04年度から発掘調査を行っている「宮ノ本遺跡」(同市長生町宮ノ本)の6年目となる調査で、縄文から弥生時代への移行期の住居跡、鎌倉時代の荘園跡などを発見した。
本遺跡は縄文時代から室町時代にかけて継続した集落遺跡で、古墳時代後期(6世紀)と鎌倉時代に2度の隆盛があったとみられる。古墳時代後期については、須恵器、土師器などの土器のほか、勝浦川以南の県南地域で初となる竪穴式住居の集落跡も出土。鎌倉時代の荘園とされる「竹原庄」の跡も見つかった。
■平成21年度の発掘調査の成果
6軒の竪穴住居跡を検出した。05年度の調査で検出した2軒を合わせると、8軒の竪穴住居で集落を形成していることがわかった。これは、古墳時代中期~後期(6世紀半ば~7世紀前半)の竪穴住居跡で、この時期の集落は勝浦川以南では初の確認例である。
竪穴住居跡群は桑野川に沿って東西にやや長く分布している。出土遺物の時期差や位置関係などから、最大4軒ほどの竪穴住居跡で構成される規模の集落が建て替えを繰り返しながらおよそ100年間にわたって営まれてきたと考えられる。
竈は7軒の竪穴住居跡で残存しており、いずれも住居の北辺に造りつけられており概ね北西に主軸をもつ。いずれの竈も使用頻度の高さがうかがえる。
05度の調査で確認された竪穴住居跡のうちの1軒では鍛冶行為があったことが確認でき、さらに今年度確認された竪穴住居跡では砥石が出土したことから、集落内で小規模な鍛冶(村方鍛冶)が行われていたことと考えられる。
説明会が午前10時~正午に行われる。(雨天決行。)
宮ノ本遺跡は桑野川の左岸に位置し、桑野川および那賀川の堆積作用により形成された沖積平野上(標高3.3m前後)に立地する。
04年に始まった発掘調査では縄文時代晩期~弥生時代前期の竪穴住居跡が確認された。縄文時代晩期の住居内からはサヌカイト製の石器、弥生時代では磨製石斧や打製石庖丁など農耕に関連した遺物やミニチュア土器などが出土している。
また、鎌倉~室町時代の掘立柱建物跡を中心とした集落も確認された。これらは平安時代末に成立した「竹原庄」と関連づけられる集落が展開していると考えられ、さらに青磁・白磁などの輸入陶磁器や和泉・東播・備前などの交易をうかがわせる土器が出土した。
[参考:毎日新聞、徳島県埋蔵文化財センターHP]
竹原庄
竹原庄は左大臣藤原頼長(1120-1156)の領地であったが、頼長の死後、後白河上皇の後院領に編入された。阿波誌に「昔為 名藍地。方八町領 竹原領」とあり、仁和寺末の隆禅寺が管理した。
長寛元年(1163)9月25日付の文書(八桙神社寄進状)には「本家一院(後白河院)領家左大臣藤原基実(1143-1166)」とある。
承元3年(1209)8月、後白河院から前仁和寺門跡守覚法親王(1150-1202、後白河院の第2皇子、母は藤原季成の娘)に伝領された。
文永8年(1271)普門寺領となった大野本庄、宝荘厳院領の大野新庄外2庄を合わせて「竹原5箇庄」と言われるようになった。
他の2庄とは岩脇、南島、岡、中原とされており、もう一つは古庄、柳島の地としている。
[参考:阿南市HP]
本遺跡は縄文時代から室町時代にかけて継続した集落遺跡で、古墳時代後期(6世紀)と鎌倉時代に2度の隆盛があったとみられる。古墳時代後期については、須恵器、土師器などの土器のほか、勝浦川以南の県南地域で初となる竪穴式住居の集落跡も出土。鎌倉時代の荘園とされる「竹原庄」の跡も見つかった。
■平成21年度の発掘調査の成果
6軒の竪穴住居跡を検出した。05年度の調査で検出した2軒を合わせると、8軒の竪穴住居で集落を形成していることがわかった。これは、古墳時代中期~後期(6世紀半ば~7世紀前半)の竪穴住居跡で、この時期の集落は勝浦川以南では初の確認例である。
竪穴住居跡群は桑野川に沿って東西にやや長く分布している。出土遺物の時期差や位置関係などから、最大4軒ほどの竪穴住居跡で構成される規模の集落が建て替えを繰り返しながらおよそ100年間にわたって営まれてきたと考えられる。
竈は7軒の竪穴住居跡で残存しており、いずれも住居の北辺に造りつけられており概ね北西に主軸をもつ。いずれの竈も使用頻度の高さがうかがえる。
05度の調査で確認された竪穴住居跡のうちの1軒では鍛冶行為があったことが確認でき、さらに今年度確認された竪穴住居跡では砥石が出土したことから、集落内で小規模な鍛冶(村方鍛冶)が行われていたことと考えられる。
説明会が午前10時~正午に行われる。(雨天決行。)
宮ノ本遺跡は桑野川の左岸に位置し、桑野川および那賀川の堆積作用により形成された沖積平野上(標高3.3m前後)に立地する。
04年に始まった発掘調査では縄文時代晩期~弥生時代前期の竪穴住居跡が確認された。縄文時代晩期の住居内からはサヌカイト製の石器、弥生時代では磨製石斧や打製石庖丁など農耕に関連した遺物やミニチュア土器などが出土している。
また、鎌倉~室町時代の掘立柱建物跡を中心とした集落も確認された。これらは平安時代末に成立した「竹原庄」と関連づけられる集落が展開していると考えられ、さらに青磁・白磁などの輸入陶磁器や和泉・東播・備前などの交易をうかがわせる土器が出土した。
[参考:毎日新聞、徳島県埋蔵文化財センターHP]
竹原庄
竹原庄は左大臣藤原頼長(1120-1156)の領地であったが、頼長の死後、後白河上皇の後院領に編入された。阿波誌に「昔為 名藍地。方八町領 竹原領」とあり、仁和寺末の隆禅寺が管理した。
長寛元年(1163)9月25日付の文書(八桙神社寄進状)には「本家一院(後白河院)領家左大臣藤原基実(1143-1166)」とある。
承元3年(1209)8月、後白河院から前仁和寺門跡守覚法親王(1150-1202、後白河院の第2皇子、母は藤原季成の娘)に伝領された。
文永8年(1271)普門寺領となった大野本庄、宝荘厳院領の大野新庄外2庄を合わせて「竹原5箇庄」と言われるようになった。
他の2庄とは岩脇、南島、岡、中原とされており、もう一つは古庄、柳島の地としている。
[参考:阿南市HP]