのは ヒトの先天的な情動バイアスによる「結果」である
自分の主観的感情を 自分の意識の本質だと錯覚していれば 「本当のこと」など最初から興味を持たない だからヒトは暴力的統率者に唯々諾々と服従し 組織腐敗を傍観放置するのである
ロシア人はプーチンを信じておけば安心なのである
それは ナチス政権下のドイツ人がヒトラーを信じようとしたのも 日大の職員達が日大組織を信じようとしたのも 東京電力福島第一原子力発電所の職員達が上司や経営陣の指示に従って個人が自律的な社会的責任判断をしなくなったもの ヒトという種の生物に普遍的に見られる先天的習性の「結果」である
ヒトは権威とみなした相手の命令に逆らうことが嫌いで たとえ他人に危害が及ぶような指示命令であったとしても ヒトは権威が全部責任を取ってくれるものだという錯覚によって ヒトは盲目的に無責任性を発揮するようになるのである
スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験は そうしたヒトの盲目性や無意識性を科学的に「立証」しているのである
ヒトが権威の指示命令を安心して鵜呑みにするのと同時に 権威肩書のない個人が多数や権威を批判しても耳を貸そうとはしなくなる
主観的に「嫌な話」は 主観的に「信じたくない」ために 内容を理解しようともしないし 最初から真実など何の興味もないからである
エサをちらつかせれば急に従順になるイヌのように 主観的に気分が良くなる「信じたい話」以外には何の興味もないから 盲目的無意識になり 何も自分では考えず 判断もせず 多数や権威の主張を唯々諾々と鵜呑みにしてバカになるのである
サイバネティクス(生物学)の観点からは 統率協調的に「敵」を排除できることは 「生存」価にとっては有利に働くものの テロリストや暴力団などの反社会的組織の排除以外においても ミャンマー政府軍のように民主化組織の排除にも便利に「応用」可能なものであって 決して常に人間性としての目的行動に適う「習性」とは言えないのである
長谷川眞理子のように「ゲーム理論」を持ち出してしまえば 武力的に優位な方だけが一方的に「勝つ」ことも正当化可能となるのであり そこに人間としての公平性や安全性など介在する余地はなくなる
表面的には独裁者を批判しているかのように衆愚には見えるかも知れないが 「勝てそうな戦争ならやっちまった方が得だ」というゲーム理論は むしろプーチンが戦争を始めたことを正当化しているのと同義である
長谷川眞理子のようなキチガイが大学の学長を何年も務めているというのは 文科省の判断にも著しい問題がある
一体どれだけバカが多いんだと 呆れて意欲が失せる一方である
Ende;