先月2023年6月に、「古い写真から蘇る思い出の山旅・安達太良山」で、(蛇足)として、高村光太郎の詩「智恵子抄」「あどけない話」を書き込んだことが有ったが、正直、高村光太郎に関しては、ほとんど無知で、気になっていたものだ。高村光太郎から、サッと思い浮かべることが出来るといえば、せいぜい、詩「智恵子抄」と詩「道程」位なものであるが、いずれも、中学生の頃の教科書に載っていたような気がする位で、ほとんど覚えてもいない。
今更になってネットで調べてみると、
高村光太郎は、1883年(明治16年)3月13日生、1956年(昭和31年)4月2日没(享年73歳)の詩人、歌人、彫刻家、画家だった。
彫刻家の高村光雲の長男に生まれ、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)彫刻科に入学したが、文学に関心を寄せ、与謝野鉄幹の新詩社の同人となったり、ニューヨークへ1年2ヶ月留学したりした。帰国後、旧態依然の日本美術界に不満を持ち、父親にも反抗、東京美術学校教職も断り、しばらくは、かなり烈しい耽溺生活に陥リ、精神的な危機を経験する。
「道程」は、1914年(大正3年)3月に、「美の廃墟」で発表されたが、元々、102行に及ぶ長い詩だったのだという。その詩、同年10月に出版された、詩集「道程」では、よく知られている、下記、9行の詩になって、発表されている。
高村光太郎は、1883年(明治16年)3月13日生、1956年(昭和31年)4月2日没(享年73歳)の詩人、歌人、彫刻家、画家だった。
彫刻家の高村光雲の長男に生まれ、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)彫刻科に入学したが、文学に関心を寄せ、与謝野鉄幹の新詩社の同人となったり、ニューヨークへ1年2ヶ月留学したりした。帰国後、旧態依然の日本美術界に不満を持ち、父親にも反抗、東京美術学校教職も断り、しばらくは、かなり烈しい耽溺生活に陥リ、精神的な危機を経験する。
「道程」は、1914年(大正3年)3月に、「美の廃墟」で発表されたが、元々、102行に及ぶ長い詩だったのだという。その詩、同年10月に出版された、詩集「道程」では、よく知られている、下記、9行の詩になって、発表されている。
「へー!、そうだったの」・・・、である。
同年12月には、福島県出身の長沼智恵子と結婚、その智恵子とは、1938年(昭和13年)に死別。1941年(昭和16年)8月には、詩集「智恵子抄」を出版している。
1945年(昭和20年)4月、東京大空襲でアトリエや作品が焼失、岩手県花巻の宮沢清六(宮沢賢治の実弟)方に疎開。戦後は、花巻郊外に、粗末な小屋を建てて移住、約7年間、戦争中、戦争協力の詩を作った自責自省の念を持ち、独居自炊の暮らしを送ったが、肺結核で苦しむようになったのだという。
1945年(昭和20年)4月、東京大空襲でアトリエや作品が焼失、岩手県花巻の宮沢清六(宮沢賢治の実弟)方に疎開。戦後は、花巻郊外に、粗末な小屋を建てて移住、約7年間、戦争中、戦争協力の詩を作った自責自省の念を持ち、独居自炊の暮らしを送ったが、肺結核で苦しむようになったのだという。
「道程」
高村光太郎
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
(ネットから拝借画像)
(参考)
「道程」 高村光太郎
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青空文庫
振り返り記事「古い写真から蘇る思い出の山旅・安達太良山」
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こちら
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