簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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食べたまま、書いてます。

第三の難所 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-08-24 | Weblog


 金谷坂、菊川坂の石畳道に続いて上り下りを繰り返す小夜の中山は、
昔から箱根、鈴鹿に次ぐ東海道三大難所として知られたところだ。
今は見わたす限りの茶畑が広がる明るい地だが、当時はまだまだ荒廃
した山中で、深い木立が生い茂り、あるいは草深い地で、民家とてな
い寂しい地であったと思われる。



 テレビドラマや映画、芝居等なら、お決まりのようにこうした場所
では夜盗・盗賊・山賊・追い剥ぎ・ごまの蠅などと遭遇し、難儀を強
いられ、時には命までも奪われてしまう。
そんな筋書きを思い浮かべれば、昔の「難所」はただ単に、地勢の厳
しさだけのことでは無かったように思えてくる。



 ドラマとしては何も起こらなければ成り立たないから仕方ないが、
しかし実際のところは随分と誇張された話で、勿論皆無ではあり得な
いであろうが、江戸時代の治安は今思うほど悪くは無かったようだ。



 江戸は文化・文政期に野田泉光院という人物がいた。
修験寺(山伏の寺)の住職で、修験者として6年以上をかけて諸国を
托鉢行脚した僧だ。その「日本九峰修行日記」によると、この間山賊
や追い剥ぎに遭遇したことなどは無かったと言う。



 時は太平の世、長旅で日焼けをし、従者を連れた壮健で屈強に見え
る修験僧(山伏)の姿を見れば、襲う者など誰もいなかったのかも知
れないが、当時は重刑主義である。



 金子の窃盗なら10両以上、スリでも4回捕まれば死罪、放火は事の
大小に拘わらず火罪(ひあぶり刑)らしいから、犯罪の抑止が効いて
いたのであろう。

 人里を遠く離れた難所でも、心許ないローソクの僅かな灯りだけの
夜道でも、意外に難なく行き来が出来ていたと言うことかも知れない。(続)

  最新記事はこちら 
 「銅と弁柄の赤い村」 



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