歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

栃木県壬生町・吾妻古墳 純銀で装飾された刀子が出土

2010年12月17日 | Weblog
 栃木県埋蔵文化財センターは16日までに、壬生町と栃木市にまたがる6世紀後半の前方後円墳・吾妻古墳(全長128m)で、純銀で装飾された副葬品の刀子を発見した。 刀子(復元長さ30cm)は、前方部の石室付近で出土した。刀身手元部分に嵌められた約1・5cm幅の金具が銀製だった。
 同時に金メッキされた馬具の一部や銀メッキの太刀の金具も発掘され、埋葬された人物の力の大きさが分かるとしている。
 また、横穴式石室の大きさが、横幅が最大1.7m、全長8.4mであることが確認された。
 説明会は19日(日)午前10時半~11時半、と午後1時半~2時半に開かれる。
[参考:下野新聞、朝日新聞、栃木県埋蔵文化財センター]

過去のニュース・情報
 2010.1.13 栃木県壬生町・吾妻古墳、車塚古墳 17日に現地説明会
 2009.12.29 車塚古墳 2重の周溝を発見
 2009.2.10 藤井39号墳 直径35mの円墳と確認
 2008.12.13 吾妻古墳 全長128mを確認

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奈良市・春日大社 東塔跡の雨落溝を確認

2010年12月17日 | Weblog
 奈良文化財研究所(奈良市)と奈良国立博物館(同市)が16日、奈良国立博物館の敷地内にあり、平安時代に建てられ室町時代に焼失したとされる春日大社東塔跡の発掘調査で、「雨落溝」とみられる遺構の一部が見つかったと発表した。
 東北角にあたる場所からL字形の2本の溝が出土。幅約1mで、東西約7m分、南北約7・5m分を確認した。2本とも幅は約1m、溝の深さ約65cm。 溝の中には11~15世紀の土器と、12~14世紀の瓦が埋まっていた。溝の時期は2時期に分かれているが、埋まった年代は特定できないという。
 西塔は永久4年(1116)に関白藤原忠実が、東塔は保延6年(1140)に鳥羽上皇が建立し、それぞれ「殿下の御塔」「院の御塔」と呼ばれ、は応永18年(1411)の落雷で両塔とともに焼失したとされる。
 中世の絵画に描かれた東西塔を裏付ける発見。
 現地見学会は17~21日(午前10時~正午と午後2~4時)に開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞]
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奥州市・白鳥舘遺跡 12~13世紀初めの鍛冶炉や焼き窯の遺構が出土

2010年12月16日 | Weblog
 奥州市世界遺産登録推進室は15日、同市前沢区の白鳥舘(しろとりたて)遺跡の発掘調査で、12~13世紀初めの鍛冶炉や陶器「かわらけ」の焼き窯などの遺構が見つかり、同遺跡が手工業の拠点だった可能性もあると発表した。
 遺構近くからは中尊寺金色堂の藤原秀衡の柩に納められた水晶製数珠玉(国重文)によく似た数珠玉(直径約1.8cm)や、中国産陶磁器や国産陶磁器、かわらけ、銅の塊などが出土した。
 現地説明会が、19日(日)午前11時から開かれる。
[参考:岩手日報、河北新報]

過去の関連ニュース・情報
 2009.11.24白鳥舘遺跡 12世紀の建物跡4棟出土
 2008.11.29白鳥舘遺跡 初の「藤原氏時代」遺構
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岡山市・湊茶臼山古墳 後円部に中心埋葬の痕跡が見られず

2010年12月16日 | Weblog
 岡山市教委は湊茶臼山古墳(前方後円墳、5世紀初め、同市中区湊)の発掘調査で、竪穴式石室など中心埋葬の確認を目的に後円部墳頂の平坦面(直径約8m)を掘り下げたところ、中心部で直径約3m、深さ3・5mの巨大な盗掘坑が出土した。
 中心埋葬に到達する深さにもかかわらず、石室石材や棺を覆う粘土、副葬品といった埋葬施設の痕跡が全く見つからなかった。一方、墳頂平坦面の周縁部では、木棺を粘土で覆った埋葬施設2基(長さ7mと4・5m)が確認された。
 周縁部の埋葬は主(あるじ)の一族で、中心部は主のためのものだったが、異変などで埋葬されなかったのだろうと推測している。
 現地説明会が、23日(木・祝)午後1時半から3時まで開かれる。
[参考:山陽新聞]

