ステージおきたま

無農薬百姓33年
舞台作り続けて22年
がむしゃら走り6年
コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

衝撃!でも追走断念!!野田秀樹『ザ・キャラクター』

2010-07-18 22:09:16 | 劇評

 正直書きづらい。後半ついに付いて行けなくなったから。恥ずかしい話しだ。押し寄せる言葉の氾濫に必死で食らいついていこうとしたのだけど、だめだった。

 退屈したなんてことじゃもちろんない!初めての野田マップ体験、衝撃的だった。

 中でもびっくりしたのは、集団演技の迫力だった。書道教室の塾生たちの動きとか、『信』という文字を掲げてのデモ行進とか、サリン事件に遭遇する地下鉄駅の人々とか、どうしてこんな表現が思い付くのか?と圧倒される思いだった。集団の動きの持つ破壊力。不思議な動きの衝撃力。

 例えばこうだ。サリンの袋を傘で突こうとする信者の向こうで、電車を待つ人たちが紗幕ごしに浮かび上がる。その人たちがゆっくりと屈んでは伸び上がりしているのだ。この何気ない動きが、次に待ち受ける惨劇を見事に表現していた。デモの動きも見る者を不安に陥れる不思議な動きを作り出していた。(振り付け:黒田育世)信者が窓から放り出された瞬間に浮かび上がる折り重なって倒れている被害者の群れ!

 やっぱりそうなんだ!これまで『キル』と『カノン』を置農演劇部で演出してきて、野田さんの芝居は台本に書かれていない、あるいはト書きにたった一行書かれた指示をどう表現するかが勝負なんじゃないか?と直感的に感じてきたことが、ああ、まさしくだったと感じた瞬間だった。

 舞台の作りもとても刺激的だった。前の部分は開帳場(八百屋舞台)で客席に向かって傾斜、それもかなりきつい傾斜で、椅子として使われたキャスター付きトランクが勝手に転がるのを野田さんが何度も抑えるほどだった。こんな傾斜舞台を作ったのは、当然、書道が話しの柱に成っていたからだ。書は当然平面に書く。それは立てない限り客席からは見えない。その難点を克服するのがこの八百屋舞台だ。さらに、一点一画まで見せたいとうことで、工夫されていたのがビデオだ。舞台の真上にカメラを設置して撮影し、筆の動きまで逐一それをその舞台上に映写していたんだ。まったく、こんなこと、どうやって思いつくっていうんだ?!

 さらに効果的だったのが、紗幕の扱いだ。前部分の開帳場は一端切れて落ち込み、その後ろに舞台が設定されて、そこに、上の駅の群衆のような集団が一瞬にして浮かび上がり、消え去るという工夫だった。これも、素晴らしい効果を上げていた。

 そんなこんなで、目を見張り、心をおっ広げ、口をあんぐりの連続だったのだが。残念ながら、せりふには付いていけなかった。理由はなんだろう。

 一つは僕にギリシャ神話の素養がまったくなかったことだろう。この芝居はオーム真理教の誕生から膨張、そして、破滅にいたる課程が描かれているのだが、教祖が心髄する教義が仏教ではなくギリシャ神話とされている。アポロンやダフネー、アフロデティが神話の世界を背負いつつ登場する。これがわからない。

 次に野田さん特有の自在なイメージの飛翔にある。野田さんの脚本は、一度読んだくらいじゃとうてい理解できない。何度も何度も繰り返し読み見込み、稽古することで豁然と開けてくる世界なんだ。だから、付いて行けなかった。

 芝居がはねて、さっそくしたこと、それはこの作品の台本が載った雑誌「新潮」を買ったことだった。だって悔しいもの、口惜しいもの、癪だもの、わからないままほっとておくって。で、帰りの新幹線の中でこれを読み終えた。

 わかりやすいじゃないの!すっきりしてるじゃないの!

