「次」を広辞苑で引くと、『あとにすぐつづくこと』とある。
従って「東海道五十三次」は、東海道に何かが五十三も次々と続くことを
意味する。その何かとは「しゅく(宿)」の事で、勿論ここでは「やど」
とは言わない。
江戸時代、歌川広重や十返舎一九などが発表した作品では、江戸から
京・三条大橋までの「五十三次」を「東海道」としてこの呼称を頻りに
使っていた。結果この事が広く庶民の間に知れ渡り、五十三次を旅する
人々も増えていった。
今日言われるところの「東海道五十三次」の呼び名は、ここから来て
いるというのが学者の定説らしい。しかし「五十三次」とは言うものの、
各宿場の成立日が全て同一日というわけではなさそうで、順次追加、或
は改められ、最終的にこの数になったものらしい。
そもそも「東海道」の「五十三」と言う「宿場」の数には、何か特別
な意味があったのか。
その辺りのことを作家の井上ひさしは、その著書「新東海道五十三次」
(昭和51年 文藝春秋社)の中でこのように述べている。
『華厳経に入法界品(にゅうほっかいぼん)という一章があって、仏
の世界に入るために、善財童子という少年が南方諸国の五十三人の善知
識を訪った(中略)、善智識には老人あり病者あり遊女ありで、これは
街道筋を歩くことと同じ(中略)東海道を求道、すなわち仏の教えを求
めるための道』
慶長6(1601)年、徳川家康により発せられた伝馬制により東海道が
整備された。当時家康には、政治的な顧問として側近に天海などの僧侶
がいたことから、仏教的な思想の影響を受けてのことだった、とこの作
家は指摘している。(続)
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従って「東海道五十三次」は、東海道に何かが五十三も次々と続くことを
意味する。その何かとは「しゅく(宿)」の事で、勿論ここでは「やど」
とは言わない。
江戸時代、歌川広重や十返舎一九などが発表した作品では、江戸から
京・三条大橋までの「五十三次」を「東海道」としてこの呼称を頻りに
使っていた。結果この事が広く庶民の間に知れ渡り、五十三次を旅する
人々も増えていった。
今日言われるところの「東海道五十三次」の呼び名は、ここから来て
いるというのが学者の定説らしい。しかし「五十三次」とは言うものの、
各宿場の成立日が全て同一日というわけではなさそうで、順次追加、或
は改められ、最終的にこの数になったものらしい。
そもそも「東海道」の「五十三」と言う「宿場」の数には、何か特別
な意味があったのか。
その辺りのことを作家の井上ひさしは、その著書「新東海道五十三次」
(昭和51年 文藝春秋社)の中でこのように述べている。
『華厳経に入法界品(にゅうほっかいぼん)という一章があって、仏
の世界に入るために、善財童子という少年が南方諸国の五十三人の善知
識を訪った(中略)、善智識には老人あり病者あり遊女ありで、これは
街道筋を歩くことと同じ(中略)東海道を求道、すなわち仏の教えを求
めるための道』
慶長6(1601)年、徳川家康により発せられた伝馬制により東海道が
整備された。当時家康には、政治的な顧問として側近に天海などの僧侶
がいたことから、仏教的な思想の影響を受けてのことだった、とこの作
家は指摘している。(続)
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