宮崎県教委は14日、日向市の塩見城跡の中山遺跡から土製キリシタンの破片2片が見つかったことをと発表した。1点は聖母マリアとみられるベールをかぶった女性の顔の一部が、もう1つにはバラとみられる葉が浮き彫りになっている。戦国時代末期から江戸時代初期の16世紀後半ものとみられる。キリシタン遺物は金属製のメダルや首飾りなどが大分県や長崎県などで出土しているが、宮崎県では初であるし、土製は国内初出土。
遺物は、昨年7月、中心部の3分の1が欠けた状態で出土した。粘土を釜で焼いた瓦質状で、元の大きさは推定で縦約6cm、横約7.2cm、上部にひもを通す穴がある。土の質からみて国内で作られた可能性が高いとする。
同県教委は、欧州の16世紀前半の聖母マリアとみられる女性聖人の絵画を基に描かれている可能性が高いことから、出土品が壁に掛けるなどして信仰の対象にした「プラケット」とみている。
[参考:共同通信、西日本新聞]
■塩見城
築城時期 明確ではないが、南北朝時代に宇佐八幡宮の神官を出自とする土持氏の築城とする。
1198年源頼朝より日向国地頭を御家人であった工藤祐経を祖とする伊東祐時に与えられる。
1457(長禄元)年の小浪川の戦で土持氏が滅びると、伊東氏のものとなり、族将の右松氏の居城となる。
城主・右松四郎左衛門尉(?~1578)の時に、1977(天正5年)伊東家滅亡し一時島津方に付くが、1578(天正6年)大友宗麟の日向侵攻の際にその先鋒となり耳川の戦いで討死。その後島津支配となり、島津一族の吉利忠澄、忠張が城主となる。
豊臣秀吉の九州仕置で延岡藩領。1615年、一国一城令で廃城となった。
■中山遺跡
塩見城跡に向かう道の右手、標高5~38mの尾根上に位置する。旧石器時代の剥片や古墳時代の須恵器も出土するが、圧倒的に中世時代の陶磁器が多く出土し、同時代の掘立柱建物跡が出土している。城の一部、あるいは屋敷地と考えられている。
昨年度の発掘調査では、13世紀後半から14世紀前半に中国で生産された青白磁の水差し「龍首水注(りゅうしゅすいちゅう)」の破片が出土している。
■大友宗麟(1530~1587)
戦国時代のキリシタン大名として有名。イエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルの知己を得たことがキリスト教との出会いであり、その27年後の1578(天正6年)7月にキリスト教の洗礼を受けた。
1582(天正10年)に天正遣欧少年使節では、伊東マンショを名代として派遣した。
■伊東マンショ/祐益(1569~1612)
伊東マンショの母親の血筋が大友宗麟と繋がる。前出の工藤祐経を祖とする。
1582(天正10年)に天正遣欧少年使節では、ヴァリニャーノ司祭ら同行のもと、大友宗麟の名代として派遣された。
ローマでは、当時のローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。1590年7月長崎に帰り着いた。
なお、ローマに派遣されていた時に描かれた伊東マンショの肖像画が、ローマ教皇の子孫宅で見つかるという記事が2005年11月29日の朝日新聞に掲載され話題になった。
キーワード: 伊東マンショ、伊東祐益
遺物は、昨年7月、中心部の3分の1が欠けた状態で出土した。粘土を釜で焼いた瓦質状で、元の大きさは推定で縦約6cm、横約7.2cm、上部にひもを通す穴がある。土の質からみて国内で作られた可能性が高いとする。
同県教委は、欧州の16世紀前半の聖母マリアとみられる女性聖人の絵画を基に描かれている可能性が高いことから、出土品が壁に掛けるなどして信仰の対象にした「プラケット」とみている。
[参考:共同通信、西日本新聞]
■塩見城
築城時期 明確ではないが、南北朝時代に宇佐八幡宮の神官を出自とする土持氏の築城とする。
1198年源頼朝より日向国地頭を御家人であった工藤祐経を祖とする伊東祐時に与えられる。
1457(長禄元)年の小浪川の戦で土持氏が滅びると、伊東氏のものとなり、族将の右松氏の居城となる。
城主・右松四郎左衛門尉(?~1578)の時に、1977(天正5年)伊東家滅亡し一時島津方に付くが、1578(天正6年)大友宗麟の日向侵攻の際にその先鋒となり耳川の戦いで討死。その後島津支配となり、島津一族の吉利忠澄、忠張が城主となる。
豊臣秀吉の九州仕置で延岡藩領。1615年、一国一城令で廃城となった。
■中山遺跡
塩見城跡に向かう道の右手、標高5~38mの尾根上に位置する。旧石器時代の剥片や古墳時代の須恵器も出土するが、圧倒的に中世時代の陶磁器が多く出土し、同時代の掘立柱建物跡が出土している。城の一部、あるいは屋敷地と考えられている。
昨年度の発掘調査では、13世紀後半から14世紀前半に中国で生産された青白磁の水差し「龍首水注(りゅうしゅすいちゅう)」の破片が出土している。
■大友宗麟(1530~1587)
戦国時代のキリシタン大名として有名。イエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルの知己を得たことがキリスト教との出会いであり、その27年後の1578(天正6年)7月にキリスト教の洗礼を受けた。
1582(天正10年)に天正遣欧少年使節では、伊東マンショを名代として派遣した。
■伊東マンショ/祐益(1569~1612)
伊東マンショの母親の血筋が大友宗麟と繋がる。前出の工藤祐経を祖とする。
1582(天正10年)に天正遣欧少年使節では、ヴァリニャーノ司祭ら同行のもと、大友宗麟の名代として派遣された。
ローマでは、当時のローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。1590年7月長崎に帰り着いた。
なお、ローマに派遣されていた時に描かれた伊東マンショの肖像画が、ローマ教皇の子孫宅で見つかるという記事が2005年11月29日の朝日新聞に掲載され話題になった。
キーワード: 伊東マンショ、伊東祐益