過去の関係ニュース・情報
 2010.1.28湊茶臼山古墳 墳丘外で葺石遺構出土
 2008.11.5湊茶臼山古墳 現地説明会11月22日予定
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紀の川市・北山廃寺・北山三嶋遺跡 9世紀後半の全体構造がみてとれる平窯を発見

2010年12月16日 | Weblog
 和歌山県文化財センターが2年前から発掘調査を行っている「北山廃寺・北山三嶋遺跡」(紀の川市貴志川町北山)で、飛鳥時代から鎌倉時代にかけて使われていたとみられる瓦を焼くための窯5基が確認されたと発表した。
 北山三嶋遺跡で、7世紀後半のものとみられる傾斜がある溝のような登り窯(長さ約5.6m、幅約1.3m)2基と、中世(13~14世紀)の長方形の穴を掘ってできた平窯3基を確認した。いずれも寺院で使用される瓦を焼いた瓦窯とみられる。
 特に、9世紀後半に使われていたとみられる平窯は燃焼部(長さ2m、幅4m)と焼成室(長さ2m、幅1.5m)からなっており、薪を置く場所から窯内部まで形がはっきり残っており、県内で発掘された古代の窯としては唯一、全体の構造が見てとれるという。
 現地公開が17、18日の午後1時半から2時半に行われる。
[参考:読売新聞、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.2.20 紀の川市・北山廃寺・北山三嶋遺跡 14世紀の寺院用の瓦生産跡が出土

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慶南金海市・伽耶時代の大成洞古墳群の上から土城を追加して発掘

2010年12月15日 | Weblog
 金海市と慶南文化財研究院は14日、2008年に金海図書館の場所から発掘された統一新羅~高麗時代の土城に延長して繋がるとみられる一部分が、金海市大成洞464-3の大成洞伽耶時代古墳群の上からから出土したと発表した。土城は金海邑城(김해읍성)を取り囲んだもので、全体の長さは5,400mに達し、今回発掘された区間は約30m余り。
 特に今回、2008年発掘調査で確認されなかった土城内壁の状況が正確に現れて、金海邑城の規模が詳細に確認されたのが大きい成果だという。また、土城には城内排水のための施設を設けていた跡も見つかった。
 土城は朝鮮後期の金海中心地の姿をよく表している「金海府内地図」にも描かれており、金官伽耶滅亡以後も朝鮮末期までそのまま残って、伽耶文化を継続して見せていた証である。
 ほかに、伽耶時代木槨墓3基と朝鮮時代瓦窯1基、麻を茹でた窯2基も確認された。
[参考:聨合ニュース]
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宗像市・御嶽山遺跡 8~9世紀の奈良三彩破片などが出土

2010年12月14日 | Weblog
 宗像市教委は13日、福岡県内最大の島である大島(筑前大島、宗像大島とも)の最高峰・御嶽山(標高224m)の山頂にある御嶽山遺跡(みたけさんいせき、宗像市大島)で、沖ノ島の祭祀遺跡の出土品と同じ8~9世紀の奈良三彩の破片など数千点が見つかったと発表した。
 奈良三彩は壺の底部などの破片28個で、最も大きなもので縦約8cm、横約4cm。他に滑石製の舟形や人形、鏡を模した有孔円板(直径約14cm)などが見つかった。
 沖ノ島と同時期に祭祀が行われていたことを示す貴重な発見としている。
[参考:毎日新聞、読売新聞]
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北九州市・城野遺跡 弥生時代中期~後期の工房跡が見つかる

