簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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見附・枡形 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2024-11-15 | Weblog


 旧街道を歩き旧宿場町に入ると、必ずと言って良い程に「高札場跡」
と書かれた案内板を見かけるが、同時に多く目にするのが、「見附跡
(みつけあと)」の案内である。
 「見附」とは元々は城で、外堀に沿って枡形 (ますがた) を持つ城門
の外側に面する部分をいい、軍事施設の事である。



 簡単に言えば城の出入り口で、見張り役が置かれた番所の事だ。
江戸城には俗に36カ所あったと言われている。(実際にはもっと多かっ
たとも言われている)

 宿場の場合は、その出入り口に設けられた構造物の事で、江戸側を江
戸見附、京側を上方見附、或は京見附と呼んだ。その間が宿場の範囲、
所謂宿内である。



 街道の両側に土台を石で固めその上に土を盛り、或は石垣を組んで、
更にその上に矢来(柵)を置いて通行に制限をかける構造物が造られて
いて、それを見附とよんだ。
 東海道が成立した江戸初期の頃は、宿場の守りを固め、江戸に向けて
大軍の兵が容易に街道を通り抜けなくする軍事施設的な性格が強く、こ
の形状になったと言われている。



 幕府が安定し、政情が落ち着いた中期以降は、左程重要視はされず、
軍事的な色彩はほぼ薄れ、単に宿場の出入り口、宿場の範囲を視覚的に
示す施設との認識に変わったらしい。
中には街道を拡げ、宿場の発展のため町並みを延ばすなどで、撤去する
動きもあったという。



 宿場制度が廃された明治以降は、国道の整備が急がれ、道路や町並み
の拡張整備等で殆どが壊され、ほぼ消滅した。
同様の運命を辿ったのが一里塚であった。

 江戸見附前、赤坂見附、四谷見附等、地名にその名残を残している所
はあるが、極めて少ないようだ。(続)






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