歴歩

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羅州市五良洞 甕棺を割って築造した 甕槨墓 初めての発見

2008年07月03日 | Weblog
 国立羅州文化財研究所は3日、昨年調査を始めた羅州五良洞土器窯址群(史跡456号)に対して今年2次発掘を実施した結果、窯2基とそれと関連した遺跡3基、そして5世紀中葉以後7世紀初期の間に作ったと推定される古墳10基を確認したことを発表した。
 古墳の種類は築造方式や材料で見ると、甕棺墓が1基、石室墳が4基、石槨墓が2基、そして甕棺かけらを利用して墓室を作ったいわゆる甕槨墓が3基。甕槨墓옹곽묘は、大型甕を連想させる甕棺を割って粉々にした後、レンガや石のようにきちんと積んで、墓室を築造した古墳で、初めて確認された。
 五良洞遺跡一帯が石材を求めるのが難しい反面、甕棺は比較的簡単に得られたため、石材の代わりに活用したようだと話す。
 調査の結果、甕棺のかけらは墓室の4壁面はもちろん、底にも使われていた。特に壁面に使われた甕棺のかけらは、相当数が△(三角)模様である。
 8号甕棺墓の底では金で作ったイヤリング1点が発見された。
五良洞遺跡は、去る2001年墳墓公園を作る工事中に無数の甕棺破片と窯遺跡が露出して、本格発掘調査が実施された。 その結果この一帯には19基の窯遺跡が分布するということが明らかになり、東新大博物館がこのうち5ヶ所を全面発掘した結果、内部で無数の甕棺破片が発見されたため大型甕棺を焼いた窯である可能性が台頭し、史跡に指定された。
 しかし、窯構造と規模で見ると、甕棺を焼いた施設だと見ることは難しいし、甕棺破片は単純に甕棺底や壁面を積むのに使った建築部材であるという反論もまた侮れない。
 研究所は、今年の調査でこれらの論争解明に重点を置いて窯の焼き跡2ヶ所を発掘した結果、2ヶ所皆丘陵傾斜面と直角を成す方向で長軸(長さ10m、幅1m50㎝前後)に設けられた登窯であることを確認し、その内部はやはり多量の甕棺かけらと一般の他の土器3,4点と共に収拾しただけで、ここが甕棺を焼いた所だと確定できなかったと話した。
 これらの窯は、断面形状がゆるやかなU字型を形成して、燃料を入れて火をつける入口に近い燃焼部と土器を入れて焼く焼成部の間には段差を用いた構造であることが調査結果明らかになった。
[参考:聯合ニュース]
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和歌山市 太田・黒田遺跡 建物描いた土器片、県内初出土

2008年07月03日 | Weblog
 和歌山市教委は2日、市内の太田・黒田遺跡から弥生時代中期のものとみられる建物を描いた弥生土器片を発掘したと発表した。土器片は壺の胴部で縦約5cm、横約6cm、厚さ約1cm。切妻屋根を持つ高床倉庫の建物と、それを支える柱の一部が描かれている。土器は祭礼に使われたとみられ、使われた土から、この土地で作られたもの。
 県内では動物を描いた土器の出土は5点(シカ4、水鳥1)あるが、建物は初めて。同遺跡の絵画土器はこれで合計6点目となる。
 昨年4月から8月にかけての第59次発掘調査で、遺跡東端の弥生時代の小穴からほかの土器片とともに出土した。
 太田・黒田遺跡は紀ノ川下流の和歌山平野の中央に位置し、近くには岩橋千塚古墳群、日前宮がある。弥生時代から江戸時代にかけての大規模複合遺跡。南北に約850m、東西に約500mの範囲を持つ。
 同遺跡では、これまで竪穴住居、井戸、水田などの遺構、埋葬施設が確認された。高床式倉庫の柱穴とみられる遺構も見つかっており、祭祀が土器を使って行われていたとみられる。
[参考:産経新聞、読売新聞]
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