広辞苑によると「難所」とは、「けわしくて往来に困難な所」と書か
れている。厳しい峠越えの道を思い浮かべるが、山道に限らず川越えや
海際の道でも、意外な事に平坦地でも難所と言われるところは存在した。
由比と興津宿の間の薩田峠は、山塊が海に落ち込む地点で、峠越えの
道が整備されるまでは、潮の干満を見計らい海際の浜を駆け抜ける、海
際の難所として知られていた。親は子の、子は親を構ってはいられない
過酷な地だ。北陸街道・糸魚川海岸の「親知らず子知らず」は、今でも
良く知られている。
又ごく普通の平地でも、地盤が軟弱な泥沼地帯や湖沼地帯等は、当時
の往来では難所の一つであった。西国街道の片上と藤井宿の間にある沼
地区は、東西2㎞、南北1㎞にも及ぶ広大な沼沢地で、近世整備された
街道は大きく南に「コ」の字を描いてこれを避けている。
東海道でも生麦地区は、雨でも降ると泥地がぬかるみ歩行に困難を来
たし、貴人が通行する折には植えられた麦を刈り取って道に敷き詰めた
と言われ、これが地名の謂れとされる。
ぬかるむ地盤は箱根の西坂も同じで、こちらは自生する箱根竹を刈り
取って束ねた物を敷き詰めたという。
東海道に伝馬制がしかれる以前の東海道は、尾張と美濃の国境を伊勢
湾に流れ下る、木曽・揖斐・長良の所謂木曽三川を如何に超えるかも頭
を悩ませていた。
時代が遡るほど上流域で越えており、この辺りは言わば川の難所である。
結局ここでは、川を避け海上七里の船渡しが採用され、これが正式な
ルートとなった。
一方で橋の無い大井川は、「越すに越されぬ」と言われる難所として
何時の時代も旅人を苦しめてきた。
このように嘗ての街道には、「難所」言われるところが何カ所もあった。(続)
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