 本読んでから見れば良かったって思った。けど、待てよ、そんな台本読んでから芝居見ろなんて要求できんのか?舞台は舞台で完結だろうが。だとすれば、も少し、観客が理解できる工夫が必要なんじゃないか?でも、幕が下りた瞬間にすべて了解できたってのも、底の浅いはなしだしなぁ。

 宮沢リエの、心にざっくり切り込んでくるせりふに押しまくられたんなら、それはそれでいいんじゃないか。理解できないままに、重くたしかな充実感が残ったならそれはやはりそれでいいのだと思う。

 それにしても、宮沢リエ、変わったなぁ!!何年か前、『父と暮らせば』でか細い演技してた時とは大違いだ。カーテンコールでも、最後のせりふに心を占領されたままだった。

 面と向かわなくちゃならない、現代史の落石、オーム。野田さんは、時代としっかり向き合っているよなぁ。

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小学生とワークショップ『ベジタブル!ワンダフル!!』中郡小公演

2010-07-17 18:42:10 | 教育

 今日は、えーーーっ、何回目になるんだ?多分、9回目くらいかな?町内の中郡小学校での公演だった。最近多くなってきたPTAのふれ合い行事に招かれた。児童100人くらい、それとほぼ同数の保護者。体育館の薄べりの上に親子が仲良く並んで座って観劇だ。

 ふれ合いだからなぁぁぁ、意図はわかる。よくわかる。でも、演じるこっちとしては、ちょっとやりにくいかな。だって、子どもたち大人に挟まれて行儀良くなってしまうもの。面白い!って思って大笑いするとこ、くすり!で終わらせてしまうもの。ピーマン嫌いな子手を挙げて、ってけしかけられたって、親の顔伺ってしまうもの。子どもは子どもで座ってくれてたら、もっともっと盛り上がっていただろうな。でも、結構笑いもあり、最後の最後まで夢中になって見てくれた。

 今回は新しい試みがあった。小学校から提案してくけたんだけど、終わった後で小グループで感想を述べ合う機会を設けてくれた。全校生徒が感想をしゃべる、これなかなかいい。それも、1年生から6年生さらに高校生も加わっての縦割りだから。小規模校の良さだよね。

 感想が終わったら一緒にリクリエーションって話しだったので、それならミュージカルのフィナーレをグループごとに練習しましょう、って逆提案。ワークショップの時間はわずかに30分!この短時間の中で、小学生たちにダンスを一曲教えた。おっと、僕じゃない!部員たちが手分けしてだ。中にはそっぽ向いたり、ふざけたりする子がいるかな、なんて心配はまったく不要!みんな顔を輝かせて高校生のリードに従っていた。そして、仕上がった?後は発表会。前に立った演劇部員の見よう見まねだったけど、みんな懸命に踊っていた。

 子どもたちにとっても、高校生から直に教わるってとっても新鮮だっと思うし、演劇部員にとってもいろんな個性の子どもたちをリードしていくってのは、とても勉強になったんじゃないだろうか。ある意味、公演以上に大切に機会だったように思う。

 4月の南陽市金山公民館での演歌ショーでは、地域の大人たちとこんにゃくほおばりながら語り合えたし、今日は小学生と交流できたし、「地域に飛び出せ!演劇部」のスローガンは着実に成果を生み出しつつあるね。東京でも、公演の後夕食交流会が予定されているし、高畠の老人大学でもお年寄りとお茶飲みをすることになっている。こんな異世代交流をどんどん増やしていきたいもんだなぁ。

 さて、今日の公演のもう一つの目玉は、1年生が初めてキャストとして舞台に上がったことだ。サードバージョンの台本はとうに渡してあったけど、動きを付けて稽古したのはわずかに2日!他にダンスの練習が3日!しかも、3チームで交代なんだから。メチャクチャな話しだ。がたがたになるんじゃないかと不安だったけど、上手く乗り切ってくれた。1年生のために仕込んだギャグも見事的中したしね。

 こうやって強引に無理矢理引きずり回して新しい舞台が出来ていく。冒険だけど、生徒たちは結構頑張って乗り越えてくれるもんだ。その精一杯がまた新しい力になり、新しい伝統に成っていくんだ。ということで、明日はコントの新作をわずか3時間で仕上げることになっている。さあて、二つめのハードル、見事超えることができるかなぁぁぁぁ?

 追伸!今回も子どもミュージカル晴天伝説は健在でした。またまた、荷物部室に片づけた直後に雨降り!さてさて、この晴天伝説、どこまで記録更新できるのでしょうか?

