簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

矢倉の立場(東海道歩き旅・近江の国)

2024-05-08 | Weblog


 立木神社の境内に滋賀県で最も古いという「石造道標」が有ったが、
ウォーキングツアーの一団とかち合ってしまい、人が群れて写真が撮
れず断念して、そこから200m程歩いてきた。
 草津四丁目で宿を出ると、東海道は矢倉一丁目で、平入りの軒の低
い古い家並みが幾らか残る旧矢倉村へと入っていく。



 矢倉橋が見えてくるが、この辺りが草津宿の京側の出入口、見附跡で
宮町との村境に当る。嘗てここには黒門が聳えていたらしい。

 説明によると文化14(1817)年には橋の手前に黒門が有ったが、元々
はもう少し草津寄りだったらしく石垣が崩れ矢倉村境に移されたという。
何れにしても石垣で固められていたというから、宿内の防御機能を備え
た立派な御門があったようだ。



 渡る川は、天井川解消のため新たに開削された幅100m程の草津川だ。
旧草津川はこれより3㎞程北の北山田町で琵琶湖に注いでいたが、金勝
川と合流する同市青地町から御倉町の間7.2 kmが新たに掘削され、その
間にあった小規模な天井川をも統合してこの放水路が造られた。



 新たに掘削された放水路とは言え、河川敷には草が生い茂り、真新し
さは感じられず、既に一級河川の風格をみせている。普段は水量も少な
い川らしいが、深く掘り込められた川筋が琵琶湖に向けて続いている。
橋の右手には、JR琵琶湖線(東海本線)の鉄橋も見えている。



 遙か先、一際高く聳えるのが延暦寺で名高い比叡山の山並みらしい。
足元には、「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば・・・」と詠われた琵琶湖が
広がっているはずだが、ここからは良く分からない。
草津川の琵琶湖放水口迄は、まだ3㎞以上も距離がある。(続)





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立木神社(東海道歩き旅・近江の国)

2024-05-06 | Weblog
 草津宿を後に、県道を横断し、伯母川に架かる立木橋を渡ると、その
先右手に立木神社が鎮座している。「立木明神。草津、矢倉の産土神」
と言われ、神護景雲(じんごけいうん)元(767)年創建の古社である。



 武甕槌命(たけみかづちのみこと)が常陸(ひたち)国(茨城県)の
鹿島神宮から白鹿に乗り旅に出られ、諸国を経てこの地に到着された。
境内にやたら鹿の像が多いのは、この言い伝えに因むものらしい。



 その折手にした神木の柿の木を社殿近くに刺すと、不思議にも柿の木
は生え付き、枝葉が茂り出した。

 里人は御神徳を畏み、この木を崇め神殿を建て社名を立木神社とした。
境内にご神木の柿の木が植えられているが、勿論初代で有るはずは無く、
何代目かは定かに分からないらしい。



 境内が賑わっているので、近くの白い法被姿の男性に、「何かイベン
トでも?」と尋ねると「七五三のお祝いです」と言う。
 羽織袴や晴れ着姿の子供達と、これも着飾った両親やその父母達の姿
が見られ、晴れ姿を写真に収めようと彼方此方で歓声が上がっていた。



 境内には、滋賀県で最も古いという「石造道標」がある。
「みぎハたうかいとういせミち ひたりは中せんたうをた加みち」と刻
まれているらしい。

 京都壬生村あしだの行者万宝院が、伊勢神宮と京都の愛宕神社に七年
間毎月参詣し、それを感謝し記念として延宝8(1680)年に草津追分に
建てたものがこの地に移されたという。



 写真が一枚欲しいのだが、ウォーキングの一団とかち合い、碑の回り
には人が群れている。説明が続いていて聞く人の塊が中々解けず、その
後も石碑を覗き込む人や一人一人の撮影が続く。
暫く待ったが、人が切れそうにもないので結局諦め先を急ぐことにした。(続)





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人形供養の寺・地蔵院(チョット一息)

