第1章
1 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は初めに神と共にあった。
3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
ことばの働きを考える時、いつもこの部分を思い出す。新約聖書ヨハネによる福音書冒頭である。
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言語(げんご,英:Language)とは、コミュニケーションのための記号の体系である。
狭義には人間の音声による音声言語を指すが、広義には身振りなど音声以外の要素も含む。また、動物間のコミュニケーションや、コンピュータに指示するための記号体系を指す場合もある。
英語や日本語や中国語のように自然発生的に生まれた言語を自然言語と呼び、これに対して人為的に創作された言語を人工言語と呼ぶ。
自然言語は、母語とする人々の存在を失うと使用されなくなり死語(廃語)と呼ばれる。
記号(きごう,英:Sign)
記号それ自体は、紙の上のインクや造形された物体、空気の振動などでしかないが、人間がこれらを何らかの意味と結び付けることにより記号として成立する。そして記号は、他の記号と共にまとまった集合体となったり、あるいは相互に作用し合ったりして、何かを指し示す。
出典:Wikipedia日本語版
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人は一日にどれほどの画像情報と向き合うのだろう。24時間中8時間程度の睡眠を除くと、16時間は起きていることになる。比較することはできないが、例えばビデオカメラを回しっぱなしにすると、いったいどの程度の動画(連続した静止画)が記録されるのだろう。起きている間、目に特に障がいがなければ、常に何かが「見えて」いる。ヒトはそういう映像取り込みのシステム(目とそれを処理する脳)を持っている。
目から入った画像に、何があるかなぜわかるのだろう。そんなことを考えることがある。例えば、職場の机の上には、仕事に使うものがたくさんおいてある。教科書、参考書、辞書、資料ファイル、PC、ノート、筆記具たくさん、時計等である。それらがそこにあると、わかるのはなぜだろう。
「見えているから?
どうも、そんなに単純な話しではないように思える。
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「わかる」とはなんだろう。
存在が確認できることだろうか。確認はどうしてできるのだろう。わかったようでわからない。
僕の机の上には、業務用PCがある。それを写真に撮り、江戸時代の人に見せたら、それが何かわかるだろうか。何かがあるのはわかるだろう。もちろん名前は知らないはずだ。机の上から動くものかどうかも、見ただけではわからないかもしれない。ひょっとしたら、何かがあるのも理解できないのではないか。
僕たちはPCは当然動かせるものだと思っている。机と一体化していないのもわかっている。でも、なぜわかっているのだ。
「経験から?
そうだろうか。
その経験はどのように蓄積されるのだろう。
こんなことを最近よく考える。ふと思った。それは、名前がついているからではないか。
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机の上においてあるPC。それを写真にすると、触ることはできない。
知識がなければ、一枚の写真に写っているものが何なのか、区切りはどこなのかわからない。わかると思っているのは、これまでの学習で、様々な情報の蓄積があるからだろう。でも、情報のない段階から、身の回りのもの一つ一つを理解するこことができるのは、ものには名前がついているから。そんな気がする。
一枚の写真から何かを切り取るナイフ、はさみの役割をするのがことば(名前、名詞)ではないか。切り取ったもの(情報)に付箋(のようなもの)を貼り、何処か箱(のようなもの、場所)に入れて整理する。
同じ名前のものは同じ箱に入れる。
違う名前でも形状に似たところがあれば、同じ箱に入れて、「A」と「A'」は名前は違うけど、同じものを示すのではないかと類推して整理する。
箱がどんどん増えていく。自分で集める場合もあれば、周りのヒトから与えられることもある。それがたくさん集まり、Trials and Errorsを経て、体系化していく。この作業のいちばん最初、一丁目一番地が「名前」なのではないか。
なんとなく、そんな気がする。
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一般解説書、ないかな。