「中学生日記より」
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のこと。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等も押し入れの奥に詰め込んでいたもので、その中に有った。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると すっかり喪失してしまっていた記憶が 断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。
その14 「オールド・ブラック・ジョー」と「身体検査」
昭和31年4月24日(火)、天気 晴、
1限目、社会、皇?(聖)徳太子、
2限目、社会、仏教の教え、
3限目、音楽、春のあした、オールドブラックジョー、英語の歌、
4限目、職業、にわとり調査発表(各)、
5限目、自習、身体検査、
6限目、自習、身体検査、
1、身体検査、
身長 148センチ、体重 37キロ、胸囲 70センチ、座高 80センチ、
担当教師の都合だったのかどうか、1限目と2限目、連続して「社会」の授業だったようだ。
3限目の「音楽」では どうやら フォスターの「オールド・ブラック・ジョー(Old Black Joe)」を 英語で習い始めたようだ。昭和30年代前半の北陸の山村の小さな中学校のこと、中学1年生で初めて ローマ字、アルファベット、大文字、小文字の書き方から習い始めたというレベルだった。しかも、当時の「英語」教師I先生が 後年の同窓会で打ち明けられた話も衝撃的で、思い出されてしまうが 実は、I先生は「代用教員」で 特別な英語教育も受けてもいなかったらしく、日々、NHKのラジオ英語講座を受講しながら 生徒に教えていたというから ビックリ、M男達の英語力のレベル、推して知るべし、単語帳で単語を覚えたり 文法等 多少理解は出来たとしても 発音、イントネーション等 まるでなっていなかったはずである。
それが 中学2年生になった初っ端、「音楽」の教科書には 英語で歌う「オールド・ブラック・ジョー(Old Black Joe)」が有って 英語の歌詞の歌を歌う等という初体験に面くらいながらも かなり気分が高揚していたような気もする。
多分 2ケ月間位 繰り返し、繰り返し 1小節毎、教えられたのだと思うが、教わった「音楽」担当教師S先生もまた 地元山村出身のおばあちゃん先生で とりあえずピアノを弾けることで「音楽」担当教師だったが、英語力が有ったとは考えられず 発音、イントネーション・・・、どんな教えられ方をしていたのか 今思うに、吹き出してしまいそうな情景だったに違いない。あれからも 60年余りの歳月が流れて すっかり 忘れ去っていたはずの 「オールド・ブラック・ジョー(Old Black Joe)」・・・、ところが、当時 余程一生懸命 覚えたのか、まるで ローマ字読みのような発音ではあるが、歌詞まで しっかり思い出せるから不思議なものである。
「ゴーンナザデー ウエンマイハートワズヤングアンドゲイ、ゴーンナーマイフレンズ フロムザコットンフィールズアウエイ・・♪」
Gone are the days when my heart was young and gay、
Gone are my friends from the cotton fields away、
Gone from the earth to a better land I know、
I hear their gentle voices calling Old Black Joe、
I'm coming I' coming for my head is bending low、
I hear those gentle voices calling Old Black Joe、
若き陽気な日々は 過ぎ去って、
綿花畑での 友人達も 逝ってしまった、
地上から離れ より良い場所へ、
彼らの優しい声が聞こえる、
オールド・ブラック・ジョー、
私も行くよ 直ぐ行くよ 頭を垂れて、
彼らの優しい声が 聞こえる、
オールド・ブラック・ジョー、
「オールド ブラック ジョー(Old Black Joe)」 (Youtubeから共有)
4限目の「職業」の時間には 「にわとり調査発表」と 書いてある。
M男の暮していた山村では 当時 ほとんどが農家で 当然 米、、野菜等は 自給自足の家が多かったが まだまだ貧しかった時代、肉や魚等 ふんだんに食することが困難だった。そんな栄養不足を補うためもあり 庭先や軒先に鶏小屋を設け 数羽の鶏を飼育している家が多かった。鶏の卵は貴重な栄養源で有ったが 特別な客人おもてなし等には その鶏をつぶして? 鶏肉として料理にもしていた。まるで記憶に残っていないが M男達は 各を回り 鶏飼育の実態調査をし、発表したようだ。
5限目、6限目は 授業無し、自習時間となって 各学年順に「身体検査」をしたようだ。
当時の中学生の平均値がどのくらいだったのか等不明だが、M男は 肋骨が見える程かなり痩せていて、しょっちゅう風邪を引いたり、熱を出して学校を休むひ弱な子供だった。