「正しい裁判ができないなら、犯人を無罪にしてくれ、私の手で殺す」
お見事。当然なことだ。
当時18歳の少年が、強姦目的で水道水質検査と偽ってアパートに上がり込み、隙を狙って本村洋さんの妻・弥生さん(23)を殺害してから強姦し、母親にすがる11ヶ月の夕夏チャンを床に叩きつけ、泣きじゃくる子を紐で首を絞めて殺した。
そして二人の遺体を押入れと天井裏に隠し、弥生さんの財布を奪って逃げた犯人(26、当時18)。
その後、犯人は「最後に笑うのは悪だ。それが今の世の中だ」とうそぶいたそうな。裁判の過程でも悔悛の情はかけらも無い。
1999年4月に起きた事件が延々と裁判が続き、犯人も証拠もすべて揃っていながら8年もかかってまだ終わらない裁判というものは司法の怠慢と言うほか無い。また最高である最高裁判所が自裁もしないで高裁へ差し戻すというのは司法の怠慢・責任転嫁と能力不足を自ら証明するものだ。
今回、差し戻し広島高裁法廷には21人の被告人弁護団がついたそうな。
被告のデフェンスのために50人だろうが、100人だろうが弁護士が付くのはかまわないが、これらの弁護団の「傷害致死」という論法と、山口地裁と広島高裁の裁判官の「犯人は更正の見込みがなきにしもあらず」という無責任な見解は、この凶悪犯の持つ将来の危険可能性に誰が明確な責任を持つというのか。
人の家に偽計を持って押し入り、抵抗されれば容易に殺害し、しかも、その後に死姦をするとは鬼畜以下であり、どこをどのように理屈を付ければ「傷害が結果的に死をもたらした」などと言い立てることができるのだろうか。
罪は罰を負わなければならないという応報主義であるならば、この鬼畜とも言うべき犯人は迷うことなく死刑である。
弁護人が語る『傷害致死』とか『人の命を守る』とか『被告人は未熟な少年であった』という弁護は空虚であり、陳腐の極みである。 砂をかむような思いにかられるのは私だけであろうか。
正義は本村氏にある。
(ムラマサ、鋭く斬る)
お見事。当然なことだ。
当時18歳の少年が、強姦目的で水道水質検査と偽ってアパートに上がり込み、隙を狙って本村洋さんの妻・弥生さん(23)を殺害してから強姦し、母親にすがる11ヶ月の夕夏チャンを床に叩きつけ、泣きじゃくる子を紐で首を絞めて殺した。
そして二人の遺体を押入れと天井裏に隠し、弥生さんの財布を奪って逃げた犯人(26、当時18)。
その後、犯人は「最後に笑うのは悪だ。それが今の世の中だ」とうそぶいたそうな。裁判の過程でも悔悛の情はかけらも無い。
1999年4月に起きた事件が延々と裁判が続き、犯人も証拠もすべて揃っていながら8年もかかってまだ終わらない裁判というものは司法の怠慢と言うほか無い。また最高である最高裁判所が自裁もしないで高裁へ差し戻すというのは司法の怠慢・責任転嫁と能力不足を自ら証明するものだ。
今回、差し戻し広島高裁法廷には21人の被告人弁護団がついたそうな。
被告のデフェンスのために50人だろうが、100人だろうが弁護士が付くのはかまわないが、これらの弁護団の「傷害致死」という論法と、山口地裁と広島高裁の裁判官の「犯人は更正の見込みがなきにしもあらず」という無責任な見解は、この凶悪犯の持つ将来の危険可能性に誰が明確な責任を持つというのか。
人の家に偽計を持って押し入り、抵抗されれば容易に殺害し、しかも、その後に死姦をするとは鬼畜以下であり、どこをどのように理屈を付ければ「傷害が結果的に死をもたらした」などと言い立てることができるのだろうか。
罪は罰を負わなければならないという応報主義であるならば、この鬼畜とも言うべき犯人は迷うことなく死刑である。
弁護人が語る『傷害致死』とか『人の命を守る』とか『被告人は未熟な少年であった』という弁護は空虚であり、陳腐の極みである。 砂をかむような思いにかられるのは私だけであろうか。
正義は本村氏にある。
(ムラマサ、鋭く斬る)