歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

明治初期、廃仏棄釈の京都 調査報告書発見

2008年07月22日 | Weblog
 明治15年(1882)、政府の指示で行われた京都府の社寺建築調査報告書が京都市内で見つかった。
 近代日本初の本格的な文化財調査となる貴重な資料で、「廃仏棄釈」などにより荒廃した明治初期の京都の社寺の姿を詳細に描き出している。
 報告書「400年前社寺建物取調書」は、縦27cm、横18cm、紙数は382枚。
 「応仁の乱」以前から残るとみられる72社寺に対して、自己申告で建物の概要、建築図面、境内図などが収められている。
 当時の建築家ゆかりの個人宅に保管されており、府立総合資料館(左京区)が購入した。
 東山区の東福寺は前年の火災直後で、現在の本堂がある場所は「仏殿」と「法堂(はっとう)」の基壇のみ、庫裏や方丈も「焼跡」と記される。
 上京区の千本釈迦堂本堂は、屋根の軒先を仮設の柱が支える状態。
 宇治市の平等院鳳凰堂は、周辺に草や木が生い茂る。
 舞鶴市の金剛院三重塔は最上部の相輪が欠けた状態が描かれるている。
 右京区の広隆寺桂宮院本堂は「聖徳太子が自ら土木を運んで建立、1280年前の旧観を保つ」と伝承そのままの報告をしている。
 本調書は、同資料館の文書閲覧室で閲覧できる。
[参考:京都新聞]

廃仏棄釈 
 明治維新後に成立した新政府が慶応4年(1868)に発した太政官布告「神仏分離令」、明治3年(1870)に発した詔書「大教宣布」など神道国教・祭政一致の政策によって引き起こされた仏教施設の破壊などを指す。
 決して仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動と呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまった。
 その運動が全国的に展開され、寺の荒廃や文化財の海外流出につながった。社寺の領地が明治政府に没収されたことで、財政基盤も失われた。

神社合祀
 その後、廃仏棄釈のみならず神社を合祀して数を減らす、あるいは経費を集中させることで神社の継続的経営を確立させるために、1906年(明治39年)に神社合祀令が出された。
 特に合祀政策が著しかったのは三重県で、県下全神社のおよそ9割が廃されることとなった。博物学者・民俗学者の南方熊楠が「神社合祀に関する意見」などを著したり、植物学者・松村任三博士宛に2通の書簡(南方ニ書)を出したことで有名。
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源氏物語「大沢本」  鎌倉中期の写本全54帖 70年ぶり確認 

2008年07月22日 | Weblog
 大沢本として存在は知られながら70年近く行方不明だった「源氏物語」全巻の写本が個人宅に所蔵されていたことが分かった。所有者の調査依頼を受けた国文学研究資料館(東京都立川市)伊井春樹館長が大沢本と確認し、公開に消極的だった所有者を、「千年紀の節目であり学術的にも意義がある」と、ねばり強く説得し、21日に大阪府立大で開かれた講演会で「幻の大沢本源氏物語」と題して発表した。

 大沢本は、奈良にあった旧家・大沢家に伝わった源氏物語で、豊臣秀吉より拝領したと伝えられる。
 五十四帖すべて揃い、体裁は縦、横が約16cmの四角い升形(ますがた)本。各帖の布表紙は緑地の金襴緞子(きんらんどんす)で装丁され、本文(ほんもん)は料紙に筆写されている。
 秀吉が大沢護久に下賜した伝承を記すほか、題字は公家の近衛信伊(のぶただ)、金泥の下絵は狩野山楽が書き、写本の筆者は西行や寂蓮、後醍醐天皇らとしている。伝承や筆者についての学術的根拠はない。

 「大沢本」は、明治40年、古典学者の小杉榲邨(すぎむら、1834−1910年)が美術品として鑑定し、学界に紹介した。昭和14、15年には源氏学者の池田亀鑑(きかん、1896-1956)が調査途中で大戦をはさんで行方不明になったと書き残して以後、行方不明となり“幻の写本”となっていた。
 伊井さんは、小杉の覚書「鑑定雑記」を調べたところ、1907年11月に「大沢氏の子孫が持ち込んだ『源氏』写本を鑑定」という記述を発見し、かねて興味を抱いていた。
 今回、「源氏」本文と共に、江戸時代の鑑定家らによる鑑定文(極め)が付属しており、さらに明治期の美術鑑定の権威・前田香雪や古典学者・小杉榲邨が1907年に書いた鑑定書が添えられていた。小杉らの鑑定書が、「鑑定雑記」の記述と一致することから大沢本と認められた。

 平安時代に書かれた紫式部の自筆本は現存しないし、鎌倉時代前期に藤原定家が写した「前田本」などが最も古い。
国文学者池田亀鑑の分類によると、定家が校訂した「青表紙本(あおびょうしぼん)」、同時期に源光行らが校訂した「河内本(かわちぼん)」の2系統と、それ以外の雑多な別本がある。
 池田亀鑑が青表紙本をより純良な本文と判断して以来、その忠実な写本とされる古代学協会(京都市中京区)所蔵の「大島本」(室町時代)を中心とした本文が広く読まれている。
 しかし、青表紙本の「大島本」は室町後期の写本である上、遡っても定家が手を加えた源氏物語でしかなく、紫式部による原本ではない。江戸時代に版本が普及するまで筆と墨で書き写された。書写による誤りや脱落、書き込みにより、平安末期の源氏物語はさまざまに違った本文になっていたとみられている。

 大沢本は全54帖がそろっているが、一度に写されたものではなく、不足分をかき集めた「取り合わせ本」。平安時代の源氏物語の本文の状況を伝えるとされる別本が二十八帖もあった。書写された時期は各帖まちまちだが、「葵」の巻は字体などからも鎌倉時代までさかのぼるとみられる。全体の3分の2は鎌倉時代の写本。室町末期に体裁が整えられたらしい。
 定家の校訂前の多様な本文を伝えている可能性が高い。今後、別本の研究が進めば、紫式部の源氏物語に近づいていくかもしれない。それだけに、「大沢本」の発見の意義は大きい。
 鎌倉時代の別本を多く含む写本は、重文の「陽明文庫本」と「保坂本」(東京国立博物館蔵)が知られ、「それらに匹敵するか、それ以上の価値がある」(伊井館長)という。

 最も注目したのは、「夕霧」巻の末尾の部分だ。「なにはの浦に」と書かれ、そこだけ丸で囲ってある。この文言が付いた本文は、ほかに例がない。
 伊井さんは「丸は削除の印。本文は最初の写本の段階で書かれたものと思われるが、丸はいつ書かれたのかわからない。和歌を引用したのだろう」とみる。平安中期の和歌集「古今和歌六帖」の歌「おしてるやなにはのうらに焼くしほのからくもわれはおいにけるかな」からの一句ではないかとみている。 夕霧は子だくさんで3人の妻ともなかなかしっくりいかず、疲れた中年になっていた。「なにはの浦」という句を含み、老いを嘆く意味のこの引歌(ひきうた)によって「自分も年をとったなあ」という夕霧の心情を表現した可能性がある。井伊さんは「この1句を補うことによって、新しい夕霧の姿が見てとれるのではないか」という。
 大沢本によって提示された新たな別本資料は定家を超え、原作者の紫式部に近づく“夢”の一歩。伊井さんの期待は膨らむ。
[参考:毎日新聞、産経新聞、京都新聞、読売新聞、朝日新聞] 
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