高麗王朝時代(918~1392年)の高麗仏画(注2)が、京都市左京区の妙満寺(注1)から見つかった。
京都国立博物館は30日、制作年は13世紀末と、これまで年代が判明している高麗仏画では世界で3番目に古いものと、調査結果を発表した。
仏画は 釈迦入滅後56億7千万年後、父母のいる宮殿に戻り、竜華樹(りゅうげじゅ、菩提樹、注2)の下で悟りを開く弥勒仏と、その説法で出家する転輪聖王(てんりんじょうおう)と皇后を描いた「弥勒大成仏経変相図(みろくだいじょうぶつきょうへんそうず、미륵대성불경변상도)」。(縦約2.3m、横約1.3m) 金泥を使った衣の細やかな文様や、中央に座る弥勒如来の顔や胸元をぼかしを使って描く輪郭線の優雅な筆致が特徴で、典雅な色彩と細密描写は美術的価値が高い。
描かれた年号と画家の名、称号が記され、宮廷画家作と判明した。
至元31年(1294)の年号や「李晟(りせい、注4)」という未知の宮廷画家の名を明記している。また、記述から「画文翰署(がぶんかんしょ)」という中国の制度にならった宮廷絵画制作の部署があったことが新たに判明した。
年代が記された13世紀の高麗仏画は、大和文華館など所蔵の「金義仁発願五百羅漢図」(1235~1236年)と島津家旧蔵の「阿弥陀如来図」(1286年)の2点しか知られておらず、今回の作品は3番目に古く、宮廷画家の作と分かる作品では最古となる。
箱書きに江戸時代末期の古筆鑑定家、大倉好斎(注5)が鑑定したとあり、そのころまでに京の町衆に伝わり、寺に収められたらしい。
新発見の仏画は10月10日から始まる同博物館の特別展「日蓮と法華の至宝」(京都新聞社など主催)で展示される。
[参考:共同通信、産経新聞、京都新聞、聯合ニュース]
(注1) 妙満寺 顕本法華宗総本山・妙塔山妙満寺 (京都市左京区岩倉幡枝町)
創建は日什大正師(にちじゅうだいしょうし、1314-1392)。もと天台宗で名を玄妙といい、比叡山三千の学頭にまでなったが、故郷の会津で日蓮聖人の教えに触れ、67才という高齢にもかかわらず宗を改め日什と名乗り、日蓮門下に入る。
康応元年(1389)六条坊門室町に妙塔山妙満寺を建立し、根本道場とした。その後、応仁の乱など幾度かの兵火に遭い、そのつど洛中に寺域を移し興隆してきたが、天文5年(1536)、比叡山の僧徒による焼き討ちで21坊の大伽藍を類焼。一時は泉州堺に逃れ、天文11年(1542)に元の地に復興した。
天正11年(1583)秀吉の時代に寺町二条に移した。昭和43年に「昭和の大遷堂」を挙行。現在の岩倉の地に移り今日に至る。[参考:妙満寺HP]
(注2) 高麗仏画
儒教を重んじた後の李氏朝鮮の排仏政策によって、多くが海外流出し、世界で168点が確認され、日本に最も多い約100点が伝わる。同じ図柄を繰り返して描くのが特徴で、今回の仏画と同じ図柄に弥勒下生経変相図(14世紀、知恩院蔵)がある。
聯合ニュースでは仏画を幀画(仏の肖像画)と記している。
(注3) 釈迦が、悟りを開いたのが竜華樹、初説法をしたのが菩提樹、没したのが沙羅双樹。
(注4) 李晟
今回の報道の中では、画文翰署と李晟の名前は高麗の史書などには現れないとしている。ただし、同時期に五經笥と言われた李晟という人がいたので、参考としてあげておく。
李晟(이성、1251-1325)
1251(高宗38)~1325(忠肅王12). 高麗の文臣. 本貫(発祥の地)は潭陽
弱冠にして文科に及第して温水監務(従九品官?)を経て水原司録(正八品官)になったが官吏を止めて竹渓村舎に帰郷して、官吏にならず経書を研究するのに専念した。後に推薦されて国子博士(正七品官)になり、さらに閤門祇候になった。
1309年(忠宣王1)、左思補になったが、竹溪村舍を懐かしがって、官吏を止めてまた帰郷した。忠宣王が燕京にあって、彼の名前を聞いて内書舎人に特進させて、さらに典儀副令・芸文応教を経て選部議郎になった。
1314年(忠肅王1)、また位を捨てて帰郷するので、民部典書(正三品官)に上げて致仕するようにした。後に化平府使(府知事)になったが、まもなく辞職して死んだ。
幼い時から学問に努力して、五經笥(五経に堪能な人)であった。
(注5) 大倉好斎(おおくら こうさい、1795~1863)
古筆鑑定家、京都の人。姓は菅原。名は信古。古昔園と号した。大倉汲水の長男、幼名政吉、俗称五兵衛、文政八年二月落髪して好斎と改め古昔庵と号し天保元年八月古筆鑑定を以て紀州公に仕えた。嘉永二年十月学習院の徴に応じて院庫の古書籍類の鑑定を行い司四年八月には法橋に叙せられている。文久二年十二月二十日没、年六十八。西林寺に葬る。[参考:時代統合情報システムHP]
妙満寺で重文級の高麗仏画発見 京都国立博物館発表(共同通信) - goo ニュース