歴歩

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佐賀市・石塚古墳 石室に改修の跡? 18日に一般公開

2009年07月16日 | Weblog
 佐賀市教育委員会は15日、筑後川河口西岸の標高3~4mの平坦な水田部に位置する石塚古墳(同市諸富町為重)の石室の追加調査で、6世紀後半ごろに造られた石室内が時期を置いて複数の人を埋葬したとみられ、後に改修された可能性があることが分かったと発表した。
 石塚古墳は87年、ほ場整備に伴って発掘調査され、福岡県八女地域特有の須恵器や金銅製馬具、小さな鉄板を革ひもで繋なぎ合わせた「挂甲」(鉄製よろい)のほか、蓮華文の金銅製円形板などが出土した。一部は県重要文化財に指定されている。
 石室は長さ約3m、幅1.2~2mで、石の積み方から6世紀後半に造られたとみられる。
 一方、出土品は6世紀末~7世紀の物とされることから、石塚古墳は、7世紀近くに改修して再利用された可能性があるという。
 また、石室内で見つかっていた約25個の人頭大の石は、棺の土台とみられる。古墳全体の形状は不明だが、出土品や、古墳が筑後川に近い低平地にあることから、筑後川を使った海上交通を掌握した豪族のものではないかとみている。
 18日に一般公開をする。午前10と11時の2回に分けて各30分ほど市教委の職員が説明する。(雨天中止)
[参考:佐賀新聞、毎日新聞]




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南相馬市・横大道遺跡 新たに平安時代の製鉄炉が出土

2009年07月16日 | Weblog
 福島県文化振興事業団が15日、奈良・平安時代の製鉄遺跡「横大道(よこだいどう)遺跡」(南相馬市小高区飯崎字横大道)で、9世紀中頃の製鉄炉の跡1基と、8世紀後半~9世紀の木炭窯の跡14基が新たに見つかったと、現地で報道陣に公開した。
 同遺跡とその周辺では、これまでにも製鉄炉や木炭窯の跡が多数確認されており、一帯が一大製鉄基地だったことを裏付けるもの」としている。
 今回見つかった製鉄炉跡は「長方形箱形炉」と呼ばれるもので、長さ約180cm、幅約50cm。踏みふいごの跡や、羽口、倒壊した炉壁の跡などが確認された。また、炉周辺の残滓の中からは、純度の高い鉄の塊(約80g)も見つかった。見つかった鉄は、1200年たった今もほとんど錆びておらず、非常に高い技術があった証となる。
 製鉄に必要な木炭を作る窯(木炭窯)の跡は、斜面をトンネル状に掘り抜いた「登り窯」型で長さ8mを超える大規模なものもあり、未発掘のものも含めると30基以上が存在するという。
 同遺跡周辺には7~9世紀の大規模な製鉄遺跡が集中し、この年代は、中央政権によって蝦夷(えみし)征討が行われた時期と重なっており、蝦夷征討のための武器や、鐘や仏具など鋳物の鋳造に使われたのではないかとしている。
 現地説明会が18日午後1時30分から開催される。
備考:
 横大道は、小高区西部の台地上にある古代の大規模な製鉄遺跡。
 昨年までの調査で、人工的に造成された環状のくぼ地状のせまい範囲に6基の製鉄炉が構築された特殊な遺構がみつかっている。出土土器から奈良時代のものと思われる。
[参考:読売新聞、毎日新聞、福島県文化振興事業団HP]

新たに9世紀の製鉄炉…福島・横大道遺跡(読売新聞) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 2008.11.14 南相馬市・舘越遺蹟 東北最大級の木炭窯跡 製鉄拠点か



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明日香村・飛鳥京跡苑池 食膳に使用、ブリの骨が出土

2009年07月16日 | Weblog
 日本書紀に記された天武天皇の「白錦後苑(しらにしきのみその)」とみられる明日香村の飛鳥京跡苑池(7世紀中ごろ)で、ブリなど海で捕れる魚類の骨がまとまって出土していたことが分かった。
 ブリの骨が、古代の内陸遺跡で確認されたのは初めて。
 ブリは漁業集落とされる島根県の上長浜貝塚(奈良時代後期~平安時代)などで見つかっているが、内陸部では初めて。飛鳥・奈良時代の木簡にも登場しない魚だった。
 ブリは60cm以上の成魚で、2枚ないし3枚に下ろした後、切り身にしたとみられる傷跡も残っており、食膳として使用していたことがわかった。ほかにも、ボラやスズキ、アジなどの骨も見つかった。
[参考:奈良新聞]

過去のニュース・情報
2009.6.15
 平成11年の発掘調査で、明日香村の飛鳥京跡で飛鳥時代(7世紀後半)の大規模な池の遺構が見つかったと県立橿原考古学研究所が14日発表した。
 池は石積みの護岸を巡らせ、水の流れを楽しむ精巧な石造物や、中島を配置し、日本最古の本格的な庭園跡とみており、
 日本書紀 天武天皇14年(685)十一月戊申(六日)に、白錦後苑に幸す
の記述より、後苑は飛鳥京宮殿の北を示すため、位置関係も一致することから、白錦後苑(しらにしきのみその)の可能性が高いとする。
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