先日、大根干しの模様を紹介した、秋田市南東部の「仁井田(にいだ)」地区。(以下、冒頭の略図参照。縮尺や方位は厳密ではありません。上がおおよそ北で秋田市中心部方向)
大雑把に言うと、仁井田は羽越本線、奥羽本線・県道横金線、雄物川に囲まれた一帯。隣接地名で言うと、牛島、楢山、上北手、四ツ小屋などと接する。
かつては河辺郡仁井田村で1954年に秋田市に編入されている。現在は住居表示実施済みのエリア(仁井田◯◯町など)と未実施のエリア(仁井田字◯◯)が混在する。
仁井田の近隣の宅地化された一角に「大住」や「御野場(おのば)」という新たな地名が与えられているが、これらの多くもかつては仁井田の一部だった。(大住は1976年、御野場は1988年に誕生)
「にいだ」という地名は各地に存在するが、「新しく開拓された田んぼ(農地)」を意味する「新田」が転じたものが由来。秋田市の仁井田も、雄物川の後背湿地を江戸時代に開墾してできた。
現在は「仁井田新田(にいだしんでん)」という町名があるけど、新しい田んぼの中のさらに新しい田んぼっていう意味だろうか。
地域を国道13号線が貫き、近年は宅地化が進んでいるが、それでも広大な田んぼが広がり、古くからの農家の大きなお宅も残る。
昨年は、雄物川沿いに羽越本線をくぐる市道の茨島・大住アンパス前後が開通し、新屋・茨島~大住・仁井田~御野場を結ぶ、13号線に次ぐ第2のルートもできた。
仁井田地区には市立の義務教育学校が3校ある。1つは仁井田本町にある仁井田小学校で明治15年開校とのことだから、合併前の仁井田村当時からの学校。
あとは仁井田字西潟敷に1980(昭和55)年に開校した大住小学校、そして仁井田字中新田に1984(昭和59)年に開校した御野場中学校で、どちらも宅地化による人口増加に伴って新設された学校なのだろう。
仁井田地区に住む小学生は住所によって仁井田小か大住小に、中学生は同様に御野場中か楢山の城南中に通うことになっているようだ。
仁井田小は10年ほど前は児童数が1000人を超える秋田県内最大のマンモス校だったそうだが、現在も仁井田・大住小とも600名超の児童数で、市中心部の小学校に比べると多く、今なおドーナツ化現象を感じさせる。
おもしろいと思ったのは、大住小も御野場中も、その所在地は大住や御野場ではなく、仁井田だということ。どちらもあとわずか(道路1本とか)で大住、御野場という、境界に近い位置ではあるのだが。
用地取得費用と通学の便を両立できる、有利な場所だったのだろうが、両校の周囲には若干田んぼが残っており、真冬の通学はつらそう。
また、以前から「仁井田中学校」が存在しないのが不思議だった。
調べてみると、かつては存在(今の仁井田小の場所?)しており、1966年に上北手中学校、四ツ小屋中学校とともに統合されて、城南中学校となっていた。
その18年後、城南中学校から独立して仁井田地区にできた中学校が御野場中学校なわけで、これは仁井田中の“復活”とも言えそうだが、校名は変わってしまったことになる。
開校当時はまだ地名としての「御野場」ができる4年前だったが、先に校名ができたということだろうか。(ちなみに、中心部の市立山王中学校も、地名の「山王」よりも先に命名されている)
それから、仁井田小学校、大住小学校、それに県立秋田南高等学校の校章は、いずれも秋田蕗の葉がモチーフになっている。
以上、仁井田のウンチクで、ここからが本題です。下の地形図をご覧ください。
国土交通省国土地理院「電子国土Webシステム」より抜粋・加筆
仁井田地区のうち、雄物川と国道13号線の間の地形図。グレーで示された住宅がびっしりと並んでいる。(上の図の範囲外ですが)田んぼが多く残る13号線の向こう側と比べると、こちら側の方が宅地化が進んでいるように見える。
そんな中、図中央の赤で囲った、大住の南側から「仁井田字大野」北側の一帯は家屋がなく、田んぼ(II)、畑(V)そして荒れ地(三本の縦線)の地図記号が記されている。
この場所は単なる農地ではなく、秋田県にとって、とても重要な場所と言えるかもしれない場所なのです。
なぜなら、1963(昭和38)年から2000(平成12)年まで、ここに「秋田県農業試験場」があったから。
秋田県農試は、現在は秋田市雄和へ移転し「秋田県農林水産技術センター農業試験場」という組織になっている。また、1963年以前にさかのぼれば、1891(明治24)年に設立された歴史ある組織で、秋田市泉などに所在したこともあった。
秋田市に長く住む年配の人は、(現在の試験場に対しても)「農事試験場」という呼称を用いることが多く、泉にあったことを記憶している人もいる。
現地へ。
