歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

彦根市・佐和山城 武家屋敷の堀と紐金具を発見

2009年07月23日 | Weblog
 滋賀県教育委員会は23日、戦国武将・石田三成の居城「佐和山城」の遺跡(彦根市佐和山町)から、武家屋敷跡の堀を発見したと発表した。秀吉が用いた「桐紋」をかたどった銅製紐金具などが見つかった。佐和山城の実態を初めて明らかにする貴重な史料とする。
 遺構は、江戸時代後期に描かれた「佐和山城絵図」(重文)に「侍屋敷」と記された北東側の山裾「奥ノ谷」で出土。今回の調査では幅2~3mの堀が見つかった。堀は東西約250m伸び、その堀から約20~30m間隔で溝を南北に伸ばし7区画以上に区切っていたとみられ、橋を支える杭や門柱のような木も残っていた。城郭周囲の武家屋敷は堀で区画される例が多く、今回の発掘はその実例といえる。
 一緒に出土した土器類の年代から、1590年~1600年に佐和山城主だった三成の時代のものとみられる。
 また、堀などから見つかった桐の文様をかたどった銅製の紐金具は、箱の留め金の一部(縦5cm、横3・7cm)とみられ、皇室の菊紋代わりに用いた「五三桐(ごさんのきり)」が刻まれていた。
 堀跡から、大阪城築城開始(1583年)以後の瓦、珍しい陶磁器も出土し、豊臣秀吉の甥で関白を務めた秀次の失脚後、三成は秀次の家臣を多く抱えたとされ、県教委は「この屋敷に住まわせたのだろう」としている。
 佐和山城は京都と東北を結んだ陸路と琵琶湖の湖上交通の要衝にあり、石田三成が、天下統一の戦略拠点として修築した。関ヶ原の合戦で三成が敗れた後、城は解体され、彦根城の建築に使われた。
 現地説明会は26日午前10時、午後1時半の2回。(雨天決行)

■佐和山城: 戦国時代に近江の六角氏と浅井氏が争奪を繰り広げ、織田信長も攻略した。石田三成の入城は1590年で、1600年に関ケ原の戦いで三成が敗北して3日後、落城した。徳川家康の家臣・井伊直政が城主となり、彦根城築城に伴って1604年に廃城となった。
[参考:時事通信、産経新聞、京都新聞]]
武家屋敷の堀と紐金具発見=石田三成の居城跡-滋賀(時事通信) - goo ニュース

佐和山城年表
鎌倉時代 佐保氏(宇多源氏・佐々木定綱(1142-1205)の子・時綱が佐保氏を名乗る)が築城したとされる。
戦国時代 浅井氏の支城となる。浅井氏の家来・磯野員昌が城主となる。
元亀年間(1570-1573)  磯野員昌(生没不詳)が織田信長と戦う。
1571 磯野員昌が降伏し、代わって織田信長の家臣・丹羽長秀(1535-1585)が入城する。
1582 本能寺の変後の清州会議で、戦功のあった堀秀政(1553-1590)に与えられる。
    その後、堀家の転封に伴い堀尾吉晴(1544-1611)が入城した。
1590 五奉行の一人石田光成(1560-1600)が入城した。


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八幡市・備前遺跡 弥生後期の大型竪穴住居跡2棟を確認、大規模集落か

2009年07月23日 | Weblog
 八幡市教委は22日、同市八幡南山の備前遺跡の発掘調査で、弥生時代後期(2~3世紀)の竪穴住居跡が見つかったと発表した。
 同遺跡ではこれまでも住居跡が見つかっており、大規模な集落が形成されていた可能性がある。
 調査した場所は、洞ケ峠に連なる尾根の先端部分で、平地から約30m高い丘陵地。出土した竪穴住居跡は方形の2棟分。住居を取り囲む溝や柱穴の跡などを確認した。うち北側のものは、南西部の半分を検出、一辺が約7・5mで、通常は5~6m程度の方形住居としては大きい。炉跡が3カ所あり、単なる住居ではなく何らかの共同の作業場があったとみている。南側の住居は西辺の一部が確認され、甕2個のほか、食器に使う鉢や供え物を置く器台、高坏が1個ずつ、床面に放置されたような状況で出土した。
 今回の調査地から南西350mの場所でも、同時期の竪穴住居が見つかっている。
[参考:京都新聞]



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小田原市・小田原城跡 八幡山遺構群第5次調査 遺跡見学会

