東北亜歴史財団と釜慶大、ロシア科学アカデミー極東支部が昨年に続き、ロシア、沿海州豆満江付近ポシエト(Posyet)湾周辺にあるクラスキノ城(塩州城、염주성)発掘現場で20日間の共同遺物発掘作業の結果、高句麗時代のものとみられる遺物が初めて発見された。
沿海州を含む極東ロシアの一部地域が高句麗の支配下にあったという記録はいろいろな文献に出てくるが、考古学的遺物が発見されたことはなかった。
遺物の概要
①住居地2ヶ所と市場などが立ち並んでいた跡とみられる3ヶ所で、せいろ(시루、蒸し器)、陶磁器破片、腰帯、農機具、瓦窯の焼き跡など遺物が多量に出土した。
特に発掘現場1角の深さ約2mの地点で、かまどとせいろなどが出土し、壁面には住居跡であることを示す黒い帯が現れ、初期渤海または高句麗時代の住居跡だった可能性を見せている。
②周囲1.2kmの城跡では、石で地盤を固めて土で覆った土石混築方式の城跡と、城門を防御する甕城(おうじょう、옹성)が発見され、高句麗の伝統的な築造方式のため、この城は高句麗時代の城か高句麗の築造方式をまねた初期の渤海の城とみられる。
③今回の発掘現場では、「道隆弘知」、「世」、「面者」と書かれた陶磁器破片が発見された。
道隆弘知という字は、壊れた陶磁器の中に落書きした形で残り、この字は陶磁器に陰刻されたため渤海の遺物発掘現場で四字の字が一度に出てきたことは非常に異例だ。ある関係者は「日本側発掘団は、道隆弘知が日本人僧侶でその人が渤海に文物を伝播したと主張するが、渤海は日本に34回使節を送ったのに、日本はせいぜい15回の使節を送ったという日本側記録をみると、話にならない説」と一蹴した。
④一方、この城の井戸の場所では契丹の土器が発見され、この城が契丹により滅ぼされた可能性が推定されるため、また、城郊外周辺に女真族古墳200基余りが発見されることにより、この城の主人が高句麗(?)-渤海-契丹-女真族に変わったとみられる。
[参考:聯合ニュース]
渤海(ぼっかい、698年 - 926年)
中国の東北地方東部・沿海州・朝鮮北部を領土として栄えた高句麗族・靺鞨(まっかつ)族の国。698年震国を建てた大祚栄(だいそえい)が713年唐により渤海郡王に封ぜられ渤海と称した。唐文化を輸入、日本とも頻繁に通交した。都は国都の上京竜泉府(黒竜江省東京城)をはじめ五京(ごけい)があった。926年契丹(遼)に亡ぼされた。(goo辞書より)
過去のニュース・情報
2007.11.16 渤海の遺跡調査で金の装飾品を確認、古代石川と密な交流
金沢学院大美術文化学部文化財学科の小嶋芳孝教授らは、8―9世紀に今の中国や北朝鮮、ロシアにまたがって栄えた国「渤海」の考古学調査で、金のかんざしや指輪など当時の繁栄がうかがえる貴重な品を初めて確認した。能登や加賀の港を経由して古代石川との交流が深い場所で出土した多様な遺物から、活発な交易が裏付けられたことになる。
遺物の主な出土地は、塩州城の遺跡「クラスキノ城跡」。当時は延長約1400mの壁で囲まれた中に役所や住居がある港町だった。
渤海と当時の日本は互いに使節を派遣して物や情報を交換しており、塩州城と越前国加賀郡の郡津(金沢市の畝田・寺中遺跡とされる)、能登国羽咋郡福良津(志賀町福浦港)を行き交う航路は特に盛んに利用された。
小嶋教授は約10年前からクラスキノ城跡の発掘調査に加わり、昨年10月にロシア科学アカデミー極東支部と共同調査の協定を締結。今年3月、同支部から国内で初めて渤海出土品約30点の化学分析を委託された。
調査した結果、出土したかんざし3点は銅製で、1点は金メッキが施されていたことが分かった。同じような品は渤海でもわずかな遺跡からしか見つかっておらず、初出土となった金メッキの指輪と合わせ、対外交流で富を得るなどした人物がいた可能性が大きいという。
唐の古銭や、のちに渤海を滅ぼす契丹の民族が使っていた帯金具など、他国との接触を示すものも見つかり、小嶋教授は「クラスキノ城跡は日本や唐の文化が入り交じったにぎやかな港町だったのではないか」と推測している。
[参考:2007.11.16北陸新聞]
追記
2010.3.3 沿海州・渤海城 発掘調査報告書を発刊
2007年からロシア科学アカデミー極東支部歴史/考古民俗学研究所と共同でクラスキノ土城(塩州城、염주성)を発掘している東北亜歴史財団は、ロシア側と一緒に2008年度の発掘成果をまとめて『2008年度沿海州クラスキノ渤海城バルヘソン韓ロ共同発掘調査報告書』を最近発刊した。
報告書によると、城跡から高句麗式土器が出土し、高句麗の村に基づいて建設された可能性が大きいこと、また、住居から出土した土器の底から「道隆弘知」と書かれた銘文は、「道隆」と「弘知」が仏教の普遍的価値を表現したものである可能性が高いとしている。