2010年12月11日 | Weblog
 11月7日付読売新聞のニュースに続いて1ヶ月経過した本日11日、毎日新聞から新たなニュースがあった。
 おそらく11月に見つかった玉工房跡から、さらなる出土があったと思われる。
工房跡の時期は、弥生時代中期~後期としていたが、今回は終末期(2世紀末~3世紀)としている。
 また、2カ所の住居内の土中から水晶約900点と緑色の碧玉約100点が出土しているとし、数が900点も増えている。
 さらに、水晶は市内の山から、碧玉は山陰地方から運んできたとみられると石の産地も特定している。
[参考:毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
2010.11.7 城野遺跡 弥生時代中期~後期の工房跡が見つかる

 北九州市教委と市芸術文化振興財団は、城野遺跡(小倉南区城野)から勾玉や管玉を作った弥生時代中期~後期の工房とみられる遺構が見つかったと発表した。
 工房とみられる建物跡(約15㎡)の内部から勾玉や管玉の素材である水晶や碧玉を削ったときの破片が散乱した状態で100点以上、そして別の住居跡からは長さ2・3cm、厚さ1cmの勾玉や直径0・7cm、長さ1・5cmの完形の管玉が見つかった。
 今年度は昨年度に見つかった方形周溝墓の東側を調査し、工房や貯蔵穴3基、竪穴住居跡26棟、土坑墓5基、多数の弥生式土器が出土した。
[参考:2010.11.7読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.7.22 城野遺跡 弥生時代の石棺に人物像
 2009.11.17 城野遺跡 九州最大級の「方形周溝墓」が発掘
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甲州市・梶畑B遺跡 平安末期の住居跡が出土、於曽氏と関係か?

2010年12月10日 | Weblog
 甲州市教委と帝京大山梨文化財研究所が今年10月から行っている梶畑B遺跡(同市塩山熊野)の発掘調査で、平安時代末期の竪穴建物や土坑などが見つかった。平安時代末期から中世にかけての集落跡とみられ、同研究所などは「中世の土豪於曽氏と関係のある集落の可能性もある」として、詳しい調査を進めている。
 遺跡を約50cm掘り下げたところ、古墳時代前期や平安時代末期の竪穴住居跡が9軒、掘立柱建物跡1軒などが確認された。
 平安時代末期の遺構からは、儀式に使用されたとみられる柱状高台付土器が発見された。
 同遺跡は同市塩山下於曽にある中世の土豪屋敷「於曽屋敷」(注1)からも近く、当時、於曽郷と呼ばれた地域で、中世武士団につながる集落跡の可能性があるとしている。
 現地説明会が11日(土)午前10時半から開かれる。
[参考:山梨日日新聞]

(注1)於曽氏: 甲斐源氏一門の加賀美遠光の四男・光経がここの支配者となり於曽氏を名乗った。
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韓国陜川郡・三嘉古墳群 大規模共同墓地を発見

2010年12月10日 | Weblog
 東西文物研究院と慶南発展研究院歴史文化センターは6日に続いて9日、陜川三嘉古墳群(합천 삼가고분군)の発掘調査で、紀元前後頃木棺墓13基と4世紀後半頃木槨墓数10基、5世紀後半頃石槨墓数10基、そしてその直後に現れた大型封土を整えた高塚30数基を確認したと9日明らかにした。(注: 6日の発表と重複する部分があり。)
 このうち、大型封土墳墓は一人の埋葬施設もあるが円形や楕円形封墳に石を箱のようにして作った石槨2~7個を安置して蜂の巣形を構成した多槨式古墳と確認され、概ね丘陵頂上部に発見された。
 東西文物研究院が調査したM8号墳は、封墳中に石槨をどのように配置したのかがよくわかる。 この墓で発見された石槨7基は皆細長方形であり、1・2・3・5・6号石槨は主軸方向が南北だが4・7号墓はこれと正反対であった。
 また、石槨5基が発見されたM3号墳では1号石槨で鉄刃の三葉環頭大刀が出土した。
 紀元前後頃の木棺墓は、木棺は全部なくなっていたが、跡を見ると「ㅍ」字形に木棺を組んだと推定され、垂直に近く土地を掘った後に安置したと推定された。木槨墓中では、死体を埋葬する施設とは別に遺物だけを置く空間の副槨を設けた主副槨式様式も発見された。
 石槨墓は慶南発展研究院調査区域だけで、全50数基が発見されたのでこの一帯が三国時代には大規模共同墓地だったことがわかる。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2010.12.7三嘉面一部里・良田里から三国時代・伽耶集団の古墳?と三葉還頭大刀などが出土
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明日香村・越塚御門古墳 大田皇女の墓か、牽牛子塚古墳の隣で石室出土

