歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

明石市・長坂寺遺跡 古代山陽道の邑美駅跡か

2009年07月11日 | Weblog
 兵庫県立考古博物館(播磨町)が明石市魚住町の長坂寺(ちょうはんじ)遺跡で地中レーダー探査をし、地下に人為的な直線区画があることがわかった。現地に残る田んぼの区画と合わせ、一辺約80mの正方位を向く方形区画が復元でき、古代山陽道の駅家「邑美駅(おおみのうまや)」跡と見ている。
 長坂寺遺跡は奈良時代の瓦が出土したことから、古代寺院跡と見られていた。しかし故高橋美久仁・元滋賀県立大教授らの研究で、長坂寺遺跡のすぐそばを山陽道推定ルートが通ることなどから、平安時代の「延喜式」(注1)に記載された明石駅と賀古駅のほぼ中間地点にあたる、古文献に記載のない幻の駅家(仮称「邑美駅」)があり、統廃合で廃止されたと考えられている。
 探査は1月、日本文化財探査学会の協力で実施し、レーダー探査機で電磁波を地中に発射し、その反射波を受信して画像に表示した。
 自然地形ではできない直線的な筋がいくつも見つかった。これらの結果と地表の様子を総合すると、1辺約80mの方形区画が浮かび上がるという。山陽道の駅家跡と確認されている、たつの市の小犬丸遺跡(布勢駅(ふせのうまや))や加古川市の古大内遺跡(賀古駅(かこのうまや))では、約80m四方の区画(駅館院(やくかんいん))が判明している。
 調査地の地下には何らかの遺構が残っている可能性が高いとみて、同博物館は今秋以降に再度レーダー探査をし、地権者の理解が得られれば来年度以降に発掘調査を検討する。
[参考:朝日新聞、明石市教育委員会HP]

(注1)播磨国駅馬、明石30疋。賀古40疋。草上30疋。大市。布勢。 高田。野磨各20疋。越部。中川各5疋。

過去のニュース・情報
 2009.3.25古代山陽道の駅「賀古駅家」と確認



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富山市・富山城址 戦国期(16世紀中頃)の井戸跡が見つかる

2009年07月11日 | Weblog
 富山市埋蔵文化財センターが昨年8~9月に行った試掘調査で、富山城址公園内の佐藤記念美術館の近くで16世紀中頃に作られたとみられる井戸跡(直径5・4m、深さ1・6m以上)が見つかった。同センターは、「戦国期の富山城の生活ぶりを知る遺構」としている。
 かつて富山城があった場所からは北東部の位置。この井戸は、「堀り方」と呼ばれる大きな穴を掘り、そこに木枠や石壁などの構造物を入れて作られたといい、今回発見されたのは堀り方の部分に相当する。
 井戸跡からは、16世紀後半~17世紀前半の多数の陶磁器の破片が見つかった。井戸が使用されなくなったため、生活道具の陶磁器が捨てられたと推察されることから、井戸は戦国期の16世紀中頃に作られたとみられる。
[参考:読売新聞]
写真は平成13年に撮影

富山城
天文12年(1543)越中守護代・神保長職(じんぼう ながもと、?-1572?)が、家臣の水越勝重に命じて築城したとされる。
 近年の発掘調査により室町時代前期の遺構が発見され、実際の築城時期はさらに遡る可能性がある。
永禄3年(1560)富山城は上杉謙信勢に攻められ、長職は西の増山城(砺波市)へ逃れる。
天正6年(1578)上杉謙信の死後、織田信長に身を寄せていた神保長住が飛騨国から侵攻して富山城に入った。
天正9年(1581)織田信長の家臣佐々成政(1536?-1588)が富山城主となり、大規模な改修を加える。
天正13年(1585)秀吉軍に富山城を攻囲されて降伏。実質的な前田支配がここに始まる。前田利長が大改修を行い隠居。
慶長14年(1609年)建物の主要部をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移り、富山城には津田刑部義忠が城代として入る。
寛永16年(1639)加賀藩3代藩主前田利常は、次男利次に10万石を与えて分家させ、富山藩が成立した。
[参考:富山市埋蔵文化財センター]

備考
 2009.7.10読売新聞の文化欄で面白い記事があった。
 富山藩の歴代藩主11人の墓は富山市の長岡御廟にあり、墓の銘すべてが仏教式戒名から、明治末から大正期にかけて贈位された神道式官職名に改刻されていたことがわかったという。
 前田家の菩提寺の一つ、富山市の大法寺で、銘が戒名で書かれた歴代藩主の墓の拓本が7年前に見つかった。その拓本の大きさや輪郭が長岡御廟の墓とほぼ一致した。
 例えば、名君と言われた2代藩主正甫(まさとし)の場合は、拓本は「正甫殿従四位大府侍即天心日菅大居士」という戒名だが、墓には「贈従三位大蔵大輔菅原朝臣正甫之墓」と刻まれている。
[参考:2009.7.10読売新聞]
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堺市・百舌鳥大塚山古墳 60年前に収集した鉄鉾の破片に象嵌、国内最古を半世紀遡る発見

2009年07月11日 | Weblog
 百舌鳥・古市古墳群にかつてあった全長168mの前方後円墳である百舌鳥大塚山古墳(堺市西区、5世紀前半)の副葬品のうち、鉄鉾1点から円形をした金の象眼が見つかり、最古の象眼文様と判明した。
 同古墳は百舌鳥古墳群で2番目に古く5番目の大きさだったが、1949~52年に宅地化され消滅した。
 森浩一・同志社大名誉教授らは宅地化が進んでいた50年に緊急調査。出土した大量の鉄製品などの副葬品はコンテナ約100箱分に上り、市博物館が所蔵、2003年度から奈良大とともに調査と保存処理を進めている。
 鉄鉾は被葬者の傍らに副葬されており、長さ約50cm。錆びて分離した破片4点(長さ6~8cm、幅1~2・5cm)に直径7~8mmの円形の文様が象眼され、内側に直径3・3mmの銀製の鋲(びょう)が残っていた。鉾の両側の膨らんだ部分に鋲があり、破片2点はここから欠け落ちたらしい。象眼の合金比も金60%、銀40%と、通常の象眼より銀の比率が高いという。
 古墳時代の象眼はほとんどが大刀で鉾は異例。象眼文様としては、これまで国内最古とされてきた兵庫県・宮山古墳(5世紀後半)で出土した大刀の銀象眼を半世紀遡る。
 堺市博物館が所蔵する大量の副葬品の調査と保存処理は半世紀を経て今も続いており、今後も新たな発見が期待される。
特徴から中国製と推定でき、中国との交流を深めた倭の五王の時代にふさわしい重要な資料という。
 11、12の両日、名古屋大で開かれる日本文化財科学会の大会で発表される。
[参考:読売新聞]
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