「金谷坂は上りの坂路にして峻(さか)し。(中略)大井川の流れ
を見下ろし富士山など遙かに見えて風景の佳境なり」と言われた通り、
金谷の宿を見通す眺めは素晴らしかったようだ。
しかし足元は「あおねば」と呼ばれる粘土層が多く露出する地で、
雨でも降れば、「膝まで埋まるぬかるみ」と形容されるほどの悪路・
難路であった。
当時は難路の解消策として、例えば箱根峠の東坂や西坂では、山に
自生する箱根竹を刈り取り、束にして敷き詰めていたようだ。
また神奈川宿に近い生麦の村では、貴人が通ると、近辺の麦を刈り取
りぬかるむ道に敷き詰めていた(これが地名発祥説とも言われている)。
しかしこうした道は、耐久性には乏しく度々やり替えることとなり、
その労力や資金も馬鹿にはならず悩みの種であったらしい。
その為東海道が整備されるに当り、箱根には近くから切り出した耐久
力のある割石が敷き詰められた。
この金谷坂では、江戸末期になりようやく、牧之原台地に堆積し豊
富に有るという丸い山石(大井川の川石と同質の石)を敷き詰めた道
普請が行われた。
約400間(約720m)ほどの間ではあったが、当時としては画期的な舗
装道路で、雨降りの難儀もずいぶんと解消されたようだ。
しかしその道は明治以降の近代化で、電柱工事や電線の敷設などで
掘り起こされ、或は埋め戻され或はその上を鋪装するなどして失われ、
近年残されたのは僅か30mであったと言う。
そんな石畳を復元しよう・・・との機運が盛り上がるのは、平成に入っ
ての事である。(続)
にほんブログ村