2024-05-03 | Weblog
 「ブゥ~ォ~」「ブゥ~ォ~」「ド~ン」「ド~ン」

 静かな山里に重々しいホラ貝が響き、太鼓が鳴らされると三人の僧侶
の読経が始まった。毎年三月の最終日曜日、横尾山・静圓寺塔頭寺院・
地蔵院で行われる「人形供養祭」の始まりである。



 地蔵院は、江戸末期紀伊国の淡嶋神社の分身が祀られ創建し、所縁の
寺とされている。淡嶋神社では雛納め雛流し、お焚き上げの神事があり、
それに因み当院でも昭和62(1987)年より供養祭が行われるようになっ
たという。



 寺の本堂に設けられた緋毛氈のひな壇には、夥しい数のひな人形、武
者人形、かぶと飾り、羽子板、市松人形、西洋人形、様々なぬいぐるみ等
が所狭しと並べられている。桜の咲き始めた人形塚のある境内にも緋毛氈
が敷かれ、人形等が並び置かれている。



 境内中央には護摩壇が築かれ、ひな人形などが山積みにされている。
周りには「淡島丸」と書かれた小さな舟がいくつか置かれ、この中にも
多くのおひな様が乗り込んでいる。
どれも子供達の安寧を願い、成長を共に遂げた、掛け替えのない思い出
多い品々で、今その役割を負え、感謝の思いでお焚き上げの別れを待っ
ている。



 僧侶の読経が続く中、人形達は塩で清められ(浄塩の儀)、その後参
拝者への散華が行われる(散華の儀)。「お人形さん、ありがとう」と、
子供お礼の言葉、住職が願文を読み上げると護摩壇に火がつけられる。

 白く燻った煙は見る間に赤い炎となって燃え盛り、その中に人形も次
々に投入されていく。



 お焚き上げは3500体以上という。
供養の「添え護摩」もくべられると、お焚き上げは最高潮を迎え、護摩
壇を取り囲んだ参拝者は、燃えさかる人形たちに神妙な面持ちで手を合
わせ、別れを惜しんでいた。(完)

 「人形供養祭」 詳しくはこちらもお読みください。 



次週から「東海道歩き旅 近江国・後編」が始まります。



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横尾山・静圓寺(チョット一息)

2024-05-01 | Weblog
 岡山県の南東部に位置する瀬戸内市は、人口3.5万人余りの町である。
平成16(2004)年11月、邑久郡(おくぐん)の邑久町、牛窓町、長船
町が合併し、公募により「瀬戸内市」と決まり発足した。



 「牛窓」は瀬戸内海に面し、嘗ては外交使節・朝鮮通信使が寄稿する
港町として栄えた風光明媚な地で、今日では「日本のエーゲ海」と呼ば
れ、マリンスポーツなどが盛んだ。



 「長船」は鎌倉時代から始まった「福岡の市」が知られ、その様子は
国宝・一遍聖絵(いっぺんひじりえ)でも描かれている。
また古くから刀剣・備前長船が知られた刀の生産地でもある。



 「邑久」は叙情的な夢二式美人画、大正浪漫を代表する画家・竹久夢
二の生誕地で知られ、生家は今もこの地に残されている。
近くには夢二40代の頃、自らが設計し建てた自宅兼アトリエの少年山荘
も復元されている。

 そんな夢二が幼い頃遊び回っていたのが、夢二の菩提寺として知られ
る「横尾山・静圓寺」である。



 寺の創建は古く、天平2(730)年、行基によるもので真言宗の寺だ。
後に報恩大師により備前四十八カ寺の一つとされ隆盛を極めるも一時衰
退、桃山時代再建され、元禄年間に当地に移されたという。
昭和の初め頃までは、境内で会陽(裸祭り)も開かれていたと言うが現
在は無住である。



 標高数十メートル程、横尾の低い丘陵地の中にひっそりと佇む一山一
寺多院制の寺で、嘗ては寺領300町歩を有し33坊も数える大伽藍を構え
ていたが、火災などで多くは消滅した。

 現在に残るのは、光明院、安楽院、地蔵院の三院のみである。
その一つ地蔵院では、毎年三月末に「人形供養祭」が開催されている。(続)


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