大住小学校を背にして南東を見る
上の写真の道路・水路の左側が「大住」。国道13号線までびっしりと住宅が並ぶ。
一方、がらんとしている右側は「仁井田字小中島(こなかじま)」で、この一帯に試験場があったらしい。僕は試験場があった当時に何度か通ったのだが、記憶がない。
正面奥の道は比較的新しい(試験場移転後にできた?)らしく、試験場跡を抜けて仁井田新田経由で国道へ出られる。
写っているバス停は「大住団地」。ここは牛島経由大住・みなみ野団地線が通っていて、駅から来て大住団地を過ぎ(写真では左から来て右折して後方へ)みなみ野団地や西潟敷を経て、雄物川堤防近くの牛島西四丁目が終点。
かつては秋田市営バスが運行しており、1990年代初めまでは全便がここ大住団地で折り返していた。現在も、その回転地跡らしき場所(写真右のトラックが停まっている所?)が残っている。
さらにさかのぼれば「大野団地線」と呼ばれていたこともあるようだし、中央交通オリジナル路線である「大野線」(大野四区発着)との関係も興味深い。この辺はまた後日(リンクはこの記事末尾に)。
試験場だったと思われる場所は、地形図では「田」や「畑」の記号が並んでいたが、実際にはこんな感じ。
右奥は大住小学校
ほとんどがススキなどが茂る空き地になっている。地形図では「荒れ地」とするべきだろうか。また、広大な土地の周囲は、ぐるりと住宅地に囲まれている。
跡地内を狭いけれどまっすぐな舗装道路が何本か延びており、昼間は散歩やジョギングをする人が多い。雄物川堤防と並ぶ散歩道のようだ。車が通ることもあるので注意。
逆光ですがこっちは?
ズームすると、
鳥海山と秋田空港へ下りる飛行機
振り返れば、
太平山の山並み
秋田市内の平地において、鳥海山が見られ、かつ雄大な太平山も両方見られる場所はあまりないと思う。貴重な場所だ。
新しい道路の東端近く(上の方の地形図で赤い星印付近)=農試跡地の敷地を挟んで、大住団地バス停の反対側
左奥の建物は、JA秋田教育研修所(=上の方の写真で、大住団地バス停のポールの向こうにも、この建物の反対側が写っている)。その向こうには、秋田市の市民農園もあるようだ。また手前左は、ただの空き地っぽいが「秋田県職員グラウンド」と書いていたはず(昔は八橋にあったけど)。これらは、試験場跡地を転用したということだろうか。
そして、道端にこんなものが。
「秋田県農業試験場跡地/水稲品種「あきたこまち」誕生の地」
詳しい解説などはないものの、立派な石碑があった。
今でこそ当たり前だが、国ではなく県の試験場が作り、ユニークなネーミングが付けられたのイネの品種の先駆けであった「あきたこまち」。
1977年に福井県の試験場から譲り受けて秋田での育成が始まり、1984年に命名されたので、まさにここがその育成の舞台であったのだろう。
その後の全国各地での新品種育成の動き、秋田=こまちというイメージが定着したことを考えれば、日本の米と秋田県にとって、とても大事な場所ではないだろうか。
それにしても農試跡地。移転して10年も経つのに、秋田市中心部に近い広大な土地を遊休地にしておくのはもったいない。やはり宅地化されるのだろうか。
調べてみると、2008(平成20)年度の段階では「(跡地の)土地は約24haあり、このうちの約6haは将来の公共用地として確保し、残り18haは住宅用地として民間に売却する方針であります。この18haの用地のうち3haについては、平成19年度から市民農園として秋田市に貸付」などとなっていた。
そして、今年初めの段階では、太陽光、地中熱などの新エネルギーを使って、野菜や花を育てる実証プラントをここに作る計画があり、今年度予算にその策定関連経費100万円が盛り込まれているとの情報があった。
その後どうなっているのかは知らないが、少なくともあと何年かは、この状態が続くのだろう。
向こうの山は大森山
※仁井田についての続きはこちら
※農試跡地の一部には菜の花が植えられていた
大雑把に言うと、仁井田は羽越本線、奥羽本線・県道横金線、雄物川に囲まれた一帯。隣接地名で言うと、牛島、楢山、上北手、四ツ小屋などと接する。
かつては河辺郡仁井田村で1954年に秋田市に編入されている。現在は住居表示実施済みのエリア(仁井田◯◯町など)と未実施のエリア(仁井田字◯◯)が混在する。
仁井田の近隣の宅地化された一角に「大住」や「御野場(おのば)」という新たな地名が与えられているが、これらの多くもかつては仁井田の一部だった。(大住は1976年、御野場は1988年に誕生)
「にいだ」という地名は各地に存在するが、「新しく開拓された田んぼ(農地)」を意味する「新田」が転じたものが由来。秋田市の仁井田も、雄物川の後背湿地を江戸時代に開墾してできた。
