瀬戸内海に面した宇野村は、江戸時代から開かれた古浜、広潟、新浜
等の塩田地帯で、明治に入ってからも新たに甲浦に塩田が造成される程
の盛況であった。

時代が江戸から明治に入ると、政府は富国強兵策を進める上で、官営
製鉄所の建設を推進すべく、全国で好適地を捜していて、広大な塩田の
広がる当地も着目されていた。

そんな中、政府や官営製鉄所、軍の高官、県知事などが相次いで宇野
を視察した。彼らは挙って、「東には神戸・大阪が、西には馬関(今の
下関)が、更に北は山陰、南は四国が控えている事から、陸路でも海路
でも交通の結節点で、ここに湊を築けば内海無比の良港として、新たな
交通の要衝になる」と賞賛した。

こうして宇野村に、宇野築港計画が持ち上がった。
この頃、岡山・宇野を結ぶ鉄道新線の計画も有り、当初は鉄道工事と同
時進行的に進める目論見であったが、戦局を理由に鉄道工事が一向に進
まず、築港も一時は県会で計画が否決されてしまう始末だった。

それでも築港工事が始まったのは当時の知事の専決と伝えられている。
鉄道の着工より一年早い明治39(1906)年の事で、三カ年計画である。
着工から三年で、四百トンクラスの桟橋が完成し、更に汽船が横付け
できる港が完成した。遅れていた鉄道の開通より半年早い竣工であった。

そして明治43(1910)年、待望の宇野線も開通する。
時を合わせ、既に完成していた新港と、高松の間に宇高航路も開通し、
玉藻丸、児島丸が就航する。
一日八回の運航で所要時間は、上り1時間40分、下り1時間20分と伝
えられている。

これにより岡山から宇野線、宇高航路を経て四国・高松に到る新たな
ルートが華々しく開業し、歴史にその一ページを刻むことになる。(続)

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等の塩田地帯で、明治に入ってからも新たに甲浦に塩田が造成される程
の盛況であった。

時代が江戸から明治に入ると、政府は富国強兵策を進める上で、官営
製鉄所の建設を推進すべく、全国で好適地を捜していて、広大な塩田の
広がる当地も着目されていた。

そんな中、政府や官営製鉄所、軍の高官、県知事などが相次いで宇野
を視察した。彼らは挙って、「東には神戸・大阪が、西には馬関(今の
下関)が、更に北は山陰、南は四国が控えている事から、陸路でも海路
でも交通の結節点で、ここに湊を築けば内海無比の良港として、新たな
交通の要衝になる」と賞賛した。

こうして宇野村に、宇野築港計画が持ち上がった。
この頃、岡山・宇野を結ぶ鉄道新線の計画も有り、当初は鉄道工事と同
時進行的に進める目論見であったが、戦局を理由に鉄道工事が一向に進
まず、築港も一時は県会で計画が否決されてしまう始末だった。

それでも築港工事が始まったのは当時の知事の専決と伝えられている。
鉄道の着工より一年早い明治39(1906)年の事で、三カ年計画である。
着工から三年で、四百トンクラスの桟橋が完成し、更に汽船が横付け
できる港が完成した。遅れていた鉄道の開通より半年早い竣工であった。

そして明治43(1910)年、待望の宇野線も開通する。
時を合わせ、既に完成していた新港と、高松の間に宇高航路も開通し、
玉藻丸、児島丸が就航する。
一日八回の運航で所要時間は、上り1時間40分、下り1時間20分と伝
えられている。

これにより岡山から宇野線、宇高航路を経て四国・高松に到る新たな
ルートが華々しく開業し、歴史にその一ページを刻むことになる。(続)