2009年07月23日 | Weblog
 昨年度に引き続き県立小田原高等学校グラウンド整備工事に伴う確認調査で、小田原城跡八幡山古郭の「西曲輪」から、昨年度発見された本曲輪北堀と三味線堀の延長部分が新たに発見された。本曲輪北堀は幅20mを超える巨大な堀であったことが判明した。
 また、本曲輪北堀の埋め土の中から、古墳時代前期(4世紀中葉~後葉)の壺形埴輪が出土した。周辺に古墳の存在は知られておらず、壺形埴輪の出土は未知の古墳が山頂部付近に存在したことを示唆するものであり、小田原市内および西湘地域では埴輪として初めての出土となるという。
 遺跡見学会は下記の通り行われる。
日時:平成21年7月25日(土)および・26日(日) 午後 13:30~15:00 (小雨決行、荒天時は中止)
場所:神奈川県小田原市城山3-26-1 (財)かながわ考古学財団 小田原城跡八幡山遺構群発掘調査現場
[参考:(財)かながわ考古学財団]

過去のニュース・情報
2008.10.24小田原城跡八幡山遺構群 第4次調査(障子堀)遺跡見学会
コメント (1)
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氷見市・稲積川口遺跡 7世紀の柄つきの馬鍬が出土

2009年07月23日 | Weblog

稲積川口遺跡出土馬鍬。 「発掘された日本列島2011」(江戸東京博物館)にて2011.6.14撮影

 氷見市教委は22日、昨年9~11月に同教委が調査した稲積川口遺跡(同市稲積)から、7世紀前半の農耕具、馬鍬がほぼ完全な形で出土したと発表した。北陸三県では初の出土、柄の部分も付いた状態での出土は全国初という。馬鍬は、田植え前の水田で牛馬に引かせて代かき作業をするための農具。
 柄は地面に水平に付いていた。長さ117・5cmのクリの木の台木に代かきをする木製の歯(60cm、装着状態で45~47cm)が11本、柄は2本あるうちの1本(52cm、同43cm)が付いていた。現在近くを流れる余川川の七世紀ごろの河道が見つかり、農耕具として使用後、川の護岸材に使われたとみられる。水中につかっていた状態が長かったため、腐食を免れたらしい。
 柄が地面に水平に付いたものは、馬鍬の歯が鉄製になる奈良~平安時代にほぼ消滅したとされる。地面と垂直に付いた柄のものは、1960年頃まで各地で使われた。
[参考:読売新聞、中日新聞]
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明日香村・石神遺跡 迎賓館の門が瓦葺は、迎賓館以前6世紀初めの寺院跡?

2009年07月23日 | Weblog
 奈良文化財研究所が今年の2月12日に、飛鳥時代の迎賓館とされる明日香村の石神遺跡で、7世紀前半-中ごろの掘っ立て柱建物跡2棟や別の建物の周辺を巡るとみられる溝跡が見つかったと発表した。
 遺跡の東端から、南北に延びる掘っ立て柱塀(長さ約25m)や建物跡(南北5.4m、東西8.1m)、瓦が大量に埋まった溝(長さ約16m、幅1.5m、深さ20cm)などが見つかった。
 掘っ立て柱建物から南に向けて塀の跡が延びていた。東側は幅16-17・5mの通路に面しており、建物は門と推定した。いずれも東門だったようで、溝跡からは大量の屋根瓦が出土。数十年間で3回建て替えられ、最盛期の斉明天皇(在位655-661年)の時代に瓦葺になったらしい。一緒に出土した土器から時期は7世紀前半~中ごろと推定。
 瓦が多数出土したが軒先に飾る瓦はなく、棟の周囲だけ瓦葺にし、後は檜皮(ひわだ)などをふいたのではとみている。
 宮殿に瓦が使われるのは694年の藤原宮(同県橿原市)が最初とされる。寺を除くと、その50年近く前の瓦葺建物は極めて異例。石神遺跡中央部でも瓦葺建物は見つかっていない。
 そして14日には現地説明会が行われた。
[参考:2009.2.12 共同通信、日経新聞、朝日新聞]

 今日23日、産経新聞では、「(前記の)迎賓館の東門と推定した建物跡は、その後の調査で7世紀前半の遺構からの出土と判明。瓦も飛鳥寺や豊浦寺の瓦に次いで古い奥山廃寺式と分かり、620~630年代の建物と特定された。」と報じた。
 さらに、国内で普及が始まって間もないころの寺院だったとみられるとする。
[参考:2009.7.23産経新聞]

初期寺院の創建時期
 飛鳥寺:6世紀末~7世紀初頭
 豊浦寺:7世紀初め
 奥山廃寺:620~630年

過去のニュース・情報
 2009-02-12 明日香村・石神遺跡 迎賓館の門が瓦葺?
 [参考] 石神遺跡の瓦/奈良文化財研究所紀要No.2004(2004.6) (奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部・花谷浩)
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