雀の手箱

折々の記録と墨彩画

時雨

2009年11月12日 | 日々好日


 「しぐれ」とは、語感が好きな言葉です。昨日から時にやみながら降りそそぐ雨は、季節からも正に「時雨」なのですが、風も加わって「しぐれ」のイメージにしては少々荒すぎるようでした。
 俳句の季語では初冬なのでしょうが、まだ庭の樹木は時雨の雨に濡れたりないのか紅葉の色が冴えません。

 しぐれも“蝉しぐれ”ともなれば激しいものだし、“木の葉時雨”に通うような静かな雨に限定して「時雨」と呼びたいのも勝手な好みといわれるかもしれません。ですが、私の語感としての時雨は、やはり、時折さっと通り過ぎてゆく細い通り雨でなくてはならないのです。
 新聞を取りに出た門の前は衣ごと落ちた椎の実が地を埋め尽くす狼藉でした。

 今日は弟に「練習してみたら」といわれて、もらってきた素焼きに藁釉のかかった皿に鉄釉で絵付けを試みて見るつもりです。

 “時雨”といえば、昨年の冬、大琳派展を見に行った帰りに、三井記念美術館で見た「森川如春庵の世界」展で、赤樂の“乙御前”とともに展示されていた樂の名碗、光悦作の”時雨“があったのを思い出し図録を広げてみました。

 古人も「時雨」に寄せる思いを数々のこしています。
 万葉集 巻十 作者未詳
    夕されば雁の越え行く龍田山四具礼に競ひ色はまされり

 古今集 凡河内躬恒
    神な月しぐれにぬるるもみぢ葉はただわび人のたもとなりけり

 謡曲 雨月には
    「時雨せぬ夜も時雨する木の葉の雨の音づれに、老いの涙もいと深き・・・」と謡われて、袖を濡らす時雨は涙に通うものでもあるようです。



写真では黒樂の茶碗、”時雨”の銘の風合いが分かりかねるかもしれませんが、いかにも相応しい命名と感心しました。