丸岡城を訪れたのは3度目である。この城での記憶は先日も書いたが犬山城に続いて2番目に古い天守閣であることともう一つ、小さな城で階段が急勾配であることである▼写真1は天守閣正面の石段を上りながら撮影したものである。城は3階建てである。写真2がその急な階段で2階から見下げる感じで写している。綱が見えるがこの綱を持ちながら上がり下りする。写真3は”2階のつくりの説明書き”を撮したものである。通し柱はなく1階を土台に建てられているようだ。天守閣の高さは22mで1~3階の総床面積は65坪のようだ▼ところでこの城、柴田勝豊の後に4人ほどを経て本多家の1分家(本多家は6家)が城主として入っている。本多家の系図を写真4に示す。少し見づらいが縦の真ん中の列がそれで本多家初代城主の成重が4段目(色変わり)に見える。余談だが、最右列の4人めに忠勝の文字が見える。忠勝は伊勢桑名藩初代藩主となるが娘小松姫が徳川家康の養女として眞田信之に嫁いでいる。徳川四天王と呼ばれたのはこの本多忠勝である▼丸岡城の本田家初代城主成重(なりしげ)は幼少の頃は”お仙”と呼ばれていた。”一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ”の日本一短い手紙の名文は成重の父本多作左衛門重次(しげつぐ)が妻に宛てて書いたもである。
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