東海道は歌川広重や十返舎一九らの作品にも登場し、江戸と京都の間、
「東海道五十三次」として描かれることが多い。
こうした事から東海道五十三次との呼び名が定着したらしいが、本来の
東海道は五十三次ではなく五十七次である。
山科の追分けをそのまま進めば、二里ほどで五十三次の上がり京・三
条大橋に着くが、元々幕府は、東海道を往来する西国の諸大名が、入洛
して朝廷に接触することを極端に警戒し、京を通らないルートを東海道
と定めていたのだ。
山科の追分けから南西にとり伏見街道(京街道とも言った)に入る。
この先伏見、淀、枚方、守口の四宿を経ると大阪・京橋(高麗橋)まで、
凡そ十三里の道程で、これが幕府の言うところの「東海道」で「五十七
次」である。
五十三次目の「大津宿」を出ると、一里二町(4.2㎞)で髭茶屋追分
(ひげちゃやおいわけ)に至る。
そこからは山科盆地を通り抜け三里六町(12.6㎞)で五十四次目の「伏
見宿」に着く。 「伏見宿」を出れば一里一四町(5.4㎞)の極めて近いと
ころが次の「淀宿」だ。
「淀宿」を後に淀大橋を渡り、三里一二町(13㎞)の長丁場で、次の
「枚方宿」に着く。次の「守口宿」までも三里(12㎞)と距離があるが、
ここに至る間はほぼ淀川に沿った道である。
ここからは、二里(8㎞)余で大坂・京橋(高麗橋)に到着となる。
当時大阪まで旅する多くの人は、「五十三次」を歩き、京・三条大橋
に出て、その後京見物を兼ねて町中を抜け桂川畔に出て、或いは京街道
を伏見に出てここからは舟便で淀川を下ったと言う。
従って追分から大阪まで四宿を歩く旅人は極めて少なかったらしい。
反対に大阪からの東下りは、川上りとなる船便の賃が高く、時間もか
かったのでこの道を歩く事になる。
所謂片宿で、こんなことからも「五十七次」は、庶民一般には馴染んで
はいなかったようだ。
そんな街道を、髭茶屋追分から高麗橋まで歩いてみる。(続)
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「東海道五十三次」として描かれることが多い。
こうした事から東海道五十三次との呼び名が定着したらしいが、本来の
東海道は五十三次ではなく五十七次である。
山科の追分けをそのまま進めば、二里ほどで五十三次の上がり京・三
条大橋に着くが、元々幕府は、東海道を往来する西国の諸大名が、入洛
して朝廷に接触することを極端に警戒し、京を通らないルートを東海道
と定めていたのだ。
山科の追分けから南西にとり伏見街道(京街道とも言った)に入る。
この先伏見、淀、枚方、守口の四宿を経ると大阪・京橋(高麗橋)まで、
凡そ十三里の道程で、これが幕府の言うところの「東海道」で「五十七
次」である。
五十三次目の「大津宿」を出ると、一里二町(4.2㎞)で髭茶屋追分
(ひげちゃやおいわけ)に至る。
そこからは山科盆地を通り抜け三里六町(12.6㎞)で五十四次目の「伏
見宿」に着く。 「伏見宿」を出れば一里一四町(5.4㎞)の極めて近いと
ころが次の「淀宿」だ。
「淀宿」を後に淀大橋を渡り、三里一二町(13㎞)の長丁場で、次の
「枚方宿」に着く。次の「守口宿」までも三里(12㎞)と距離があるが、
ここに至る間はほぼ淀川に沿った道である。
ここからは、二里(8㎞)余で大坂・京橋(高麗橋)に到着となる。
当時大阪まで旅する多くの人は、「五十三次」を歩き、京・三条大橋
に出て、その後京見物を兼ねて町中を抜け桂川畔に出て、或いは京街道
を伏見に出てここからは舟便で淀川を下ったと言う。
従って追分から大阪まで四宿を歩く旅人は極めて少なかったらしい。
反対に大阪からの東下りは、川上りとなる船便の賃が高く、時間もか
かったのでこの道を歩く事になる。
所謂片宿で、こんなことからも「五十七次」は、庶民一般には馴染んで
はいなかったようだ。
そんな街道を、髭茶屋追分から高麗橋まで歩いてみる。(続)
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