旧国道通りから左に折れ、川郭通りと言われる通りに入ってきた。
昔は三枚橋の当りに高札場が有り、この辺りには水神神社祀られていて、
舟高札場も有った。この狩野川からは物資を輸送する江戸廻しの舟が出
ていた。更に江尻(清水湊)までは七里の渡し舟が有ったそうで、船賃
は人ひとり50文だが、海上は常に危険が付きまとい、「楽はしたいが命
は惜しい」と旅人に取っては悩ましい選択を迫られたようだ。
ここら辺りは、石畳の敷かれた整備された道で、道端にはサインも充実し
ている。右手の森が中央公園で、沼津城の本丸跡とされる場所である。
戦国時代には武田勝頼が築いたといわれる三枚橋城があったところだ。
この城は江戸時代には廃城となったが、平成に入りその外堀跡が発見された。
江戸に入ってこの廃城近くに水野氏により沼津城が築かれるのは、凡そ160年
ほど後のことだが、その規模は三枚橋城より劣っていたと言う。
しかし歴史の古文書などには「三枚橋城」の記載は見当たらず、僅か
に手紙などに「三枚橋のお城」「沼津のお城」と出てくるだけらしく、
現代では混乱を避けるため中世の城を「三枚橋城」近世の城を「沼津城」
と呼び区別しているようだ。
川郭通りからさんさん通りに出て左折すると繁華街で、ここら辺りから
先が宿場の中心的な場所となる。
宿内の人口は5000人余り、戸数1200戸余りの内、本陣が3軒、脇本陣が1軒、
旅篭は55軒あったそうだが、ご多分に漏れず当地にも当時の遺構は何も残
されてはいない。(続)
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昔は三枚橋の当りに高札場が有り、この辺りには水神神社祀られていて、
舟高札場も有った。この狩野川からは物資を輸送する江戸廻しの舟が出
ていた。更に江尻(清水湊)までは七里の渡し舟が有ったそうで、船賃
は人ひとり50文だが、海上は常に危険が付きまとい、「楽はしたいが命
は惜しい」と旅人に取っては悩ましい選択を迫られたようだ。
ここら辺りは、石畳の敷かれた整備された道で、道端にはサインも充実し
ている。右手の森が中央公園で、沼津城の本丸跡とされる場所である。
戦国時代には武田勝頼が築いたといわれる三枚橋城があったところだ。
この城は江戸時代には廃城となったが、平成に入りその外堀跡が発見された。
江戸に入ってこの廃城近くに水野氏により沼津城が築かれるのは、凡そ160年
ほど後のことだが、その規模は三枚橋城より劣っていたと言う。
しかし歴史の古文書などには「三枚橋城」の記載は見当たらず、僅か
に手紙などに「三枚橋のお城」「沼津のお城」と出てくるだけらしく、
現代では混乱を避けるため中世の城を「三枚橋城」近世の城を「沼津城」
と呼び区別しているようだ。
川郭通りからさんさん通りに出て左折すると繁華街で、ここら辺りから
先が宿場の中心的な場所となる。
宿内の人口は5000人余り、戸数1200戸余りの内、本陣が3軒、脇本陣が1軒、
旅篭は55軒あったそうだが、ご多分に漏れず当地にも当時の遺構は何も残
されてはいない。(続)
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