歴歩

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慶州 皇南洞古墳 新羅墓から仙薬「雲母」がまた出土

2008年07月10日 | Weblog
 国立慶州文化財研究所は9日、新羅時代古墳文化を代表する慶州 皇南洞古墳 황남동 고분で、5-6世紀に築造された新羅時代積石木槨墳から、道教で永遠不死の仙薬の代表薬として取り上げ論じられる雲母という鉱物質がまた出土したことを発表した。
 この頃の新羅社会では神仙を追求する道教が、強大であった再度立証することになった。
 積石木槨墳が集中分布する慶州・皇吾洞古墳群(史跡41号)のうちいわゆる「チョクセム地区」一帯を昨年から発掘調査した結果約1万6千500㎡の範囲から積石木槨墳55基、木槨墓9基、石槨墓6基、甕棺墓7基、関連祭祀遺跡3基など総80基余りに達する新羅時代遺跡を確認した。
そのほかに、各種土器や鉄器類をはじめとして、金銅製馬鞍裝などの馬具類、耳飾り、馬蹄形帶金具などの装身具類など1,200点余りに達する多様な遺物が出土した。
 このうちB2号積石木槨墳では、木の葉模様の薄い雲母片が被葬者の安置された周辺のいろいろなところで確認された。
新羅時代遺跡で、こういう雲母は皇南大塚、天馬塚と同じ中大型級積石木槨墳では、ほとんどもれなく出土しているが、最近になってそれが道教で重視する仙薬という薬品である事実が明らかになった。
これまでに現れたこの積石木槨墳の方は死体を安置する中心空間である積石部の規模が5m内外であり、土の墓もまた直径20m前後の小型が多いことが明らかになっている。
 構造は墓壙内部に木槨を設置して墓壙と木槨の間には砂利を一杯に満たした形態であった。
 国立慶州文化財研究所はこの発掘調査現場説明会を7月11日(金)11:00から開催する。
[参考:聯合ニュース]
 新羅古墳から雲母が出土する理由は、最近認識されてきたことらしい。
 日本では、以前から佛教大学文学部教授門田誠一氏が、雲母が神仙思想および道教と密接な関係だと指摘しているとする。
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益山・帝釈寺址 百済三重基壇木塔跡の構造の解明に

2008年07月10日 | Weblog
 文化財庁国立扶余文化財研究所は益山・帝釈寺址(史跡第405号)に対する2008年度発掘調査結果、精巧な版築で作った三重基壇木塔跡、派手な忍冬唐草文平瓦当で装飾された金堂跡など益山帝釈寺址の実体を解明できる考古学的資料を確認したと明らかにした。
 帝釈寺址は「観世音応験記」によれば、百済第30代武王(AD.600~641)が益山に遷都したが、貞観13年(639)雷雨によって仏堂と回廊などが燃えたというのが百済王室寺刹と推定される。
 今回の調査は2007年6月22日から寺域中心部(9,100㎡)の木塔跡-金堂跡-講堂跡に対する全面的な発掘調査を通じて、寺刹の規模および存在様相、築造方法ならびに益山王宮城と関連する王室寺刹としての性格を解明するためである。

