歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

井上円了の「妖怪学リニューアル」…東洋大で講義復活

2009年07月02日 | Weblog

 今日(2日)の読売新聞夕刊に、井上円了の記事が出ていた。
 新青梅街道の鷺宮から池袋まで自転車でよく通る道の途中にある哲学堂は、円了が建設した。今は、中野区立哲学堂公園になっている。そこから、新青梅街道を渡って直ぐそばに日蓮宗・星光山蓮華寺(中野区江古田1-6-4)があり、そこに円了の墓がある。
 いつも、手入れが行き届いて清楚なお寺である。特に、境内の桜も見事。


潅仏会(花祭り)の蓮華寺

井上円了の墓

その、読売新聞の記事の内容は、
 「妖怪学リニューアル」…東洋大で講義復活
という内容。
 妖怪学は井上円了が1887年(明治20年)に開講。迷信や俗信に民衆が惑わされないよう、妖怪のしわざと誤解されていた自然現象などについて哲学者の円了博士が学問的に解明しようとした。円了の生誕150年を機に、今年の「春学期」の目玉講義として約120年ぶりに復活した。
などと記されている。
[参考:読売新聞]

<略歴>
井上円了(いのうえ えんりょう、1858- 1919)
仏教哲学者、教育家。近代的な妖怪研究の創始者としても知られる。
1858年 新潟県長岡市浦の真宗大谷派慈光寺の長男として生まれる
1874年 新潟学校第一分校(旧長岡洋学校)入学
1878年 東京大学予備門に入学
1881年 東京大学文学部哲学科入学
1885年 東京大学を卒業
1887年 本郷麟祥院に「哲学館(東洋大学の前身)」を設立
1904年 私立哲学館大学と改称し初代学長に就任
1905年 哲学館大学長を辞任
1906年 中野に自らが建設した哲学堂(現、中野区立哲学堂公園)を拠点として、全国を講演してまわる。
1919年 遊説先の満州大連で脳溢血のため急死(享年61歳)
[参考:東洋大学HP]

妖怪・UFO・幽霊、まじめに学ぶ…東洋大で講義復活(読売新聞) - goo ニュース
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扶余・臨江寺址 百済時代の彩色壁画彫刻が出土

2009年07月02日 | Weblog
■2009-03-08聯合ニュースの記事に、国立扶余博物館が久しぶりに扶余邑懸北里(현북리)臨江寺址(임강사지)の発掘調査を始めると出ていた。
以下要約
 博物館が発掘候補地として選んだところは白馬江が漂い流れる寺の跡地。1982年8月3日に周辺2万5千665㎡が忠清南道記念物第34号と指定された。この遺跡はいろいろな面で百済時代の寺である王興寺址と似ている。
 百済時代に、この寺址の名前が何であったかは定かではない。 臨江寺という名前はここに「臨江院」という駅伝施設が設置されたという朝鮮時代記録に由来する。臨江は文字どおり川に隣接した地域という意味だ。
 臨江寺址に対しては1964年10月25日から11月4日まで東国大博物館が境内約60坪を調査したことがあった。
 当時の調査で建物跡1基(5間×4間)が確認され、塑造像30点余り、蓮華文軒丸瓦、鴟尾彫刻、塔相輪部などが収集された。(この遺物は現在東国大博物館が所蔵中。)
 その後、2006年12月~翌年2月まで、忠清南道と扶余郡がこの一帯に対する精査を実施した。調査結果、臨江寺区域は現在の指定区域よりはるかに広い範囲(11万9千720㎡)に分布すると推定されて、合わせてその近隣では瓦窯の焼き跡と古墳群、その他遺物残跡が存在することが明らかになった。
 このような発掘成果と地表調査結果を基に2ヶ月間、試掘および発掘調査を行う予定だ。

■そして、昨日2009-07-01聯合ニュースに、その調査状況が記された。
 発掘調査により、百済時代の寺刹壁画が、たとえ小さく割れた一部状態であろうともその姿を表わした。
以下要約
 国立扶余博物館は1日、去る4月23日以後、忠南扶余郡扶余邑縣北里51-2番地一円に所在する古代寺刹の場所「臨江寺址」を発掘調査し、下記遺物が出土したと発表した。
① 百済時代遺物であることが明らかな彩色壁体彫刻(채색 벽체 조각)数十点が出土。
 壁体彫刻はA-1区域と命名した百済時代建物跡内で百済蓮華文瓦当、同時期の平瓦類とともに多量に出土したので、百済時代の壁画遺物に間違いないとする。
 百済最後の首都扶余から出土した百済時代壁画片は、1942年に扶蘇山寺の跡地からの出土品がある。(ただし、出土経緯不明)
 百済絵画史研究の重要な資料になるという。
② 方形礎石(방형 초석)と円形柱座礎石(원형주좌 초석)のある百済時代大型建物跡が現れ、併せて百済時代の各種瓦類が出土。
 方形礎石は円形柱座礎石に比べて60㎝ほど低いところに位置するので、直接柱を支える石でなく礎石の下をまた支える礎盤石(초반석)である可能性が高い。
 百済特有の建築技法に選ばれる礎盤石は、益山弥勒寺址東金堂および西金堂でも確認された。
 この建物跡は、長軸20.9m、短軸14.7m(正面3間、側面2間)の規模までは確認された。柱間距離は正面が4.8m、側面は3.6mであった。このうち、正面柱間距離は益山王宮里寺址(익산 왕궁리사지)金堂の中央間横幅と一致するという点が注目されるという。
 調査により、さらに規模が大きくなる可能性があるとみている。
③ 金銅製装飾片(금동제 장식편)1点が出土。
④ この建物跡前面に広く敷かれた瓦積層(와적층)が確認された。もう一つの建物跡が存在する可能性が高くなり、伽藍配置の把握に重要な糸口になると推測される。
[参考:聯合ニュース]
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