たけじいの気まぐれブログ

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三人の先生の記憶(再)

2023年03月05日 15時33分55秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

gooブログの「アクセス解析」の「アクセスされたページ」欄を、時々覗くことがあるが、随分前に書き込んだ古い記事で、すっかり忘れてしまっているような記事に、アクセスが有ったりする。「エッ?」と驚くと同時に、「そう言えば・・・・」、記憶が蘇り、つい、自分もクリックし、改めて読み返してみたりすることがある。
先日、5年も前にブログ・カテゴリー「M男のあの日あの頃」に書き込んでいた記事、「三人の先生の記憶」にアクセスが有ったことに気が付き、「おお!、懐かしい!」・・、早速、コピペ、リメイクしてみた。
そんな古い記事を、クリックひとつで引っ張り出して読んだり、加筆、訂正、修正、コピペ、リメイク等が出来るのも、ブログのメリット。従来の紙ベースの日記、日誌、備忘録、懐古録、雑記録の類では、絶対考えられないことであり、ブログを始める前までは、想像も出来なかったことである。今、出来ることは、やってみる・・、長生きした分、その時代を少しでも享受したいものだ等と、つぶやきながら・・・。


三人の先生の記憶(再)

昭和20年代、M男は、北陸の山村で、1学年1クラスの小さな小学校に通った。戦後まもなくの時代であり、表日本(太平洋側)や都市部の目覚しい復興をよそに、裏日本(日本海側)の、特に山村の暮らしの水準は上がらず、格差が大きかった時代だった。
同級生のほとんどが農家の子供であり、着る物も、教科書も、上の子のお下がりだったり、近所の年上の子から譲られた物で間に合わせていた子供も多かった。
小学1年生の学年集合写真が1枚、アルバムに貼られているが、皆、栄養失調気味に痩せており、着ている物はみすぼらしく、足元を見ると、ほとんどの子供は、藁草履を履いている。


記憶では、小学校2年、3年頃には、ゴム製の短靴が普及してきて、藁草履を履くことは無くなったように思うが、小学校入学当時には、まだ藁草履を履いて登校していたことになる。
ほとんどが農家だった北陸の山村、雪に閉ざされる長い冬の間、大人達には、藁草履をはじめ、すんぶく(雪靴)莚(むしろ)米俵カマス(袋状)等、藁を使った生活必需品を作る仕事が有ったように思う。秋の稲収穫時に出る大量の藁を納屋等に保管しておき、藁の束を槌で叩いて柔らかくし、手間暇かけて、編んだり、織り上げるのである。そのひとつ、藁草履をまだ履いていたのだった。今の時代、趣味、手工芸としての藁草履作りをされている映像等をよく見ることがあるが、僅か70数年前の農村では、実用品だったのである。
当時、通っていた小学校では、毎年、新学期に、学年集合写真を撮っていた。写真機(カメラ)等持っている家庭等無かった時代、子供の頃の写真等、ほとんど残っていない時代、その学年集合写真は貴重な写真となっている。その学年集合写真から炙り出される記憶の一つに、三人の担任の先生が有る。

(1)温もりの有った O先生
小学1年の担任の先生である。幼稚園も保育園も無かった時代、M男にとって、いきなり、初めての先生で有り、インパクトが強かったのは当然のことだが、まるで子供のM男から見ると、かなり年輩の女性、おばあちゃん的な温もりのある先生だった。落ち着いた物腰で、父母からも信頼が厚かったような気がする。
1年生、2年生、2年間の担任である。


ほとんどの記憶は、忘却のかなたであるが、曖昧ながら思い出すことがある。
雪が降り始める、初冬の頃だったかも知れない。
当時、まだ、長靴をおいそれと買う余裕の無い家が多く、大人も子供も、すんぶく(自家製藁靴)を履いていたが、有る日、どこからかの救援物資的なものなのか?寄附的なものなのか?分らなかったが、1学年に、2足の長靴が割り当てられ、くじ引きで当たった者が、もらえる?ということだった。M男は、外れた。
M男の家は、学校から最も遠い集落に有り、その大変さをO先生は分かっていて、多分、当たった家の人に相談し了解を得て、1足の長靴を、M男にあてがったのだ。M男の家でも、その当たった家にお礼の挨拶に行ったりしたようだったが、同級生の一部からはブーイングが起こり、「贔屓だ!、贔屓だ!」と言われた。以来、「O先生は、M男を贔屓している」というレッテルが貼られ 成績でもなんでも、そんな目で見られたのだった。

(2)H先生が Y先生になった、
3年生、4年生、2年間、担任だった先生は、まるで子供のM男から見ても、まぶし過ぎる程の美人先生だった。もしかしたら、教育学部卒業後の新任先生だったのかも知れないし、ど田舎の小さな小学校には、「はきだめに鶴」のような存在に感じたのかも知れない。