①建立場所
 始大山から続く稜線の麓にあり、緩やかな丘陵に盛土して敷地を作った後、真北から東に5°傾いた南北中心軸上に木塔-金堂-講堂を配置する一塔一金堂の伽藍配置をする典型的な百済王室寺刹。
②木塔
 独特の三重基壇に地上式心礎構造の木塔。
③木塔基壇
 厚さ約3mの精巧な版築で基礎を固めた3重基壇木塔の構造である。木塔跡は心礎石中心から各々5.6m、10.6m離れた地点で基壇が位置して、一辺の長さが21.2mの外側基壇が二重基壇になっていて結果的に3重基壇で構成される。
木塔基壇の基礎は、まず地面を掘坑して内部を約70cm厚さの褐色砂質粘土を中心にで版築し、地上には下から上に約250cm厚さで精巧に版築して、細部的には3単位に区分される。すなわち下から「黄色・赤色真砂土層(140cm)-褐色粘土層(54cm)-赤褐色砂質粘土層(58cm)」に区分される。
④百済平瓦当
 金堂跡の基壇外部で、百済蓮華文軒丸瓦および瓦片と共に派手で優雅な忍冬唐草文平瓦当が多量出土したが、共伴遺物および層上関係を通じてみた時、百済平瓦当と判断される。
 平瓦当は中央に図式化された鬼面文が施文されていて、左右両面に向かって、忍冬唐草文が流麗にのびている。 今まで百済地域では軍守里寺址の指頭文平瓦当、扶余官北里百済遺跡・扶蘇山城などの有段式平瓦当など原初的平瓦当程度だけ知られていて、とても精巧で洗練された帝釈寺址出土平瓦当を百済時代と見るのに躊躇する傾向があった
 精巧な百済平瓦当が金堂跡だけで出土する理由と意義について深い研究が必要。
⑤敷地造成と盛土
 寺刹の中心建物を造営するための広範囲な敷地造成を通じて、木塔をはじめとする中心建物の基壇基礎を丈夫に固めるための精巧な地固めの痕跡が確認された。中心建物が南北で緩やかに傾斜している地形条件下に立地していて金堂-木塔にかけて、大規模盛土敷地層が確認された。既に地固め痕跡は、益山王宮里5重の石塔下部建物の築基部と藤原宮の大極殿院南門などでも確認されたが、帝釈寺址のように精巧で広範囲に確認された事例はきわめて珍しい。
⑥廃棄場
 帝釈寺址北東側で廃棄場が確認されて、二寺が火災で廃棄されたし、層上で「帝釈寺」銘文瓦が出土して「観世音応験記」の資料的信頼度が高まった。 これで百済武王の益山遷都、益山王宮城と帝釈寺址との関係や、王宮里5重の石塔舎利荘厳具と帝釈寺址との関連性を解明する契機が現れた。
⑦寺刹の造成および運営時期
 木塔跡と金堂跡では百済蓮華文軒丸瓦、平瓦当をはじめとする百済時代遺物が出土した反面、講堂跡では百済~高麗時代遺物が出土した。 そして木塔跡と金堂跡を連結する踏道を破壊して造成した窯の焼き跡が確認され、寺刹の廃棄時期を解明することが可能になった
現在までの調査では、窯の焼き跡の残存状態が良くなくて、今後補完調査とともに自然科学的分析を通じて、窯の焼き跡の造成時期に対し調べる必要がある。合わせて「丁易」・「丁易寺」銘の銘文瓦、箱型全(前),壁体片、砥石、鴟尾片、青銅製品片など百済~高麗時代にかけた多様な遺物が出土した。

 今後、帝釈寺址に対する第2次発掘調査では中門跡と回廊に対する確認調査が計画されている。 合わせて独特の形態の木塔構造を明らかにするために中国,日本の木塔に対する比較研究を進展する予定である。 帝釈寺址の全貌を明らかにするためには近隣の廃棄場に対する本格的な調査および研究も行わなければならない。
※発掘調査指導委員会議は7.11(金)11:00,一般人を対象にした現場説明会は7.12(土)に実施する予定だ。
[参考:聯合ニュース]

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将棋の矢内女王・女流名人が行田市観光大使に

2008年07月10日 | Weblog
行田市は7日、古代ハスや国指定史跡、埼玉古墳群など市の名物や歴史を紹介し、市のイメージアップを図ろうと、将棋の矢内理絵子女王・女流名人を市観光大使に委嘱。
矢内さんの出身は行田市で一番のお奨めは埼玉古墳群と話している。
[日本将棋連盟、産経新聞]

写真は行田・古代ハス
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