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面白い!けど長かった!!ナイロン100℃『2番目、或いは3番目』

2010-07-15 22:47:56 | 劇評

やっとケラさんの芝居、つまりナイロン100の舞台を見ることができた。

作品は『2番目、或いは3番目』

もう僕にとっては伝説的な人たちなんだ。犬山犬子、みのすけ、三宅弘城、大倉孝二、・・・・

なんたってチケット手に入らないからね。年に1度か2度、それも仕事の合間、隙間を見つけて出かける東京観劇旅行だからね。まず、ナイロン100とか野田マップとか新感線とかは無理なんだな。だから、今回はとっても期待して見に行った。

 

   下北沢本多劇場。うん、ケラさんの芝居ならやっぱここだろ!って感じだ。観客は、若い!多分僕が最年長で、他には白髪のおじん一人見つけただけだった。昼間見た新国立小ホール『エネミー』(作:蓬莱竜太・演出:鈴木裕美)とは大違いだ。あっちは圧倒的に団塊世代だったもの。

 

   もちろん満席!超満席!!固定席以外に折りたたみ椅子並べて、さらに階段にもずらっと座らせて、人気の高さを改めて実感した。菜の花座もこんな風に、都会の若い観客の前で演じられたらきっと反応も違うよな、なんてちらりと妄想してしまった。

 

   さて、舞台だ。一口で言えば終末世界もの。地震だか、風水害だか、戦争だかわからないが、ともかく壊滅的打撃を受けた町に、同じく被害を被った町から5人の男女がボランティアとしてやってくる。その町は地図にも載っているのかどうか、住民たちも町の名前を知らない。なのに、打ちひしがれているはずの住民はやたら明るく笑顔でボランティアを歓待する。ボランティアが持ち込む食料が黴だらけなのに、住民が出す食事はなんだかわからないがとっても美味しい。この不可解感、不条理感、倒錯感、見事な舞台装置と相まって、ぐぐっと観客を引きつける。

 

   先に装置について言ってしまうと、廃墟の町、客席の上にまで吊られた壊れかけのアーケードなど実に見事に作られている。さらに、その装置群の輪郭にはLEDライトが仕込まれていて、エンディングでは光の線描画となって物語の不思議さを印象付けていた。うーん、手がこんでる。でも、あれだけのものなのに、意外と使い方は限定されていて、上手の家屋の二階が使われたくらいで、せっかくあんだけのもの作ったのにもっと工夫していろいろ使えなかったのかな?って不満ってほどじゃないが、もったいないなぁって感想は持った。

 待ちに待ったナイロン100、笑いの方はさすがだ。なるほどこんな風な笑いなのか!っていろいろ勉強になった。全体としてテンポが速い。つっこみも間髪入れず観客と反応の素早さを競い合っているようだ。ギャグの作りかたとしてはそれほど真新しいものじゃないって感じた。いろんな種類の笑いが仕込まれているんだけど、ふふふっとか、にやりなんて笑いは少ない。馬鹿馬鹿しくて大笑いって笑いが主体だ。それもかなりのナンセンス。例えば、大倉孝二扮する爺さんが少女を婆さんと勘違いするとか、恋仲になった二人を引き裂くのが、恋人を前妻の名で呼びかけたり、寝言だったり、とか、生き埋めされた爺さんが、突如××(これから見る方のために伏せ字)から出てくるとか、かなり強引なんだよ。こういうものが馬鹿受けしてるってことにちょっと複雑な気持ちになった。

 もちろん、演技の巧みさがその爆笑を支えているわけだけど、なんとなく馴れ合いの臭みもにおってきた。ファンてのは有り難いもんで、最初から暖かい気持ちで見守ってくれている。ナイロン100の場合、常連客は、さあ、笑うぞ!って身構えてる感じがするんだよね。

 

 それはともかく、犬山や大倉、三宅の存在は、もう舞台に出ているだけで楽しい。とりわけ大倉。彼の大げさな演技、不思議な仕草と表情。不自然な大声と爺っぽさなんか無視したしゃべり方。これは本当に面白く楽しめた。

 

 次に物語り。濃厚に漂う終末感、得たいの知れない不気味な世界、抹殺される人々と暮らし、など共感できる点は多い。でも、どれも何となく既視感があるんだ。最終章で解き明かさされる疑似家族なんてのもそれほどのインパクトはない。しかも、それが上手に使われていたかって言うと、かなり疑問だ。この終末世界の構造についてもほとんど説明がない。敢えてぐだぐた言わないんだってことなんだろうけど、物語好きの僕としは、これだけの設定するんなら、そこから今の時代を撃つような鋭いつっこみが欲しい。何も構造をかっちり示せってことではないんだが、もっとこの不可解世界を掘り起こしていく何かが必要なんじゃないかと感じた。

 

 上演時間は三時間超!これだけ時間を掛けてんのに、エピソードが少なすぎじゃないか。二つの恋物語と唐突な若者の暴力(これ正直よくわかんない!)なんだか、笑いをたくさん埋め込むために、物語が体よく利用されたって感じがした。などと、飛ぶ鳥落とす(古いねたとえが)ケラさん相手に大それたことを!と思わないでもないが、まあ、感じたところだから仕方ない。やっぱり僕はケラファンにはなれないってことなんだろうな。

