時々、何年も前に書き込んでいたブログ記事にアクセスが有ったことに気付くことがある。すっかり忘れてしまっている記事も有り、なんだか気になってクリックして、改めて読み返してみることもある。どうしてそんな古い記事にアクセスされたのかは不明だが、そのお陰で記憶が蘇ったりし、記憶力減退爺さんには有難いことだと思っている。デジタルのメリットでもある。コロナ禍になり、テレビ等でも、俄然、「再放送」が多くなっているような感じがしている昨今、ますますブログネタも少なくなってくる後期高齢者とて、そんな古い記事を、コピペ、リメイク(再編集)していこう等とも思っているところだ。
シュウカイドウ(秋海棠)の花が あちらこちらで見られる季節
6年前、2015年に書き込んでいた記事(再)
「秋海棠という花は」
記憶から完全に喪失していた物が、つい最近、不要雑物身辺整理中に出てきた。若かりし頃、若気の至りで、書きなぐっていたと思われる詩の類である。不揃いの便箋やレポート用紙等に、バラバラと走り書きしたような代物で、色褪せてカビ臭い茶封筒に詰まっていた。
そのまま、ゴミ箱行きにすれば良さそうな物だが、数十年ぶりに目にして、タイムカプセルを開けるが如く、ある種、感動さえ覚えてしまい、全てを捨て去る前に、「青春の思い出の欠片」として ブログに書き留め置こう等と考えてしまった。
今の爺さんには、気恥ずかしく、冷や汗が出るような、ぞっとするような、拙劣な詩の類ばかりだが、恥じも外聞もなく、そのまんま・・・・。
その中の1枚に、便箋に書かれた「秋海棠という花は」と題した詩が有る。その隅に「S.40.2.22」の日付が記されており、昭和40年(1965年)2月22日に書いたものなのだろう。今から 56年前・・か。まだ独身の頃だったなー。
「秋海棠という花は」
秋海棠と いう花は
薄紅いに 風薫る
秋の美空の 野の花か
我にも告げよ その詞(ことば)
秋海棠と いう花は
まだ見ぬ花と 覚しきに
美し(うるわし)乙女の 初恋の
甘き せつなき 花なりや
秋の刈穂の 夕間暮れ
薄紅いに 咲き染めし
秋海棠の 花のよな
やさしき君と 想いけり
悲しきかなや 美しく
秋海棠の花は 散り
はかなき花の 面影に
ひそかに覚ゆる 恋なれば
この詩が書かれた便箋には、もう1枚、「秋海棠」という詩が書かれた便箋が、貼り付いていた。我ながら感動したのは、この「秋海棠」という詩の方なのである。
これは、明らかに自分の筆跡とは違い、当時交際していた女性が、決別してからしばらくして、封書で送ってくれた物に違いないのである。
上の詩、「秋海棠という花は」は、どうも、この詩「秋海棠」をもらった後に、返歌?のつもりで 書いたような記憶が炙り出てきたのだ。
ただ、その女性に、「秋海棠という花は」を送ったのかどうかは、思い出そうとしても思い出せなく、多分、送れないまま、封印?したのかも知れない。
「秋海棠」
秋海棠の 花咲けば
去りにし人を 想いだす
小雨の降る 夕間暮れ
小暗き 緑の軒先に
そぼふる雨に 濡れながら
そぞろにふるう
その幻の 忘れ得ぬ
遠き昔の 夢なりき
当時はまだ、「秋海棠(シュウカイドウ)」という花を、実際、見たことも聞いたこともなく、どんな花なのかも知らなかったはずで、単にイメージを膨らませて、詩にしたのだと思う。
「秋海棠」の花言葉が、「片思い」「恋の悩み」「未熟」等であることを知ったのも、随分後年になってからのことで、「へー!、そうだったのか・・」、なんともまだるっこい男だったことが分かる。あな、恥ずかし・・。
爺さんの備忘録的花図鑑・「シュウカイドウ(秋海棠) 」
👇
こちら
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます