昨日は一昨日のゴルフ日和から一転、朝は雨だった。農作業はお休みと散髪そして眼医者更にはその近くにある海津市の歴史資料館に行ってみようと家を8時半過ぎに出て、先ずは床屋へ出かけた。10時前に終わり時間も早いので、海津市の歴史資料館へ行くことにした▼10時20分過ぎ、到着した。八重の桜でお馴染みの松平容保の出の高須城があったことから来たかったところである。高須藩については次回、掲載する。写真1がその建物全景である。この地域は土地が低かったこともあり洪水から守るため輪中堤が築かれている。だが土地の低さから雨水なども溜まりやすく稲田は堀田(ほりた)と呼ぶ工法で水面より高くし作られていたようだ。写真2がそれである▼入り口から入ると2階になる。懐かしいものを2つ見つけた。写真3は餅つき機である。長く伸びたきのえの紐で吊るされた部分を足で踏むと杵が上がり、離すと勢い良く落ち、モチをつく。徳島の田舎住まいの中高生時分、隣の家で毎年、踏む役を手伝ったことを思い出す。正月前の年中行事だった▼写真4は魚、主に鰻を取る竹で作った筒である。右側からミミズ、魚のあら・内蔵などを入れて吊るし括る。吉野川で右を上流側として一晩、鎮めておくと、川を上る鰻が左側(下流側)から入る。、入ると出られない仕組みになっており生け捕りできる▼”うえ”あるいは”うげ”とここでは呼んでいたようだが、私が持っていたものはもっと細く”もじ”と呼び、2~3本で鰻を捕まえていた。空の時もあるが大体、大小混ぜて2~3匹の成果だった。が、1度だけ持ち上げると重く、振るといつもガサガサと言うのに何の音もしない。岸に上がり括った上部を解き、開け振るとドサッと20数匹の鰻が出てきた。驚くやら嬉しいやら、その時の鰻を追いかけた光景が今も感覚とともに蘇る。15、16歳の忘れられない思い出である。
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