 そうそう、そういえば、置農演劇部でも菜の花座でも、ケラさんの脚本は手付けていないんだった。やっぱり相性が悪いってことなんだろうね。まっ、僕なんかと相性が悪かろうと、ごちゃごちゃ批評されようと、ケラさんには羽虫の羽音ほどにも感じないことなんだけどね。

最後に帰りがけに耳に挟んだ若い観客の感想。「長かったねぇ、でも面白かった」この微妙な表現、これに尽きるよね。

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戦わない若者のリアリティ『エネミー』

2010-07-14 22:50:16 | 劇評

二年半ぶりの新国立劇場小ホール。前回は演劇部の生徒たちと東京町田公演の合間に『DUST』を見にきたんだった。声がしっかり伝わるホールで客席数も適度、好きな劇場の一つだった。そう!だった!!なのにぃぃぃ!あぁ、もう、これひどいぞ!金返せ!!

 今回はともかく金かけないってことで、バルコニー席っての買ったんだけど、見えない!舞台の上手半分が見えない!いや、みんな普通に椅子に深く腰掛けてくれていれば、見えないわけじゃない。この芝居、上手に応接セットが仕込まれていて、ここでの演技がやたら多いんだ。見えにくいから舞台側に座った人がちょっと身を乗り出す。次の人は見えないからさらにちょっと乗り出す。さらに次、さらに次、僕の隣のおばさんなどその上オペラグラスを使っての観劇。張り出した腕がさらに邪魔をする。もう、見えない!声しか聞こえない!こんなの有か?!負けずに乗り出せばいいじゃないかって、それができる性格じゃないわけよ、僕は。後ろの人が見にくくなるの無視して乗り出すなんてとってもできません。「見えねえゾ、爺い!」なんて舌打ちされるの耐えられないもの。しかも、後ろ若い女の子だし、っておばさんならいいのか?いや、いけませんよ、だれだって。苛立ちもピークに達して、よし、幕間の休憩時間にバルコニー抜け出して、立ち見でもいいからB席に行こう!って決意を固めていたら、なんと隣のおばさん、さっさとB席に移ってちゃっかり座って見ていた。おばさんは強し!

 と、艱難辛苦で見た舞台だったけど、芝居の方の出来は最高だった。まずは、台本。定年退職を迎え自分へのご褒美にヨーロッパ旅行の計画に熱中する父親。長男は派遣切りにあってコンビニでバイトの日々。30の大台?過ぎて娘は婚活に血道を上げている。そんなそこそこ裕福な家庭に突然大学時代の仲間二人が闖入してくる。40年前に別れた時の約束だという。父親と二人の男は三里塚闘争に関わった“同士”だったのだ。二人はその後も農業をしながら反体制運動を続けている。一方父親は、現体制を認めて生きていくことを選んだ人間だ。半ば強引に入り込んだ男たちはいつの間にか家族の心を掴み、ずるずると居座っていく。

 父親はそんな彼らを苛立たしく思うが、出て行けとも言い出しかねているうちにいつしか互いの生き方を巡っての激しい対立へと突き進んでいく。巻き込まれる家族たち、中でも目的もなく先の見通しもなしにネットゲームで時間をつぶす息子をどう生き返らせるのか、両者は真っ向からぶつかる。

 台本の巧みさに舌を巻くのは、この緊迫したにらみ合いの最中に突然ゴキブリ騒動を持ち込む当たりなのだ。娘の悲鳴を聞いて駆けつける男たち、大騒ぎしてゴキブリを追い回すうちに男たちの張りつめた気持ちは溶けていく。上手い!さらに唸るのは、ゴキブリ退治に使うものが、男は父親が大切にしているヨーロッパ旅行案内で、父親が手にするのが息子が一生懸命考えているバイトのシフト表なのだ。ゴキブリをたたきつぶしたシフト表からゴキブリの体液を拭き取りながら、息子の静かな反撃が始まる。反撃とは言えないな。積もり積もった感情があふれ出る。シフトにはコンビニで働く人たちの暮らしや希望が組み込まれている。厳しい生活の中で許される限りシフトに入って働きたい人たち。そんな切ない願いを少しでも叶えてあげたいとシフト組みに四苦八苦する息子。彼らと争わず勤務時間を譲ってしまう息子。心やさしき若者の苦悩が、わき上がる感情を抑えつつ語られる。それまで一方的に責められていた息子の絞り出すような言葉がいつしか父親たちの対立感情を和らげていく。実によく書けている。

