偉人賢人先人の名言あれこれ・その7
「つもりちがい十ヶ条」(再)
gooブログの「アクセス解析」の「アクセスされたページ」欄を、時々覗くことがある。
「アクセス数」を気にしてでのことではなく、すっかり忘れてしまっているような、随分前に書き込んだ
古い記事にアクセスが有ったりするのを、楽しみにチェックしている風なのだ。
そんな記事に目に止まった瞬間、「エッ、こんな記事にアクセス?」と驚くと同時に、
「そう言えば・・・・」、記憶が蘇り、つい、自分もクリックし、改めて読み返してみたりしている。
「gooブログ」=「記憶力がまるで無くなっている爺さんの自分のための記憶補助ツール」等と、勝手に
決め込んでいる爺さんには、「アクセス解析」もまた、便利で有難いツール、
大いに活用しているという次第。
数年前に書き留めていた記事、「つもりちがい十ヶ条」に、アクセスが有ったことに、先日、気が付いた。
「おお!、懐かしい!」・・、早速、コピペ、リメイクすることにした。
そんな古い記事を、クリックひとつで引っ張り出して読んだり、加筆、訂正、修正、コピペ、リメイク等が出来るのも、ブログのメリット。従来の紙ベースの日記、日誌、備忘録、懐古録、雑記録の類では、絶対考えられないことであり、ブログを始める前までは、想像も出来なかったことである。今、出来ることは、やってみる・・、長生きした分、その時代を少しでも享受したいものだ等と、つぶやきながら・・・。
相互フォロワー登録している数多の方々のブログを拝読するようになって久しいが、何年か前のある日、ある方のブログ記事で、「元善光寺」に目に止まったことが有った。
それまで、すっかり脳裏から消え去っていた「元善光寺」だったが、「もしかしたら、あの元善光寺?」・・・・、記憶が炙り出てきたのだった。
40年数年前のこと、所属団体の親睦旅行で、1度訪ねたことのある、長野県飯田市にある、天台宗の寺院「元善光寺」だ。
今更になってネットで調べてみると、
「元善光寺」は、推古天皇の時代に創建された寺院。地元の住人、本多善光が、難波の堀江(現在の大阪)で、「善光寺如来の本尊」を見つけて持ち帰り、自宅の臼の上に安置したところ、臼が燦然と光を放ったことから、「座光寺」としたことが始まりとされている。その後、勅命によって、「善光寺如来の本尊」は、現在の長野市へ還座され、本多善光の名前を取って、「善光寺」と名付けられたため、もともとの「座光寺」は、「元善光寺」と呼ばれるようになったということである。
「一度詣れよ 元善光寺 善光寺だけでは 片詣り」
実は、ある方のブログで目に止まったのは、「元善光寺」の沿革等ではなく、元善光寺の住職が作られたという、「つもりちがい十ヶ条」の方なのだ。
40数年前に訪れた際には、全く気がつかなかったのか、全く関心が無かったのか、いただいた記憶がまるで無いのだが、いろいろなところで広く紹介されていることを、初めて知り、目から鱗・・となったのだった。
「つもりちがい十ヶ条」は、二行で一連、五連の語句になっており、一連毎、なかなか含蓄のある 人生訓のようで、ある種、ユーモアも有り、思わず頷いてしまう。
ついつい偏見と傲慢になりがちな我々に対する警句とも言える。なるほどと感じ入りながら、肝に銘じて暮らして行きたいものだと思ったものだ。
信州 元善光寺の「つもりちがい十ヶ条」
高いつもりで 低いのが 教養
低いつもりで 高いのが 気位
深いつもりで 浅いのが 知識
浅いつもりで 深いのが 欲望
厚いつもりで 薄いのが 人情
薄いつもりで 厚いのが 面の皮
強いつもりで 弱いのが 根性
弱いつもりで 強いのが 自我
多いつもりで 少いのが 分別
少いつもりで 多いのが 無駄
以後、上記をプリントし、壁に貼り付けて、座右の銘?となっている。
本当にそうように思えます。
自画自賛ではなく、他人からの気持ちを大事にもしたいです。
足らずを補う心かも知れませんね。
リアクションしておりますが、見落としがあったらご容赦くださいね。
まわりくどい説教よりも、ビビッと来る、十ヶ条ですね。
反省し、目標にしたいものです。
コメントいただき有難うございます。