2010年12月09日 | Weblog
 明日香村教委は9日、八角墳と確認され斉明天皇(594-661)と娘の間人(はしひと)皇女の合葬墓との見方が強まっている牽牛子塚(けんごしづか)古墳(明日香村)の隣で巨石をくりぬいた横口式石槨を見つけたと発表した。
 新発見の石槨は、牽牛子塚古墳の石室から約20m南東で出土し、同古墳と同じく入り口が南向きであった。巨岩をドーム状にくりぬいた天井石と、平らに整形した床石を組み合わせる構造だった。墳丘は崩れて残存せず、墳形や規模は不明。
 天井石の大半は後の時代に割られて、石材として持ち去られていた。村教委は地名をもとに「越塚御門古墳(こしつかごもんこふん)」と命名した。
 床石の大きさは東西約3m、南北約3.5m。棺を納める部屋の内寸は長さ約2.4m、幅約90cm、高さ約60cmだった。 石材は周辺で採取される石英閃緑岩で、石槨の総重量は推計80トン。 「鬼の俎(まないた)・鬼の雪隠」(7世紀中~後半の石槨)と同じ構造、石材だった。
 床面には天井石を組み合わせるほぞ穴が掘られ、一部に接着剤の漆喰が残存。南向きの入り口から少し西にずれて、石敷きの墓道(長さ4m以上、幅約1m)が設けてあった。周辺から、漆の破片や木質が付着した鉄くぎが数点出土し、漆塗り木棺が納めてあったとみられる。
 日本書紀の記述、「天智天皇6年(667)の春二月の壬辰の朔戊午(27日)。天豊財重日足姫(斉明)天皇と間人皇女とを小市岡上陵に合わせ葬せり。是の日に、皇孫大田皇女を陵の前の墓に葬す。(略)」(注1)とあり、斉明天皇の孫の大田皇女の墓との説が有力視されており、さらに今回の発見で、牽牛子塚の被葬者は斉明天皇と考えてほぼ間違いないと評価する声があがっている。
 越塚御門古墳は、牽牛子塚を築造した後にその基盤造成土を掘り込んで築いた痕跡があった。教委は当初から一体的に計画したのだろうとみている。
 現地見学会は11、12日の午前10時~午後4時に開かれる。

(注1):「日本書紀」(岩波文庫 1995)を参照
[参考:時事通信、共同通信、日経新聞、産経新聞、毎日新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 牽牛子塚古墳 墳丘を八角形に囲む石敷きを発掘 八角形墳と確認し斉明天皇陵と特定

牽牛子塚の隣で古墳発見=日本書紀と一致、大田皇女墓か―奈良・明日香村(時事通信) - goo ニュース
「斉明陵」隣に古墳と石室 日本書紀に一致、皇女の墓か(共同通信) - goo ニュース
牽牛子塚古墳は斉明天皇陵か、実証の小古墳発見(読売新聞) - goo ニュース
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宮城県涌谷町・城山裏土塁跡 小田郡家を守る三重土塁か?、

2010年12月09日 | Weblog
 涌谷町教委は、「城山裏土塁跡」で昨年から今年にかけて、奈良~平安前期(8~9世紀)の長さ450mにわたり二重、三重になった土塁構造を確認したと発表した。
 確認した三重土塁は、推定で幅、高さとも2~3mとみられる。最も内側の土塁は築地塀だったという。二重土塁の部分も土塁と築地塀の構成とみられ、三重土塁を合わせた幅は約20mになる。
 一連の土塁構造は以前、数百m東側で見つかった土塁跡に繋がるとみられ、総延長が1km以上になるのは確実という。
二重、三重の長大な土塁は、「蝦夷(えみし)」に対する堅固な備えとみられ、土塁の内側(南側)には所在地不明だった小田郡家の可能性があるとする。
[参考:毎日新聞]
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宇治市・西山古墳 6世紀後半の横穴式石室を発見