 さらに感心するのは、どの立場の人間も断罪、糾弾することなく、それぞれの生き方を一人一人自然な言葉として語らせているところだ。会社人間として働き通した父親の自信と自負、そして闘争や理想に生きた仲間への後ろめたさ。家族を養い続けたことに素直に感謝しつつ、変革志向の男たちの生き方にも共感を示す妻。40年間を闘いに捧げた男たちの明るさ、熱意、寂寞。中でも絶妙なのは、父親世代の罵倒に近い非難や無理矢理の誘いにも、反論するわけでもなく、自分を主張するわけでもなく、なんとなく流されていく息子の姿。これがやっぱり一番のリアリティを感じさせる。作者の世代だから。草食系と呼ばれる若者の姿、何かが足りないことを感じつつも、進むべき道を見いだせない若者の苦しさ。彼が今できることは、みなが満足してくれるシフトを作り上げることなのだ。先を見通し、理想を持つことの難しい時代だからこそ、まずは、足下のちっぽけな現実に取り組むことから始めるしかないだろう。しかもそれは決して馬鹿にされるべきことではない、そんな作者の意図がしっかりと伝わってきた。

 役者たちはそれぞれに持ち味を出した素晴らしい役作りをしていた。まるで、当て書きしたかのような嵌り具合だった。でも、やはり息子礼司役の高橋一生だろう。演技とも地とも見極めがたい抑えた表現にはとても引きつけられた。

 観客について言えば、これはもう圧倒的に団塊世代だった。男性が多いのも、この内容からして当然だろうな。前に見た上海バンスキングも同窓会のノリって書いたけど、この公演は全共闘世代の同窓会なんだろうな。会社人間として生きた父親、闘争に一生を捧げた男たち。この両極の間のどこにに自分の人生を見定めるか、舞台を見つつ振り返っているのだろう。そう、それは僕自身の姿でもある。

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どうやら終了!『つぶやき六角堂』

2010-07-12 22:53:37 | 地域文化

 今回はゆとりだった、って言えるはずだったのに、前日夜になって急転!とうとうゲネが通せないっていう非常事態発生。夕方まで、ってことはつまり立て込み、シュート、色作り、音合わせまでは順調だった。こんな計画通りの仕込みって初めて!ってのんびり夕飯食いに出てしまったくらいだもの。

 でも、そうはすんなり行かないのが菜の花座!ゲネプロ開始時刻の7時なっても役者の何人かが来ていない。さらに30分、まだ来ない。さらに1時間、残るは1名、まだ来ない。携帯に電話、出ない。仕方なく職場に電話。なんとまだ仕事場にいるって!!!ありえねぇぇぇぇ!

 ようやく始まったゲネも、退館時間がきて途中中断。みんなぴりぴり、当然出来なんて良いわけがない。せりふは飛ぶは、会話はとぎれるは、声は出ないし、演技も平板。これで本番できんなか?

 本番当日は30分でメイクと衣装付けして9時半からゲネの続き。さらにあちこち抜きながらの2回目ゲネ。昼食とって本番は1時から。良いわけないよ、こんな状態で、声は出ない、表現は単調、笑いは起きないし、しんみり部分も心に迫ってこない。こんなに詰まらない芝居だったのか???ケーブルテレビ局が録画してたっていうのにね、がっかり、うんざり。

 観客も少ないし、盛り上がらないし、昼公演終わった時には、どっと疲れが出た。もういいか、惰性でもう一度やって終わり。でも、役者の方が納得いかない表情。ダメだしの後10分休憩して、稽古開始。ともかく声をしっかり、せりふを明瞭にってことだけを徹底した。

 で、夜公演。こんなにも違うものなのか!生き生きと会話は飛びはねる、受け答えも実に自然だ。それでいて、コミカルなおかしみもある。しっとり部分はじんわりと心に響いて来る。ああ、そうなんだ、これだよ、これ!やっぱりいい芝居じゃないか。良くできた台本じゃないか。演出も悪かないじゃないか。

 良かった!納得、満足、充実感のうちにカーテンコール。拍手に観客の感動が忍び込む。暖かい。力強い。うん、そうなんだ、これなんだ。やっぱり面白い芝居だったんだ。観客はいつも以上に少なかったけど、そんなことは問題じゃない。自分が良かったと思える舞台に仕上がったってことが何よりなんだ。たとえ少数でも、感激してくれた人がいたってことの喜びにじんわりと浸った。 

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