歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

桜井市・大福遺跡 銅鐸片が再び出土 青銅器のリサイクル跡

2009年07月08日 | Weblog
 市教委の調査で、纒向遺跡の南西約2kmにある大福遺跡で、弥生時代後期後半(2世紀後半)の集落の溝から、銅鐸の破片が見つかった。同遺跡で銅鐸片の出土は2例目。
 銅鐸片は、胴体部上面の「舞(まい)」と呼ばれる部分とみられ、縦5・5cm、横8cm、厚さ2・5~4mmで銅鐸の溝を埋めた土の中から見つかった。近くからは、鋳造炉の送風管や青銅の塊、銅の滓、青銅器の鋳型の外枠、青銅製のやじり(銅鏃)などが出土。周囲に青銅器の工房があったらしい。弥生時代の祭祀で利用された銅鐸を壊して別の青銅器に〈リサイクル〉していたとみられる。
 市教委は「青銅器の再生産の様子がよりはっきりとし、弥生社会の終わりを表している」としている。
 埋文センターで展示 銅鐸片などは市立埋蔵文化財センター(同市芝)で開かれている2008年度発掘調査速報展「50cm下の桜井」で展示している。10月4日まで。
[参考:毎日新聞]
過去のニュース・情報
 前出2009.3.5
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韓国 百済木簡の倭人名 「那尓波連公」と判読結果

2009年07月08日 | Weblog
 昨日、双北里遺跡から出土した百済木簡に倭人の名前が記されていることがわかったと報じられた。
 既に、このブログでも2009.1.12に取り上げたが、その時には、「那●内連公」(●は判読不能字)と判読されていたものが、「那尓波連公」と再判読されたわけである。読みは「なにわのむらじのきみ」で、「日本から送った那尓波(難波)という人物の荷物に付けた荷札の可能性が高い」という。
この木簡の製作時期は、4世紀前半~660年とみられる。
[参考:毎日新聞、前出]

参考資料
「なにわのむらじ」からは、難波連が連想される。
■日本書紀
安康天皇元年(454)2月に、難波吉師日香蚊(香)の名が初出する。
雄略天皇十四年(470)に、「即ち、難波吉士日香香の子孫を求めて、姓を賜ひて大草香部吉士としたまう。」
天武天皇十年(681)正月に、「大山上草香部吉士大形に(略)、姓を賜へて難波連と曰ふ。」
天武天皇十四年(685)六月に、「大倭連・(略)・難波連・(略)に、姓を賜ひて忌寸(いみき)とす。」とある。

■姓氏録
右京 諸蕃下に、「難波連、出自高麗国好太王也」とある。


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