簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

大橋の血塗られた歴史(東海道歩き旅・山城の国)

2024-11-01 | Weblog
 

 鴨川の河原を見れば、水辺の遊歩道をそぞろ歩く人、座り込んで川面
を静かに眺めいる人、ギター片手に歌う青年、それを聞く取巻きの人々。
長閑な風景が繰り広げられている。
川辺は天気の良い日には、ボォーッと日向ぼっこをする人も多いそうだ。



 特に四条からこの三条にかけては、京都の若いカップルにとっては、
「憩いの場、デートスポット」と言われていて、岸辺に何組もが並ぶ
姿が見受けられる。

 そんな長閑な場所も、嘗てのこの界隈では、ここが東海道の出入り
口であるが故に、又、権力者が在した土地故に、恐ろしいほどの血生
臭い凄惨な歴史が秘められている。



 時代小説では「三条川原に晒された・」という記述を良く目にする。
豊臣秀吉の後継者と目された豊臣秀次は、この三条河原で晒された最初
の人物である。謀反の疑いをかけられ高野山で自害をしたが、その首は
京に送られ晒された。

 その後、妻子、侍女乳母に到るまで一族悉く、39人も捉えられ、市中
引き回しのあとここで処刑され、無造作に穴に埋められたという。



 天下の盗賊・石川五右衛門は、安土桃山時代に実在した人物でほぼ間
違いないらしい。幼い頃から非行を繰り返した五右衛門は、盗みの罪に
より捕まえられ、時の天下人・豊臣秀吉により市中引き回しの上、この
三条河原で釜ゆでにされた。



 明治元(1868)年には、元新撰組の局長・近藤勇もこの川原に晒され
ている。下総国(今の千葉県)流山で、大久保大和と名乗って倒幕軍に
出頭した、が薩長軍にいた元新撰組の隊士により近藤勇と発覚、板橋の
刑場で斬首刑になり首は京都に送られた。(続)





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