[参考:聨合ニュース]
沿海州を含む極東ロシアの一部地域が高句麗の支配下にあったという記録はいろいろな文献に出てくるが、考古学的遺物が発見されたことはなかった。
遺物の概要
①住居地2ヶ所と市場などが立ち並んでいた跡とみられる3ヶ所で、せいろ(시루、蒸し器)、陶磁器破片、腰帯、農機具、瓦窯の焼き跡など遺物が多量に出土した。
特に発掘現場1角の深さ約2mの地点で、かまどとせいろなどが出土し、壁面には住居跡であることを示す黒い帯が現れ、初期渤海または高句麗時代の住居跡だった可能性を見せている。
②周囲1.2kmの城跡では、石で地盤を固めて土で覆った土石混築方式の城跡と、城門を防御する甕城(おうじょう、옹성)が発見され、高句麗の伝統的な築造方式のため、この城は高句麗時代の城か高句麗の築造方式をまねた初期の渤海の城とみられる。
③今回の発掘現場では、「道隆弘知」、「世」、「面者」と書かれた陶磁器破片が発見された。
道隆弘知という字は、壊れた陶磁器の中に落書きした形で残り、この字は陶磁器に陰刻されたため渤海の遺物発掘現場で四字の字が一度に出てきたことは非常に異例だ。ある関係者は「日本側発掘団は、道隆弘知が日本人僧侶でその人が渤海に文物を伝播したと主張するが、渤海は日本に34回使節を送ったのに、日本はせいぜい15回の使節を送ったという日本側記録をみると、話にならない説」と一蹴した。
④一方、この城の井戸の場所では契丹の土器が発見され、この城が契丹により滅ぼされた可能性が推定されるため、また、城郊外周辺に女真族古墳200基余りが発見されることにより、この城の主人が高句麗(?)-渤海-契丹-女真族に変わったとみられる。
[参考:聯合ニュース]
渤海(ぼっかい、698年 - 926年)
中国の東北地方東部・沿海州・朝鮮北部を領土として栄えた高句麗族・靺鞨(まっかつ)族の国。698年震国を建てた大祚栄(だいそえい)が713年唐により渤海郡王に封ぜられ渤海と称した。唐文化を輸入、日本とも頻繁に通交した。都は国都の上京竜泉府(黒竜江省東京城)をはじめ五京(ごけい)があった。926年契丹(遼)に亡ぼされた。(goo辞書より)
過去のニュース・情報
2007.11.16 渤海の遺跡調査で金の装飾品を確認、古代石川と密な交流
金沢学院大美術文化学部文化財学科の小嶋芳孝教授らは、8―9世紀に今の中国や北朝鮮、ロシアにまたがって栄えた国「渤海」の考古学調査で、金のかんざしや指輪など当時の繁栄がうかがえる貴重な品を初めて確認した。能登や加賀の港を経由して古代石川との交流が深い場所で出土した多様な遺物から、活発な交易が裏付けられたことになる。
遺物の主な出土地は、塩州城の遺跡「クラスキノ城跡」。当時は延長約1400mの壁で囲まれた中に役所や住居がある港町だった。
渤海と当時の日本は互いに使節を派遣して物や情報を交換しており、塩州城と越前国加賀郡の郡津(金沢市の畝田・寺中遺跡とされる)、能登国羽咋郡福良津(志賀町福浦港)を行き交う航路は特に盛んに利用された。
小嶋教授は約10年前からクラスキノ城跡の発掘調査に加わり、昨年10月にロシア科学アカデミー極東支部と共同調査の協定を締結。今年3月、同支部から国内で初めて渤海出土品約30点の化学分析を委託された。
調査した結果、出土したかんざし3点は銅製で、1点は金メッキが施されていたことが分かった。同じような品は渤海でもわずかな遺跡からしか見つかっておらず、初出土となった金メッキの指輪と合わせ、対外交流で富を得るなどした人物がいた可能性が大きいという。
唐の古銭や、のちに渤海を滅ぼす契丹の民族が使っていた帯金具など、他国との接触を示すものも見つかり、小嶋教授は「クラスキノ城跡は日本や唐の文化が入り交じったにぎやかな港町だったのではないか」と推測している。
[参考:2007.11.16北陸新聞]
追記
2010.3.3 沿海州・渤海城 発掘調査報告書を発刊
2007年からロシア科学アカデミー極東支部歴史/考古民俗学研究所と共同でクラスキノ土城(塩州城、염주성)を発掘している東北亜歴史財団は、ロシア側と一緒に2008年度の発掘成果をまとめて『2008年度沿海州クラスキノ渤海城バルヘソン韓ロ共同発掘調査報告書』を最近発刊した。
報告書によると、城跡から高句麗式土器が出土し、高句麗の村に基づいて建設された可能性が大きいこと、また、住居から出土した土器の底から「道隆弘知」と書かれた銘文は、「道隆」と「弘知」が仏教の普遍的価値を表現したものである可能性が高いとしている。
[参考:聨合ニュース]