2010年12月09日 | Weblog
 宇治市が8日、墳形が不明だが直径10mの円墳と推定される西山古墳(同市小倉町)で6世紀後半頃の横穴式石室が見つかったと発表した。
 石室の長さは羨道部を含め全長6・5m以上、玄室の幅は1・8m。天井石はなく、盗掘などによって失われたとみられている。
 石室比較的保存状態がよく、旧巨椋池をのぞむ場所に立地するなどから、「ムラ」の長とその家族の墓と考えられるという。
[参考:産経新聞]
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江原華川郡・居礼里遺跡 青銅器時代の多数の住居跡と百済墓とみられる三国時代横穴式石室墳1基が見つかる

2010年12月07日 | Weblog
 (財)韓白文化財研究院は7日、江原華川郡居礼里の北漢江沿い約7万㎡を調査した結果、青銅器時代とみられる住居跡43基と同時代の竪穴10基、溝状遺構2基、そして三国時代横穴式石室墳1基などを確認したと発表した。
 青銅器時代住居跡では、青銅器時代前期から中期に至る赤色磨硏土器と無文土器、孔列文土器、突帶文土器等の土器類と一緒に斧、刃物、矢尻など石器類が収集された。
 各住居跡の重複が激しい点からみると、相当な期間の中で、繰り返して住居が形成されたらしい。
 唯一発見された三国時代石室墳は墓室が平面方形で、南北方向に長軸を設け、その南側壁面東側に偏った地点に通路を設けた横穴式石室墳であった。出土遺物は木棺や木槨を組むのに使った釘があったが、内部遺物は全部盗掘された可能性が大きい。墓室内に棺をのせる屍床台がなく、底には川石を敷きその上にさらに板石を敷いていた。 百済墓である可能性が高いとみている。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ユース・情報
 2010.11.4 華川・原川里遺跡 住居跡から馬具類・武器類が多量に出土、大規模百済の村遺跡は辺境前哨基地?
 2010.9.15 華川・原川里遺跡 200年代の大規模百済の村遺跡を発掘

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 原川里遺跡は、3-4世紀頃漢城百済期には華川一帯は、北あるいは西北側の楽浪、高句麗、靺鞨との境界地域であり、百済の西北方地域進出のための橋頭堡(きょうとうほ)であり、軍事前哨基地であった可能性があるとしていた。
 居礼里遺跡は、原川里遺跡に対して北漢江の東の対岸にあり、東南方向に約2.5kmの距離にある。主に青銅器時代前期~中期の遺構が多いが、三国時代横穴式石室墳1基が見つかっている。これは百済墓である可能性が高いとしている。


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韓国慶南陜川郡・三嘉面一部里・良田里から三国時代・伽耶集団の古墳?と三葉還頭大刀などが出土

2010年12月07日 | Weblog
 慶南発展研究院歴史文化センターは6日、陜川郡三嘉面(합천군 삼사면、注1)一部里・良田里に対する遺跡発掘調査で、
 青銅器時代の石棺墓4基と石蓋土壙墓(석개토광묘)1基
 原三国時代の木棺墓13基
 三国時代の木槨墓33基、石槨墓120基、封土墳30基
 朝鮮時代建物跡
と多くの遺物を発掘したと発表した。
 特に、原三国時代木棺墓は西部慶南地域で初めて発掘され、考古学界の注目を浴びている。
 他に、発掘された三国時代の封土墳は直径が30~40mで、一般の封土墳より規模が大きく計500基を越えると見られ、文化センターはここが伽耶集団の最高支配者層墓地と推定している。
 封土墳と共に、三葉還頭大刀など最高首長層を現わす装飾大刀が出土した。
 木槨墓と石槨墓では高杯、器台、器蓋、大刀など鉄器類と首飾り、ガラス玉など装身具なども多量に出土した。
[参考:聨合ニュース]

(注1) 삼사면は삼가면(三嘉面)で、一帯が三嘉古墳群(삼가 고분군)のことか。

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