江戸時代幕府は各河川に橋を架けることを厳しく禁じていて、許され
た場合にしか架けることが出来なかった。一朝有事の折、お膝元である
江戸表に、大軍が押し寄せないようにする為の方策である。
許可をされ架けられた橋も細かに管理体制が定められていた。
橋には公儀が管理する「公儀橋」と、橋のある地元が管理する「町橋」
とがあった。原則橋奉行が官費にて修繕や掛け替えを行なうのが「公儀
橋」で、管理は橋掛り町として指名された橋筋の町々に義務付けられて
いたという。
一方「町橋」は町民が費用を負担して架けた橋で、維持管理は橋詰め
に近い町から順に諸経費等を負担する、受益者負担制が取られていた。
京の洛中洛外には、三条大橋、三条小橋、五条大橋、白川橋など107
の公儀橋が有ったと伝えられているが、伏見ではこの京橋を始め、観月
橋、肥後橋、六地蔵橋等がそれであった。
そんな京橋の袂に「伏見口の戦い激戦地跡」の石碑が建っている。
説明板によると、「戦いが始まる前日の夕刻のこと、会津藩の先鋒隊
約200名が大阪から舟でここに上陸し陣を敷いて宿営した。
翌日になると、新政府を目指す薩長軍と伏見奉行所に陣を置く新撰組
や会津藩士などの間で戦いの火蓋が切られた。」
慶応4(1868)年1月3日の鳥羽伏見の戦いで、激しい戦闘のはじま
りである。
結果は、地の利が薄い幕府軍や新選組に旗色が悪く、敵の砲火の前に
為す術なく壊滅状態となり、民家に火を放ちながら淀方面に敗走する事
になる。辺り一帯は火の海と成り灰燼に帰したが、戦いは僅か4日程で
決着が付いたとされている。(続)
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