透き通るような声で、一見、つんとすまして、1年生、2年生のO先生に比べると、やや冷たそうな雰囲気が有ったが、子供のこと、本当はどんな女性だったか等、分るはずもなかった。
多分、4年生になってからのことだったと思うが、朝礼で、「H先生は、今日から、Y先生に名前が変わります」と、校長先生から発表が有った。
結婚されたことによるものだが、しばらく、なにか変な感じで過したように思う。
教室では、大きな変化は無かったように思うが、Y先生がますます綺麗になっていったような記憶がある。

(3)初めての男先生、K先生、
5年生、6年生、2年間 担任だった先生。ごっつい感じの朴訥とした青年教師、小さな小学校故、人懐っこく、担任になる前から、子供達には人気があった先生であり、5年生、6年生は、K先生と決まっているようなもので、極く自然に違和感無しで受け止めたものだった。


断片的なことしか思い浮かばないが、或る日、ある教科の時間に、「今日は、本を読んでやる」と言い出し、決して滑らかな読み方ではなく、つっかえつっかえ、先生らしくない読み方であったが 読んでくれたことがあった。
未だに覚えているが、多分、途中までだったと思うが、「三銃士」だった。
M男の通った小学校は、同じ構内に中学校が有り、校庭、体育館(講堂)、教員室、トイレ、全て共用している学校だった。M男が、中学に進学しても、運動会、文化祭、学芸会等は、小中合同のため、K先生とは、中学卒業まで関わりが有り、その後、ずっと年賀状のやり取りをし、それが数年前まで続いた。K先生は、若くして退職し、市街地に住宅を新築したものの、郊外の農地付きの元の古い家で暮らし続け、「百姓をしている」と年賀状に記してきたことが思い出される。

O先生、Y先生、K先生、三人の先生は、9年間、一緒に過ごして同級生にとって、共通する思いがあり、20数年前に一度開かれた地元での同級会に、初めて招いたことが有った。その時は、それぞれ、それなりにお元気で喜んで出席していただき、建て替え前の古い校舎を一緒に訪ねたりしたものだったが、以後、音信不通になって久しく、存命なのかどうかも分からない。今や、懐かしい断片的な記憶が残っているだけになってしまった。


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Unknown (yottin)
2023-03-05 18:47:02
こんばんは
私の時の小学校は1学年6~7クラス、全校で2000人のマンモス校でした(昭和32年)
私も抄~2年は中年の女先生で、ほかの同級生クラスは若手の先生ばかりでうらやましかったが、あとで思えば祖父母がいない私にとって、祖父母代わりの優しい愛情ある先生でした。
両親も「Sばあちゃ先生」と言って親しんでいました。
ずっと年賀状交換をしていて、高校生になっても時々バスに乗って先生の家に遊びに行きました。
先生が亡くなったときには火葬場から遺骨を自宅まで運ぶという因縁までありました。
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yottinさん、こんばんは、 (takezii)
2023-03-05 22:29:54
都会のマンモス校でしたか。
1学年1クラス、200人足らずの小さな山村の学校とは、えらい違いですね。
小さな学校は、小さな学校ならではな良さも有ったのではないかとも思っていますが、学力レベルに関しては、高校に進んだ際に、思い知らされました。
小学生、中学生の頃の先生の断片的な思い出って、皆さんそれぞれ持っておられるでしょうね。
あの頃はまだ、今の子供達より、ずっと家族的で、濃い関係が有ったのではないかとも思います。
コメントいただき有難うございます。
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Unknown (etegami0101)
2023-03-06 08:55:43
たけじいさん、こんにちは😃
たけじいさんと私は大体同年代かと思われますが、私の記憶はほとんど忘却のかなたへ飛んで行って
しまいました。
「贔屓」と言う言葉が懐かしかったですね。
昔話を又、聞かせててください。
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etegami0101さん、こんにちは、 (takezii)
2023-03-06 10:07:54
昨日のお昼、何食べた?・・も
さっと出て来ない老脳ですが、古い日記や記録、写真等を見ると、喪失していた断片的な記憶が炙り出てくるから不思議ですね。
いつも覗いていただき有難うございます。
繰り返し繰り返し同じことをつぶやくようになっていますが、よろしくお願いします。
コメントいただき有難うございました。
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Unknown (ソラ)
2023-03-06 10:40:20
懐かしいですね、全てがそうそうと本当に私は漁村の方でしたが全く同じ事を経験してます。長靴 くじ引きで当たらなかったけどまさに私の代弁してくれてるみたい
昭和22年一年生の入学の時校長先生が今日から?6年生と中学3年になりますと、何のことかわからなかったけど6.3.3制度の事だったんですね、断片的に思い出しました
あの頃はみんな同じ様な事を経験してますよね、不思議と先生達の名前も覚えてますね。
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ソラさん、こんにちは、 (takezii)
2023-03-06 15:51:26
今の時代と比べて考えると、何もかも大変な時代だったはずですが、懐かしくも有り、古き良き時代だったかも知れない等とも思ってしまいます。
物質的に恵まれた現在の子供達には、遠い昔話に聞こえるでしょうね。
コメントいただき有難うございます。
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