正直書きづらい。後半ついに付いて行けなくなったから。恥ずかしい話しだ。押し寄せる言葉の氾濫に必死で食らいついていこうとしたのだけど、だめだった。
退屈したなんてことじゃもちろんない!初めての野田マップ体験、衝撃的だった。
中でもびっくりしたのは、集団演技の迫力だった。書道教室の塾生たちの動きとか、『信』という文字を掲げてのデモ行進とか、サリン事件に遭遇する地下鉄駅の人々とか、どうしてこんな表現が思い付くのか?と圧倒される思いだった。集団の動きの持つ破壊力。不思議な動きの衝撃力。
例えばこうだ。サリンの袋を傘で突こうとする信者の向こうで、電車を待つ人たちが紗幕ごしに浮かび上がる。その人たちがゆっくりと屈んでは伸び上がりしているのだ。この何気ない動きが、次に待ち受ける惨劇を見事に表現していた。デモの動きも見る者を不安に陥れる不思議な動きを作り出していた。(振り付け:黒田育世)信者が窓から放り出された瞬間に浮かび上がる折り重なって倒れている被害者の群れ!
やっぱりそうなんだ!これまで『キル』と『カノン』を置農演劇部で演出してきて、野田さんの芝居は台本に書かれていない、あるいはト書きにたった一行書かれた指示をどう表現するかが勝負なんじゃないか?と直感的に感じてきたことが、ああ、まさしくだったと感じた瞬間だった。
舞台の作りもとても刺激的だった。前の部分は開帳場(八百屋舞台)で客席に向かって傾斜、それもかなりきつい傾斜で、椅子として使われたキャスター付きトランクが勝手に転がるのを野田さんが何度も抑えるほどだった。こんな傾斜舞台を作ったのは、当然、書道が話しの柱に成っていたからだ。書は当然平面に書く。それは立てない限り客席からは見えない。その難点を克服するのがこの八百屋舞台だ。さらに、一点一画まで見せたいとうことで、工夫されていたのがビデオだ。舞台の真上にカメラを設置して撮影し、筆の動きまで逐一それをその舞台上に映写していたんだ。まったく、こんなこと、どうやって思いつくっていうんだ?!
さらに効果的だったのが、紗幕の扱いだ。前部分の開帳場は一端切れて落ち込み、その後ろに舞台が設定されて、そこに、上の駅の群衆のような集団が一瞬にして浮かび上がり、消え去るという工夫だった。これも、素晴らしい効果を上げていた。
そんなこんなで、目を見張り、心をおっ広げ、口をあんぐりの連続だったのだが。残念ながら、せりふには付いていけなかった。理由はなんだろう。
一つは僕にギリシャ神話の素養がまったくなかったことだろう。この芝居はオーム真理教の誕生から膨張、そして、破滅にいたる課程が描かれているのだが、教祖が心髄する教義が仏教ではなくギリシャ神話とされている。アポロンやダフネー、アフロデティが神話の世界を背負いつつ登場する。これがわからない。
次に野田さん特有の自在なイメージの飛翔にある。野田さんの脚本は、一度読んだくらいじゃとうてい理解できない。何度も何度も繰り返し読み見込み、稽古することで豁然と開けてくる世界なんだ。だから、付いて行けなかった。
芝居がはねて、さっそくしたこと、それはこの作品の台本が載った雑誌「新潮」を買ったことだった。だって悔しいもの、口惜しいもの、癪だもの、わからないままほっとておくって。で、帰りの新幹線の中でこれを読み終えた。
わかりやすいじゃないの!すっきりしてるじゃないの!
本読んでから見れば良かったって思った。けど、待てよ、そんな台本読んでから芝居見ろなんて要求できんのか?舞台は舞台で完結だろうが。だとすれば、も少し、観客が理解できる工夫が必要なんじゃないか?でも、幕が下りた瞬間にすべて了解できたってのも、底の浅いはなしだしなぁ。
宮沢リエの、心にざっくり切り込んでくるせりふに押しまくられたんなら、それはそれでいいんじゃないか。理解できないままに、重くたしかな充実感が残ったならそれはやはりそれでいいのだと思う。
それにしても、宮沢リエ、変わったなぁ!!何年か前、『父と暮らせば』でか細い演技してた時とは大違いだ。カーテンコールでも、最後のせりふに心を占領されたままだった。
面と向かわなくちゃならない、現代史の落石、オーム。野田さんは、時代としっかり向き合っているよなぁ。