現在は「仁井田新田(にいだしんでん)」という町名があるけど、新しい田んぼの中のさらに新しい田んぼっていう意味だろうか。
地域を国道13号線が貫き、近年は宅地化が進んでいるが、それでも広大な田んぼが広がり、古くからの農家の大きなお宅も残る。
昨年は、雄物川沿いに羽越本線をくぐる市道の茨島・大住アンパス前後が開通し、新屋・茨島~大住・仁井田~御野場を結ぶ、13号線に次ぐ第2のルートもできた。
仁井田地区には市立の義務教育学校が3校ある。1つは仁井田本町にある仁井田小学校で明治15年開校とのことだから、合併前の仁井田村当時からの学校。
あとは仁井田字西潟敷に1980(昭和55)年に開校した大住小学校、そして仁井田字中新田に1984(昭和59)年に開校した御野場中学校で、どちらも宅地化による人口増加に伴って新設された学校なのだろう。
仁井田地区に住む小学生は住所によって仁井田小か大住小に、中学生は同様に御野場中か楢山の城南中に通うことになっているようだ。
仁井田小は10年ほど前は児童数が1000人を超える秋田県内最大のマンモス校だったそうだが、現在も仁井田・大住小とも600名超の児童数で、市中心部の小学校に比べると多く、今なおドーナツ化現象を感じさせる。
おもしろいと思ったのは、大住小も御野場中も、その所在地は大住や御野場ではなく、仁井田だということ。どちらもあとわずか(道路1本とか)で大住、御野場という、境界に近い位置ではあるのだが。
用地取得費用と通学の便を両立できる、有利な場所だったのだろうが、両校の周囲には若干田んぼが残っており、真冬の通学はつらそう。
また、以前から「仁井田中学校」が存在しないのが不思議だった。
調べてみると、かつては存在(今の仁井田小の場所?)しており、1966年に上北手中学校、四ツ小屋中学校とともに統合されて、城南中学校となっていた。
その18年後、城南中学校から独立して仁井田地区にできた中学校が御野場中学校なわけで、これは仁井田中の“復活”とも言えそうだが、校名は変わってしまったことになる。
開校当時はまだ地名としての「御野場」ができる4年前だったが、先に校名ができたということだろうか。(ちなみに、中心部の市立山王中学校も、地名の「山王」よりも先に命名されている)
それから、仁井田小学校、大住小学校、それに県立秋田南高等学校の校章は、いずれも秋田蕗の葉がモチーフになっている。
以上、仁井田のウンチクで、ここからが本題です。下の地形図をご覧ください。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/e0/93fa74a8ad0db8a2daef4c68df2512a6.jpg)
仁井田地区のうち、雄物川と国道13号線の間の地形図。グレーで示された住宅がびっしりと並んでいる。(上の図の範囲外ですが)田んぼが多く残る13号線の向こう側と比べると、こちら側の方が宅地化が進んでいるように見える。
そんな中、図中央の赤で囲った、大住の南側から「仁井田字大野」北側の一帯は家屋がなく、田んぼ(II)、畑(V)そして荒れ地(三本の縦線)の地図記号が記されている。
この場所は単なる農地ではなく、秋田県にとって、とても重要な場所と言えるかもしれない場所なのです。
なぜなら、1963(昭和38)年から2000(平成12)年まで、ここに「秋田県農業試験場」があったから。
秋田県農試は、現在は秋田市雄和へ移転し「秋田県農林水産技術センター農業試験場」という組織になっている。また、1963年以前にさかのぼれば、1891(明治24)年に設立された歴史ある組織で、秋田市泉などに所在したこともあった。
秋田市に長く住む年配の人は、(現在の試験場に対しても)「農事試験場」という呼称を用いることが多く、泉にあったことを記憶している人もいる。
現地へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/bd/2a9708e0d6e80fa960f3bce9d0d92649.jpg)
上の写真の道路・水路の左側が「大住」。国道13号線までびっしりと住宅が並ぶ。
一方、がらんとしている右側は「仁井田字小中島(こなかじま)」で、この一帯に試験場があったらしい。僕は試験場があった当時に何度か通ったのだが、記憶がない。
正面奥の道は比較的新しい(試験場移転後にできた?)らしく、試験場跡を抜けて仁井田新田経由で国道へ出られる。
写っているバス停は「大住団地」。ここは牛島経由大住・みなみ野団地線が通っていて、駅から来て大住団地を過ぎ(写真では左から来て右折して後方へ)みなみ野団地や西潟敷を経て、雄物川堤防近くの牛島西四丁目が終点。
かつては秋田市営バスが運行しており、1990年代初めまでは全便がここ大住団地で折り返していた。現在も、その回転地跡らしき場所(写真右のトラックが停まっている所?)が残っている。
さらにさかのぼれば「大野団地線」と呼ばれていたこともあるようだし、中央交通オリジナル路線である「大野線」(大野四区発着)との関係も興味深い。この辺はまた後日(リンクはこの記事末尾に)。
試験場だったと思われる場所は、地形図では「田」や「畑」の記号が並んでいたが、実際にはこんな感じ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/76/d4b1908320692449002cb66fdc392ed2.jpg)
ほとんどがススキなどが茂る空き地になっている。地形図では「荒れ地」とするべきだろうか。また、広大な土地の周囲は、ぐるりと住宅地に囲まれている。
跡地内を狭いけれどまっすぐな舗装道路が何本か延びており、昼間は散歩やジョギングをする人が多い。雄物川堤防と並ぶ散歩道のようだ。車が通ることもあるので注意。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/d2/665c2290dbb484e1275c28af00df9b4e.jpg)
ズームすると、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/e3/51badb9e341ef5bfa334eb042c8ec871.jpg)
振り返れば、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/b0/c3a47f93f062a617a3241a4f95055e42.jpg)
秋田市内の平地において、鳥海山が見られ、かつ雄大な太平山も両方見られる場所はあまりないと思う。貴重な場所だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/0a/b609943c049428995bd3328fe0b226c9.jpg)
左奥の建物は、JA秋田教育研修所(=上の方の写真で、大住団地バス停のポールの向こうにも、この建物の反対側が写っている)。その向こうには、秋田市の市民農園もあるようだ。また手前左は、ただの空き地っぽいが「秋田県職員グラウンド」と書いていたはず(昔は八橋にあったけど)。これらは、試験場跡地を転用したということだろうか。
そして、道端にこんなものが。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/17/b7c27109a493a192cb74d27d282c0735.jpg)
詳しい解説などはないものの、立派な石碑があった。
今でこそ当たり前だが、国ではなく県の試験場が作り、ユニークなネーミングが付けられたのイネの品種の先駆けであった「あきたこまち」。
1977年に福井県の試験場から譲り受けて秋田での育成が始まり、1984年に命名されたので、まさにここがその育成の舞台であったのだろう。
その後の全国各地での新品種育成の動き、秋田=こまちというイメージが定着したことを考えれば、日本の米と秋田県にとって、とても大事な場所ではないだろうか。
それにしても農試跡地。移転して10年も経つのに、秋田市中心部に近い広大な土地を遊休地にしておくのはもったいない。やはり宅地化されるのだろうか。
調べてみると、2008(平成20)年度の段階では「(跡地の)土地は約24haあり、このうちの約6haは将来の公共用地として確保し、残り18haは住宅用地として民間に売却する方針であります。この18haの用地のうち3haについては、平成19年度から市民農園として秋田市に貸付」などとなっていた。
そして、今年初めの段階では、太陽光、地中熱などの新エネルギーを使って、野菜や花を育てる実証プラントをここに作る計画があり、今年度予算にその策定関連経費100万円が盛り込まれているとの情報があった。
その後どうなっているのかは知らないが、少なくともあと何年かは、この状態が続くのだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/95/631c1d322c966d21f7fcffe49b2ee3c3.jpg)
※仁井田についての続きはこちら
※農試跡地の一部には菜の花が植えられていた